ここ、アンマンに香田ホテルという名前のホテルがあります。
2004年10月30日 香田 証生さんがイラクで殺された。
自己責任という言葉で、片付けられた事件。
香田さんに対する日本政府の反応は、冷たいものだった。
その事件を知ってから、どうしても私は彼のことが忘れられなかった。
ずっと心の中にひっかかったまま。
彼がイラクに行ったことは、そんなに悪いこと?
彼は最も状勢が不安定なイラクに行った。
もし、あの時、香田さんのような人が100人 千人 1万人 10万人いたら。。。
イラクは今の状態とは違っていたはず。
イラク戦争はおかしいと訴えた人々がたくさんいた。
そして、香田さんのように、純粋で強い志を持った人は、あんな時期に行くのはバカだと言われた。
私は、その頃の日本が、世界がおかしいと本気で思った。
今回のパレスチナ問題についても、このまま パレスチナ人は殺され、レイプされ、略奪され 自爆していくのを見ていくしかない自分に腹がたつ。
世界中で起こっている様々な問題を知れば知るほど、つらく悲しくなる。
世界一周に出る前から、知っていたこと。
知れば知るほど、頭の中がごちゃごちゃになって、沈み込み、様々な問題を抱えながら、生活していくことに耐えられなくなり、飛び出した日本。
でも、現実を見ていても、結局何も出来ないで、違う土地に旅立たなければいけない。
長い目で見ることが出来なくなる。
だって、目の前で殺されていく人々を見る。目の前で連れて行かれる人々を見る。
こうしている間にも、多くの人々が苦しみ、殺されていく現実を見る。
耐えられない・・・
香田さんもそんな気持ちだったんだと思う。
イラク戦争反対を唱える人々がたくさんいるけれど、あの時、危険だからと、すぐに行く人はいなかった。
そんな中、イラクの人々のことを心から思い、危険を承知でイラクに渡って、殺されてしまった。
イラクに一人で行った彼の行動は軽率だったかも知れないけれど、私は一生忘れない。
イラクでは今でも多くの人々が、苦しんでいる。
世界では、同じようなことがたくさんおきている。
ここ、香田ホテルには、香田さんがイラクに行くその前の日に泊っていたホテルで働いていた従業員 サーメルさんがいます。彼は、香田さんがイラクに行く前の姿を知っています。イラク行きを止めれなかったことを悔やみ、一生忘れないと心に誓い、サーメルさんは、彼の家族に了解を得て、香田ホテルと名前を変えました。
そして、多くの日本人が彼を訪ねて、ここ香田ホテルに来ます。
今回、あわててイスラエルに行ったので、サーメルさんのことを日記に書けなかったし、ゆっくり話しを聞く時間もなかった。今回のイスラエルの事件で目を負傷した彼は無事に日本に帰りました。日本に帰って手術が必要ですが。ひどく心配していたサーメルさんとイスラエルにいる間に何度か彼の状態を知らせるために何度か連絡をとりました。そして、昨日イスラエルから帰ってきた私たちに、おかえりなさいと、言い、ネスカフェを入れてくれた。
サーメルさんに会うとほっとして、安らげた。いつも、お客さんが疲れた顔をして、香田ホテルに来るとサーメルさんが必ずネスカフェを入れてくれる。<彼のポケットマネーで買っている。>それを飲みながら、ダイニングで安らぐ旅人たち。
彼にとってはとてもうれしい瞬間だそうです。
彼はパレスチナ人。
イスラエルとなってしまった祖国には、おばがまだ取り残されています。もう祖国にもどれません。
彼の生い立ちを書いたノートがあります。
下記参照
http://www.sekaitabee.com/samel_history
さっき、日記に書いてもいい?って許可をとったサーメルさんと撮った写真
真ん中がサーメルさん!
