堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=

アメンバー登録したら出来てしまったブログですので、ここには何も掲載しないと思います。←と言いましたが、私家版のブログにしました。タイトルも設定しました。

このブログの閲覧はあなたの精神の健康を損なう虞があります。


 年寄りは気短です。すぐに腹を立てます。ブログの記事を書いていたりすると、いろいろ考えている内に沸々と腹が立って来ることがあります。日常生活でも同様です。
 物言わざるは、腹膨るる思いとも言います。そんなことから、このブログは、腹立ちまぎれの暴言、妄言、罵詈雑言を並べ立てることにしました。
 これは全く私の精神衛生管理のためブログです。だから、読まないで下さい。

 堪忍袋の緒が切れて、そこら辺に害毒をまき散らさないようにと思っています。



 私のブログの本籍は→ここです。


 また、荒尾競馬を愛し、その存続を願う人々が共同執筆している

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 番外編その2は、こぼれ話を2話のつもりであったが、前回、中央競馬の騎手養成施設について触れたので、まず地方競馬の騎手養成施設について述べる。



<地方競馬教養センター> 昭和44年6月2日撮影MKT691X-C11-6



地方競馬教養センター


 昭和37年の競馬法改正により、新たに地方競馬全国協会が設立され、騎手の養成は同会の業務とされた。地方競馬教養センターは、これに基づく地方競馬の騎手養成施設である。

 それ以前は騎手の免許は各地方競馬主催者の事務であって、その実態は不明である。更に言えば中央競馬(国営競馬)と異なり地方競馬では「調教騎手」であり、調教師と騎手が分離されていなかった。


 このような中で関東甲信地区の地方競馬場の主催者は、一部事務組合である関東地方競馬組合を組織し、調教専門の調教騎手の認定(調教師認定)、騎手講習所を設置しての騎手養成等主催者の事務を共同処理していた。調教師認定、騎手講習所の制度は昭和29年から始められた様である。なお、関東地方競馬組合の騎手講習所は大井競馬場に移転した八王子競馬場跡地に設置された八王子牧場にあった。


 既述の通り昭和37年に至って、それまで主催者の事務(ただし主催者の内、都道府県である主催者の事務であったらしい)であった、馬主・馬の登録事務、騎手の免許事務等は、地方競馬全国協会の事務となった。更に関東地方競馬組合が行っていた審判員等の派遣業務も地方競馬全国協会の業務となり、関東地方競馬組合のほとんどの業務が国の特殊法人として設立された地方競馬全国協会の業務となったため、関東地方競馬組合は解散した。ただ、その大半の職員は地方競馬全国協会に移籍した。知識経験を有する関東地方競馬組合の職員なしには地方競馬全国協会は何事もなし得なかったに違いない。


 地方競馬全国協会に移管された騎手養成業務は、暫くの間(最長、八王子牧場が廃止された昭和40年まで)は、関東地方競馬組合の騎手講習所のあった八王子牧場で行われたらしい。


 上の写真は地方競馬教養センターが移っている最古の写真である。その前の同地域の写真である昭和38年11月4日撮影のKT633YZ-C1-105 には、地方競馬教養センターは写っていない。

 昭和45年撮影のKT7010Y-C11B-19 では、馬場が拡張されているほか、新たな施設建物が認められる。最古のカラー写真は昭和50年撮影のCTO7533-C20-1 。最新の写真は昭和57年撮影のKT821X-C4-8 であり、その後に建設された厩舎や坂路の画像は無い。


 現在の厩舎は中庭付きの箱形厩舎2棟であるが、地方競馬場の廃止に伴い騎手養成人数が減ったことにより、訓練馬の必要頭数も減ったため、1棟は民間育成業者に貸し付けられている。その借り受けステーブルの馬房の幾つかは南関東の調教師が主催者から外厩としての認定を受けている。

 また、アジュディミツオーのドバイ遠征を契機として地方競馬のための国際検疫厩舎も設置され、日韓交流競馬・東京大賞典出走馬検疫に使用されている。そして、これらに合わせて調教用の坂路も設置された。

