番外編その2は、こぼれ話を2話のつもりであったが、前回、中央競馬の騎手養成施設について触れたので、まず地方競馬の騎手養成施設について述べる。
<地方競馬教養センター> 昭和44年6月2日撮影MKT691X-C11-6
昭和37年の競馬法改正により、新たに地方競馬全国協会が設立され、騎手の養成は同会の業務とされた。地方競馬教養センターは、これに基づく地方競馬の騎手養成施設である。
それ以前は騎手の免許は各地方競馬主催者の事務であって、その実態は不明である。更に言えば中央競馬(国営競馬)と異なり地方競馬では「調教騎手」であり、調教師と騎手が分離されていなかった。
このような中で関東甲信地区の地方競馬場の主催者は、一部事務組合である関東地方競馬組合を組織し、調教専門の調教騎手の認定(調教師認定)、騎手講習所を設置しての騎手養成等主催者の事務を共同処理していた。調教師認定、騎手講習所の制度は昭和29年から始められた様である。なお、関東地方競馬組合の騎手講習所は大井競馬場に移転した八王子競馬場跡地に設置された八王子牧場にあった。
既述の通り昭和37年に至って、それまで主催者の事務(ただし主催者の内、都道府県である主催者の事務であったらしい)であった、馬主・馬の登録事務、騎手の免許事務等は、地方競馬全国協会の事務となった。更に関東地方競馬組合が行っていた審判員等の派遣業務も地方競馬全国協会の業務となり、関東地方競馬組合のほとんどの業務が国の特殊法人として設立された地方競馬全国協会の業務となったため、関東地方競馬組合は解散した。ただ、その大半の職員は地方競馬全国協会に移籍した。知識経験を有する関東地方競馬組合の職員なしには地方競馬全国協会は何事もなし得なかったに違いない。
地方競馬全国協会に移管された騎手養成業務は、暫くの間(最長、八王子牧場が廃止された昭和40年まで)は、関東地方競馬組合の騎手講習所のあった八王子牧場で行われたらしい。
上の写真は地方競馬教養センターが移っている最古の写真である。その前の同地域の写真である昭和38年11月4日撮影のKT633YZ-C1-105 には、地方競馬教養センターは写っていない。
昭和45年撮影のKT7010Y-C11B-19 では、馬場が拡張されているほか、新たな施設建物が認められる。最古のカラー写真は昭和50年撮影のCTO7533-C20-1 。最新の写真は昭和57年撮影のKT821X-C4-8 であり、その後に建設された厩舎や坂路の画像は無い。
現在の厩舎は中庭付きの箱形厩舎2棟であるが、地方競馬場の廃止に伴い騎手養成人数が減ったことにより、訓練馬の必要頭数も減ったため、1棟は民間育成業者に貸し付けられている。その借り受けステーブルの馬房の幾つかは南関東の調教師が主催者から外厩としての認定を受けている。
また、アジュディミツオーのドバイ遠征を契機として地方競馬のための国際検疫厩舎も設置され、日韓交流競馬・東京大賞典出走馬検疫に使用されている。そして、これらに合わせて調教用の坂路も設置された。
馬場の1周は1100m。所在地は栃木県那須塩原市接骨木。
【付記】 関東地方競馬組合関連の叙述は、特別区競馬組合刊「大井競馬の歩み」・関東地方公営競馬協議会刊「関東地方公営競競馬協議会50年のあゆみ」、関東地方競馬組合刊「躍進10年」及び「昭和29年関東地方競馬」に依拠している。
<日本のサラブレッド生産黎明期の2大牧場>
・小岩井農場 昭和23年5月16日撮影USA-M1022-23
小岩井農場は明治24年1月1日に開設された。そして明治32年に小岩井の経営が三菱財閥の岩崎男爵家に移行した以後にサラブレッド生産を始めた様である。
そのサラブレッド生産は、繁殖牝馬と種牡馬を輸入して始められたものであるが、ビューチフルドリーマー、フローリスカップ、アストニシメント、タイランツクヰイーンなど日本の基礎牝系となっている。また輸入種牡馬であるシアンモアは、岩手の重賞シアンモア記念にその名を残している。
小岩井農場のサラブレッド生産は、戦後廃止された。
・下総御料牧場(三里塚御料牧場) 昭和21年2月13日撮影USA-M44-A-5VV-292
下総御料牧場は、明治8年に内務省が設置した牧羊場・種畜場が明治18年に皇室財産に編成され、下総種畜場と称されたものである。下総御料牧場への名称変更は昭和17年に行われたが、繁殖牝馬種牡馬を輸入してのサラブレッド生産は昭和初年頃から行われた様である。
その輸入牝馬は、小岩井農場と同様に日本の基礎牝系となっているが、小岩井農場の輸入牝馬はヨーロッパ系統であるが、下総御料牧場にはアメリカ系統が多い。また輸入種牡馬であるダイオライトは、船橋の重賞ダイオライト記念にその名を残している。