サーメルブックには多くの感謝の言葉がつづられています。
私は今日インドに発ちます。
私は進みます。そして、日本でできることをします。長い目でみる。
私に出来るほんの小さなことをしに。半径一メートルから始めます。
香田さん ありがとうございました。サーメルさん ありがとうございました。
そして、イスラエルでいろいろ教えてくれたMさん ありがとうございました。
香田さんについてはこちら。
その日、2004年10月19日午後4時頃、その電話は鳴った。
「日本人があんたの所のホテルに行きたがっている、住所を教えてくれないか?」 アラブ人の男からだった。その5分後にアラブ人の男(タクシードライバー)と一緒にコーダはここクリフホテルにやってきたんだ。
コーダは始め、イラクの話などせず、ただ、「ドミトリーに泊まりたい。」と言ったので私は彼を部屋に案内したんだ。(ここら辺のやりとりは、 下川裕冶さんの本の記述と食い違いますが、 サーメル本人の話をそのまま書きます) 私は宿の宿帳に彼の名前を書いていた。すると突然彼が「今からイラクへ行きたい。どこからセルビスが出ているか教えてほしい」と言い出したんだ。私は「セルビスで行くのは危険過ぎる」と答えた。セルビスで行くのはツーリストくらいしかいないから狙われる危険が高いからだ。するとコーダは「I have to go」と言ったんだ。
理由を尋ねると、「イラクの子供達を助けたい…、イラクへ行って何が起こっているのか自分の目で見て、日本へ帰って人々に伝えたい…」と。私は「もし本当に行きたいのならバスでしか行けないよ」と言い、彼は「OK、今から予約してください」と言った。 私は本当に予約しようと思えば、その時すぐにできたけど、彼を止めるチャンスがまだあると思っていたから、「今日はもう遅すぎて予約できないよ」と嘘を付いた。彼は「じゃあ明日のバスを予約して下さい」と言って部屋に戻っていった。
コーダが部屋から出てきて、サンドイッチを買いに行って、レセプション裏のバルコニーで食べていたのが16:30頃。その後部屋に戻って、少ししたらロビーの本棚の前に立って情報ノートを見ていた。そしてすぐに部屋に戻っていった。(情報ノートとは、旅人が自分の通ってきた道を、 次の旅人の為に情報を残し伝える為のもの)彼の様子は他の旅行者と違って見えた。数十分後にまた部屋から出てきて、バルコニーで長い時間座って通りを眺めていた。私は彼の事が心配で、バルコニーへ行って話しかけたんだ。「まだイラクへ行きたいと思ってるの?」って。 彼は真剣な顔をして「Yes」と答えるだけだった…。
その時ホテルに泊まっていた他の日本人の男の一人に、コーダと話をしてくれるように頼んだんだ。日本人と話す事で、コーダがイラク行きをやめようと思ってほしかったから。 その人がバルコニーに行ってコーダと話しをしていた。私は何かジョークを言って彼を和ませようと、「まだ気持ちは変わらない?もし本当にイラクへ行ったら、アルジャジーラ(カタールの衛星テレビ局)に出る事になるよ?」と冗談のつもりで言ったんだ。もう一人の日本人は笑っていたけど、コーダは笑顔は見せなかった。少し怒ってしまったようだった…。
その後もコーダとその日本人は長い間話をしていた。二人が話し終わった後、その日本人が 「彼はイラクへどうしても行くと言っている。誰も彼を止める事はできないよ…。」と私に言った…。
次の日(10月20日)の朝、10時頃にコーダは起きてきて「予約はしてくれましたか?」
と聞いてきた。私は、「18時のバスを予約しといたよ」と答えた。けれどこれは嘘で、本当は予約なんかしていなかったんだ。まだ彼を止めるチャンスがあると思っていたから…。 12時にチェックアウトをしてから、ロビーのソファーに座っていた彼に「まだイラクへ行きたい気持ちは変わらないの?」と何度も尋ねたけど、「変わらない」と…。もし、本当にバスを予約するなら14時までにする必要があった。だから14時前に最後にもう一度尋ねた。そこでも彼のイラク行きの意志は変わらなかった…。それで仕方なくバスの予約をしたんだ。彼を止める事はできなかった…。
その後、コーダが「イラクから戻ってくるまで預かっといて下さい」と私にある物を渡してきた。それは死海で拾った石とタオル、そしてイラクの子供の写真だった。写真は10枚くらいあって、戦争で傷付いた子供達が写っていた。コーダは、「日本人から貰った」と言っていた。