 

 馬場の1周は1100m。所在地は栃木県那須塩原市接骨木。


【付記】 関東地方競馬組合関連の叙述は、特別区競馬組合刊「大井競馬の歩み」・関東地方公営競馬協議会刊「関東地方公営競競馬協議会50年のあゆみ」、関東地方競馬組合刊「躍進10年」及び「昭和29年関東地方競馬」に依拠している。



<日本のサラブレッド生産黎明期の2大牧場>


・小岩井農場 昭和23年5月16日撮影USA-M1022-23


小岩井農場


 小岩井農場は明治24年1月1日に開設された。そして明治32年に小岩井の経営が三菱財閥の岩崎男爵家に移行した以後にサラブレッド生産を始めた様である。

 そのサラブレッド生産は、繁殖牝馬と種牡馬を輸入して始められたものであるが、ビューチフルドリーマー、フローリスカップ、アストニシメント、タイランツクヰイーンなど日本の基礎牝系となっている。また輸入種牡馬であるシアンモアは、岩手の重賞シアンモア記念にその名を残している。

 小岩井農場のサラブレッド生産は、戦後廃止された。


・下総御料牧場(三里塚御料牧場) 昭和21年2月13日撮影USA-M44-A-5VV-292

三里塚御料牧場



 下総御料牧場は、明治8年に内務省が設置した牧羊場・種畜場が明治18年に皇室財産に編成され、下総種畜場と称されたものである。下総御料牧場への名称変更は昭和17年に行われたが、繁殖牝馬種牡馬を輸入してのサラブレッド生産は昭和初年頃から行われた様である。

 その輸入牝馬は、小岩井農場と同様に日本の基礎牝系となっているが、小岩井農場の輸入牝馬はヨーロッパ系統であるが、下総御料牧場にはアメリカ系統が多い。また輸入種牡馬であるダイオライトは、船橋の重賞ダイオライト記念にその名を残している。
 下総御料牧場におけるサラブレッド生産は、戦後廃止された様であり、昭和44年、成田空港建設に伴い御料牧場は栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡波賀町に移転した。


 上の写真の真ん中に写っている円形馬場は、三里塚警察署南方の道路にその形状を残している。



 日本のサラブレッド生産の黎明期の2大牧場は、いずれも戦後にサラブレッド生産を止めた。いずれも占領政策・戦後改革の中でサラブレッド生産を取り止めたといえよう。

 小岩井農場は、農地解放で一部の用地が小岩井農場の手から離れ、また財閥解体・華族制度廃止で、農場経営が三菱財閥の岩崎男爵家から酪農会社の経営に変わった。

 下総御料牧場は皇室財産から宮内庁所管の国有財産に変わった。皇室財産は皇室経済の基礎として設定された財産で皇室経済のために運用されたものである(最大の皇室財産は木曾御料林といわれ、皇室はいわば最大の山林地主であった。)が、戦後改革によって皇室経済は国家予算の中に皇室費として計上されることとなった。



 それを言えば、戦後の競馬の制度も占領政策としての私的の独占禁止の結果でもある。それまで政府の特許を受けた団体だけが競馬を開催できたことを改め、国及び地方公共団体のみが競馬を開催出来ることとしたのである。


 戦後の競馬が官業とされたため(国営競馬は、後に国の特殊法人である日本中央競馬会の経営する競馬となったが、官業であることに変わりは無い)、元来が多大な固定資産投資を必要とする競馬産業には、民間資本を注入することが出来なくなってしまった。従って、新たな固定資産投資には自己資本を充てる以外の方法が無くなってしまった。(ただ地方公営企業法第18条の規定に基づく地方公共団体の出資、第23条の規定に基づく償還期限を定めない起債という2つの方法はある。なお、この場合にはいずれも借入資本金として経理すべきものと解する。地方公共団体からの借入及び償還期限のある起債は、たとえそれが建設改良のためのものであっても固定負債として経理すべきものと解すべきである。)