下総御料牧場におけるサラブレッド生産は、戦後廃止された様であり、昭和44年、成田空港建設に伴い御料牧場は栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡波賀町に移転した。
上の写真の真ん中に写っている円形馬場は、三里塚警察署南方の道路にその形状を残している。
日本のサラブレッド生産の黎明期の2大牧場は、いずれも戦後にサラブレッド生産を止めた。いずれも占領政策・戦後改革の中でサラブレッド生産を取り止めたといえよう。
小岩井農場は、農地解放で一部の用地が小岩井農場の手から離れ、また財閥解体・華族制度廃止で、農場経営が三菱財閥の岩崎男爵家から酪農会社の経営に変わった。
下総御料牧場は皇室財産から宮内庁所管の国有財産に変わった。皇室財産は皇室経済の基礎として設定された財産で皇室経済のために運用されたものである(最大の皇室財産は木曾御料林といわれ、皇室はいわば最大の山林地主であった。)が、戦後改革によって皇室経済は国家予算の中に皇室費として計上されることとなった。
それを言えば、戦後の競馬の制度も占領政策としての私的の独占禁止の結果でもある。それまで政府の特許を受けた団体だけが競馬を開催できたことを改め、国及び地方公共団体のみが競馬を開催出来ることとしたのである。
戦後の競馬が官業とされたため(国営競馬は、後に国の特殊法人である日本中央競馬会の経営する競馬となったが、官業であることに変わりは無い)、元来が多大な固定資産投資を必要とする競馬産業には、民間資本を注入することが出来なくなってしまった。従って、新たな固定資産投資には自己資本を充てる以外の方法が無くなってしまった。(ただ地方公営企業法第18条の規定に基づく地方公共団体の出資、第23条の規定に基づく償還期限を定めない起債という2つの方法はある。なお、この場合にはいずれも借入資本金として経理すべきものと解する。地方公共団体からの借入及び償還期限のある起債は、たとえそれが建設改良のためのものであっても固定負債として経理すべきものと解すべきである。)
多大な固定資産投資を必要とする競馬産業における投資経費の調達は、借金をするか或いは自己資本としての内部留保を日頃蓄えておくかという2つの方法しか無いとしても、内部留保を厚くするためにはそれ相応の大きな経営状況下に無ければできず、それが十分に出来るのは中央競馬くらいであろう。あれだけの売り上げがあれば利益の絶対額もそれなりに確保できよう。たとえ第一国庫納付金として売得金の10%を、更に第二国庫納付金として剰余金の半額を国庫に納付しなければならないとしても、元々の売上額の多さが地方競馬と異なる巨大企業であり、小零細企業たる地方競馬と異なる。更に言えば地方競馬の場合には利益を生じた場合にその利益の内のどれだけを開催権を持つ地方公共団体に利益分配すべきかという定めも無い。大井は、ナイター競馬の開始によって売り上げと利益が飛躍的に伸びた時代に、利益の半額を配分し、残りの半額は内部留保するという内規を定めた。しかし、地方自治法の会計制度をとっていたため、内部留保金で新たな投資を行っても減価償却費として留保できなかったために結果としてその後の売り上げ低下により内部留保金額を減らしてしまった。
【付記】 小岩井農場の既述に関しては主として小岩井農場のホームページ
に、下総御料牧場依拠しているの既述に関しては主として宮内庁ホームページ
に拠っている。
<松本競馬場の怪>
下の写真は、新松本競馬場の項で紹介した昭和30年9月5日撮影。USA-M1147-N-20 である。
ところで、この地域のの昭和30年以前の航空写真は、昭和23年撮影のものである。その中で明瞭度の高いものが、昭和23年9月19日撮影USA-R1785-7
であり、下の写真である。
この写真には、昭和30年撮影の写真に写っている馬場の600mほど南に馬場の痕跡らしきものが写っているが昭和30年撮影の写真の馬場は認められない。
ところで、松本競馬場の項で紹介したとおり、競馬規程及び地方競馬規則に基づく競馬が行われた松本競馬場は松本市笹部及び浅間温泉であり、安曇野市では無い。そして、松本競馬場では軍馬資源保護法及び地方競馬法に基づく競馬は開催されておらず、競馬法に基づく競馬が開催されたのは昭和25年からである。
そうとすると、昭和23年撮影の写真に写っている馬場はいったい何なのか。不思議である。或いは記録に残っていないヤミ競馬の跡なのか。何とも奇っ怪なことである。