彼が亡くなった後、彼の家族にその写真を全部送ったら、 その内の一枚のコピーとコーダの写真を送ってくれた。(子供が血を流しベットの上で寝ている写真。クリフホテルで見る事ができる)送られてきた写真の子供はまだよく、もっとひどい状態の子供の写真ばっかりだったよ。 コーダはこういう子供達の為に何かしたかったんだと思う…。 コーダは出発までの時間、少し外に行った以外は、ずっとロビーで情報ノートを読んでいた。17時頃に日本人の男の人(昨晩、香田さんと話をした人)と一緒に、コーダをバスターミナルまで見送りに行ったんだ。彼は 「アッサラーム、さようなら」と言い、バスに乗り込んで行ってしまった…。
彼を見送った2時間後に日本大使館に連絡する事にした。「2時間前に日本人、コーダショウセイがイラクへ向かいました。まだ国境に着いていないはずです。もし可能なら彼を止めてほしい」と伝えた。すると 「お電話ありがとうございました。また何か分かり次第教えてください」とだけ言われたんだ…。
その後バグダットのホテルで働く知人に電話して、日本人がホテルに来たかどうか聞いたら、来てないと言われた。そのホテルをコーダに教えていたから、必ず行くだろうと思って、しばらくしてもう一度電話をしたら「確かに日本人が来たけど、身の安全を保障できないし、ホテルが狙われる危険もあるから、泊めてあげられなかったんだ…」と言われてしまった…。(武装グループがホテルへ押し入り、外国人を誘拐していく事件が頻繁に起こっていた。ホテルはそれを恐れていた。)
26日(日本時間27日)の夜中に国連の人 (サーメルとは前からの知り合い)から電話がかかってきて「日本人がイラクで人質になりました。アルジャジーラか、NHKを見て下さい」 と言われた。 テレビを付けると、そこには武装集団に囲まれたコーダの姿が…!!私はとても驚いてショックだった…。ザルカウィ率いるアルカイダに捕まったと知って、「もし、彼らが要求している時間内に、日本政府が何もしなければ、 彼は間違いなく殺されてしまう…」と思って絶望的な気持ちになった…。
その後、日本政府(外務省)からクリフホテルに人が来て、私にコーダの事を色々と質問した。けれど、その半年前に高遠さん、郡山さん、今井さん達三人が、イラクで人質になった時は、外務省、自衛隊、ヨルダン政府の人達がクリフに何度も来て、もっと色々な事を聞かれたし、とても慌ただしい雰囲気だったよ。(高遠さんら三人もクリフホテルに泊まって、ここからイラク入りをした)けど、コーダの時はそんな感じではなかった。多分三人の時と同じように助かるだろうと、 殺される事はないだろうと考えていたんじゃないかな…。だけど、私は 「危ない…」と思っていた。捕まったアルカイダというグループが危険すぎたから…。その後 『アジア人の遺体発見』という報道が2回あったけど、コーダではなかった。
だけど30日の22時に、ニュースで彼の遺体が発見された事を知った…。日本大使館からも電話がかかってきて、彼が殺された事を知らされたよ…。その2日後に彼の家族から電話があって、私が謝ると「あなたのせいではないですよ」と言ってくれた。私はコーダが殺されてしまったと知った時に、 心の中で誓ったんだ…。いつか私の夢である自分のホテルを持てる日が来たら、ホテルの名前に彼の名前を入れようと。
数ヵ月後に日本大使館に電話をして彼の家族に「ホテルの名前を『KODA HOTEL』にしたい」と伝えてくれるように頼んだんだ。 そしたら1週間後に彼の家族から 「色々とありがとうございました。ホテルを作る時にKODAでもSHOUSEIでも、どちらでも使ってください」というような内容のFAXが届いた。だけどその後、ヨルダンの役所に『KODA HOTEL』は許可できないと言われてしまった…。(個人名、又はあの事件で?)
実際受け継ぐ予定の『MANSUR HOTEL』から名前を変えて、再登録するには、色々な手続きと、時間、費用が大変かかってしまうんだ。HOTEL名はそのままでスタートし、いつか余裕ができたら『KODA HOTEL』に変えられるようにトライするつもりだよ。だけど、もしオープンできたらすぐHOTELの看板の下に、日本語で『コーダホテル』か『香田ホテル』と、書こうと思ってる。日本語なら役所にバレないからね!彼の事を一生忘れないように。そしてみんなにも彼の事を忘れてほしくないんだ。
私はいつも帰らない弟の事を思う。コーダはレセプションの裏の狭いバルコニーから、アンマンのつまらない通りを眺めていた。…今でも思い出せる。ソファーでノートを見ていたコーダ、部屋に向かう後姿、クリフホテルから出て行ったあの日、ターミナルからバスに乗り込んだあの時の事を…