 多大な固定資産投資を必要とする競馬産業における投資経費の調達は、借金をするか或いは自己資本としての内部留保を日頃蓄えておくかという2つの方法しか無いとしても、内部留保を厚くするためにはそれ相応の大きな経営状況下に無ければできず、それが十分に出来るのは中央競馬くらいであろう。あれだけの売り上げがあれば利益の絶対額もそれなりに確保できよう。たとえ第一国庫納付金として売得金の10%を、更に第二国庫納付金として剰余金の半額を国庫に納付しなければならないとしても、元々の売上額の多さが地方競馬と異なる巨大企業であり、小零細企業たる地方競馬と異なる。更に言えば地方競馬の場合には利益を生じた場合にその利益の内のどれだけを開催権を持つ地方公共団体に利益分配すべきかという定めも無い。大井は、ナイター競馬の開始によって売り上げと利益が飛躍的に伸びた時代に、利益の半額を配分し、残りの半額は内部留保するという内規を定めた。しかし、地方自治法の会計制度をとっていたため、内部留保金で新たな投資を行っても減価償却費として留保できなかったために結果としてその後の売り上げ低下により内部留保金額を減らしてしまった。

 


【付記】 小岩井農場の既述に関しては主として小岩井農場のホームページ に、下総御料牧場依拠しているの既述に関しては主として宮内庁ホームページ に拠っている。



<松本競馬場の怪>

 下の写真は、新松本競馬場の項で紹介した昭和30年9月5日撮影。USA-M1147-N-20 である。


松本競馬場


 ところで、この地域のの昭和30年以前の航空写真は、昭和23年撮影のものである。その中で明瞭度の高いものが、昭和23年9月19日撮影USA-R1785-7 であり、下の写真である。


怪松本競馬場


 この写真には、昭和30年撮影の写真に写っている馬場の600mほど南に馬場の痕跡らしきものが写っているが昭和30年撮影の写真の馬場は認められない。

 ところで、松本競馬場の項で紹介したとおり、競馬規程及び地方競馬規則に基づく競馬が行われた松本競馬場は松本市笹部及び浅間温泉であり、安曇野市では無い。そして、松本競馬場では軍馬資源保護法及び地方競馬法に基づく競馬は開催されておらず、競馬法に基づく競馬が開催されたのは昭和25年からである。
 そうとすると、昭和23年撮影の写真に写っている馬場はいったい何なのか。不思議である。或いは記録に残っていないヤミ競馬の跡なのか。何とも奇っ怪なことである。

 番外編その1は、競馬場外に設置された厩舎・調教施設、即ちトレーニングセンター(トレセン)である。



<門別軽種馬トレーニングセンター> 昭和58年9月23日撮影HO835-C6-3


門別トレセン



  門別トレセンは、北海道営競馬のトレーニングセンターとして、昭和57年11月13日に開設された。

 馬場の1周は、1600m


  昭和60年撮影のHO853-C12-4 では、厩舎が増設されている。

  門別トレセンは、その後競馬場への改修工事を行い、平成9年12月に門別競馬場は竣工した。



<美浦トレーニングセンター> 昭和54年9月5日撮影CKT793-C2-35


美浦トレセン


 美浦トレーニングセンターは、中山競馬場及び東京競馬場の厩舎を集約して、昭和53年4月に開場した。

 上の写真では、北馬場の一部が写っていない。同日撮影のCKT793-C1-35 では、逆に南馬場が写っていない。

 北馬場は、1周1800m。南馬場は、1周2000m。平成5年10月800mの坂路を新設。この坂路は平成16年11月に1200mに延長された。


 坂路新設後の写真は、CKT943X-C6B-4 。坂路延長後の写真はCKT20053X-C7-18

:現在地は、茨城県稲敷郡美浦村美駒、興津、稲敷市江戸崎



<境町トレーニングセンター> 昭和50年11月3日撮影KT7515Y-C5-3


境町トレセン


 境町トレセンは、高崎競馬場の厩舎・調教施設として昭和50年4月1日開設。高崎競馬場廃止と共に廃止。跡地は高崎競馬の厩舎関係者が施設と共に借り上げ、民間の育成施設としてそれぞれステーブルを開設している。一部のステーブルは、南関東の調教師がそれぞれの主催者から外厩としての認定を受けてもいる。


 上の写真は最古のものであるが、5年後撮影のCKT801-C9B-6 の方が縮尺が大きく鮮明。最新の写真は平成22年撮影のCKT20101-C19-44


 馬場の1周1200m。現在地は群馬県伊勢崎市境上渕名



<小林牧場分厩舎> 昭和54年12月14日撮影CKT793-C13B-3

小林牧場


 小林牧場分厩舎は、大井競馬場の分厩舎である。


 小林牧場そのものは、大井競馬場に移転した八王子競馬場跡地の八王子牧場周辺が都市化されたことから、同牧場から昭和40年4月1日に移転、開設されたものである(同時に八王牧場は廃止)。

 「大井競馬のあゆみ」には小林牧場設置の目的として、次の3つが挙げられている。

  1 2,3才馬(ちゅうせん馬、奨励馬、一般馬)の育成ならびに調教

  2 大井在厩古馬の休養及び錬成

  3 大井厩舎の分厩

 ただし、当初から分厩舎が設置されていなかったようである。一説によると昭和55年に初めて分厩舎が設置されたという。確かに昭和55年8月31日に第1期増設工事として厩舎増築、馬場拡張工事が完了している。そして、引き続き昭和56年12月17日には第2期増設工事が完成して小林分厩舎落成式が行われている。。上の写真は第1期工事後の直近の写真である。昭和55年2月撮影の写真CKT7413-C2-26 では厩舎増築、馬場拡張の様子を見ることが出来ない。なお、小林牧場開設当時の写真はMKT653X-C7-10


 その後、小林牧場の育成、休養業務は、平成14年度をもって廃止された。また、平成22年3月1日にポリトラックの坂路が落成した。この坂路施設の利用は全地方競馬に開放され、その利用ための滞在厩舎も設置された。

 最新の写真は、CKT20083-C17-56 。坂路設置後の写真は、未だ国土地理院ホームページに無い。


 馬場の1周は1100m、坂路は全長1050m、坂路部分400m。所在地は千葉県印西市小林、物木、平岡



<白井分場> 昭和37年5月13日撮影MKT621-C16-7


白井分場


 白井分場は中山競馬場白井分場とも呼ばれ、中山競馬場の分厩舎である。私が競馬を始めた昭和46年当時には、白井には若手の調教師が多く互いに切磋琢磨して強い馬が出ると評判になっていた。 

 開設年未詳。この地域の空中写真は昭和30年撮影のUSA-M68-29 以後は上の写真まで無い。馬場の1周も不詳。


 昭和41年撮影のMKT664-C2-21 に至ると初めて調教馬場に外回りコースが認められる。そして昭和45年撮影のMKT704X-C3-10 になると、内回りコースが無くなっている。


 白井分場は昭和53年4月の美浦トレーニングセンター開場と共に中山競馬場の分厩舎としては廃止された。

 跡地は、昭和54年に東京都世田谷区の馬事公苑の白井分苑となり中央競馬の騎手養成業務の一部が移転してきた。昭和57年には騎手養成業務のすべてが移管され白井分苑は、競馬学校に改組された。

 現在、ここには国際検疫厩舎も設置されている。


 白井分苑となった頃の写真は昭和54年撮影のCKT793-C16A-8 。競馬学校となった頃の写真は昭和59年撮影のCKT846-C5-7 。最新の写真はCKT20083-C23-32


 所在地は、千葉県白井市根



<野田厩舎> 昭和44年5月15日撮影MKT694-C4B-6



野田トレセン



 野田厩舎は、浦和競馬場のトレーニングセンターとして昭和43年4月1日開設と地方競馬施設概要平成8年度版にいうが、昭和42年4月23日撮影のKT678Y-C3-16 に初めて厩舎と不鮮明であるが馬場らしきものが認められる。ただし、馬場は造成中の様にも見える。これ以前の写真には馬場も厩舎も無い。


 次の年代の昭和47年撮影のKT727Y-C2--14 では、馬場が延長されて、現在と同じ馬場になっている。最新の写真は平成25年撮影のCKY20127-C9-41  


 馬場の1周は1100m。現在地は、埼玉県さいたま市緑区上野田



<小向厩舎> 昭和30年1月21日撮影USA-M68-87



小向トレセン


 小向厩舎は川崎競馬場のトレセン。昭和25年1月25日開設。

 馬場の1周は1200m。所在地は、厩舎が神奈川県川崎市幸区小向仲野町、馬場が同区小向の多摩川堤防内。


 上の写真は小向トレセンが写っている最古のものである。

 最新の写真はCKT201010-C3--11

 


<弥富トレーニングセンター> 昭和54年8月8日撮影CB791Y-C6-4


弥富トレセン


 弥富トレーニングセンターは、名古屋競馬場のトレセンとして昭和52年3月1日に開設。

 馬場の1周は1100m。所在地は愛知県弥富市駒野町。


 上の写真は、弥富トレセンが写っている最古のものである。なお、昭和50年11月1日撮影のCCB7528-C42-39 は、工事中と思われるが、明瞭な画像である。また完成後直近の明瞭な画像はCCB823-C3A-34

 最新の写真はCCB20072-C15-38



<栗東トレーニングセンター>昭和45年10月6日撮影MKK701X-C7-3


栗東トレセン


 栗東トレーニングセンターは、中京、京都、阪神競馬場の厩舎を集約したトレセンである。その開場式は、昭和44年11月に行われたが、京都競馬場の厩舎からの移動が完了したのは翌月である。


 馬場の1周は2200m、坂路は1085m。所在地は、滋賀県栗東市御園
 坂路が初めて認められる写真は昭和62年撮影のCK871-C7-39 。平成4年撮影のKK922X-C1A-3 に至って初めて坂路が延長された画像が認められる。

 最新の写真はCKK20101-C44-3



<西脇馬事公苑> 昭和55年10月1日撮影CKK802-C2-25



西脇トレセン



 西脇馬事公苑は、兵庫県競馬組合のトレセンであり、園田競馬場、姫路競馬場に次ぐ第3の厩舎として、昭和55年4月1日に開設された。

 平成6年撮影のKK941Y-C1-25 に至って、厩舎が増設されたことが認められる。最新の写真は平成21年撮影のCKK20093-C7-25


 馬場の1周は1000m。所在地は兵庫県西脇市合山町。



【付記】 以上の記述は、主として、地方競馬全国協会の非公刊資料である「地方競馬施設概要」その平成8年度版、特別区競馬組合刊「大井競馬のあゆみ-特別区競馬組合50年史」および日本中央競馬会のホームページに依拠している。


謹啓 陽春の候 各位益々御清祥のことと 御慶び申し上げ候


陳者 拙儀 今般年金生活に入り申し候

毎日が日曜日に御座候故 閑暇已は ふんだんに出来たる可く候

是迄 購入能はざりし地方競馬の馬券抔も 些かばかり購う而 無聊を慰め度 存じ居り申し候


各位の日頃の御愛顧 誠に有難く忝く候

向後共 旧に変らぬ御愛顧の程 宜敷 御願ひ申し上げ奉り候


追而

 時節柄 御自愛専一 お頼み申し上げ奉り候


恐惶謹言 頓首九拝 

の売上げは10億円を超えた。


船橋の売上げが1日10億円を超える日は、そうはない。今年JPN3マリーンカップの売上げでも8億4千万円である。

勿論、習志野きらっとスプリントの開催日は祝日ではある。今年はゴールデンウィークウィークの5月1日の開催となった浦和のしらさぎ賞は、地区重賞であるにもかかわらず8億5千万円で、昨年のJPN浦和記念6億7千万円を上回った様に、開催日程の相違による影響は、確かに大きい。


しかし、それだけであろうか。だとしたら、地方競馬の経営も簡単なものである。他地区、他場を出し抜いて、良い日取りを取れば足りるはずである。


ハッピイマンデーは、JRA開催の翌日で、売れないというのが、地方競馬の通念といえる。而かるにもかかわらず、何故に習志野きらっとスプリントが、あれだけの好成績を納めたのであろうかということをもう一度考え直す必要がある。

その特徴的であると伴にこれまでに無かった傾向として、当日は初めてIPATの売上げがSPATを超えたことを重視しなければならないであろう(当日は通常の即PATだけではなくAPAT発売があったことはさておくが)。


私は、ラブミーチャンというスターホースが、地方のアイドルホースに止まらないJRAファンも含めた全国的アイドル・スターホースが参戦したことにこそ、好成績の根本の要素がある思量する。そうでなければSPATとIPATの逆転は起こらなかったと考えるからである。


つまるところ、競馬の振興策には即効薬など無く、如何に強く、かつ、ファンを引きつける多くの馬を、競馬関係者が創り、育てていくかという地道な努力しか無いと思うのである。

初日。入場6,700人、売得金180,576,000円。


本年度4~7月の、兵庫の1日平均は、入場2,867人、売得金175,653,600円。

園田だけに限ると、1日平均は、入場3,411人、売得金188,336,000円。これにはGW開催、JPN2の兵庫チャンピオンシップが含まれていますから、その金ナイターは、成功といえるのではないでしょうか。

新たに導入されたワイルドカードの内、各場2位以外の委員会推薦枠2騎手、どのように選ばれるのですかね?興味津々です。



他場遠征期間があって、自場での勝ち星がすくない、K場のY騎手と、同じような事情にある漂白いのU騎手ですかね?

まさか、女性騎手の1,2位ということは、、、、、まあ無いでしょうね。

ピンぼけ等もあるが、ご容赦を



・戦場へと赴く・・・・・馬と、厩務員さんと、騎手候補生


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌1


・戦場から帰る


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌2


・戦い


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌3


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌4


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌5


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌6


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌7


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌8


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌9


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌10


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌11



・雲仙、多良岳、四ツ山

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌12

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌13


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌14


・厩舎


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌15


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌16
     君は、こっちを見つめ、私に何を言いたいのか?


・引き運動場・角馬場

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌17


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌18


・戦場

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌19

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌20

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌22


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌23


・人ひと人、車くるま車

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌24

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌25

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌26

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堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌28

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堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌33

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌34

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌35
 当日は、熊本に泊まったのだが、NHKのローカルニュースで入場者は約9000人とのこと。今年の大井の東京盃が9075人。荒尾では人であふれかえっていたはず。あまりにももの凄い混雑で写真も撮れなかったが、発売窓口は長蛇の列であった。


・テレビ中継車のアンテナ
堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌35_2

・最後の戦いへ

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌36

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌37
    親類の方でしょうか、小学生ぐらいの女の子が「お姉ちゃん、頑張って」と

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌38

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌39

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堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌41

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌42

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌43

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌44

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌45

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌46

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌47
役目を終えて



・最後の勤め


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌48


・勤めを終えて


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌49

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌50


・未だ、仕事中

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌51


・最終セレモニーの画像は無い。写真は撮らなかった。

 市長の挨拶、拍手はほとんど無し。野次、あまり無し。ただ、2~3人のじいさんが野次った。市長が居なくなっても市長を野次り続けたが、岩永騎手が涙の挨拶をしたら、「千明頑張れ、佐賀に応援に行くぞ」と。

市長が居なくなってからは、拍手の渦だった。



・戦いすんで、日が暮れて
堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌52

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌53

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌543


・戦いすんで日が変わり、役目を終えた諸設備が静かに独りたたずんで、冷たき海風吹き渡る。
堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌55

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌56

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌57

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌58

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌589

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌59

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾挽歌60


【付記】 文章は、改めてアメンバー限定で書きたい。差し障りのなさそうな部分の抄録は、本籍ブログで公開するつもりである。