守銭奴の振舞いを給与体系にすり替え、国民経済を破壊することは許されないこと | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
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令和元年5月1日。元号が変わっての初日になる。明治以降の改元は天皇崩御とともにあるので、元年の初日は自粛ムードが立ち込め、しばらくじっとするというイメージがあった。特に、唯一の経験である平成への改元の跡の1,2週間はそういうイメージがあった。今回はそういうものとは異なる雰囲気の改元である。しかし、日本の置かれた状況は決して楽観的なものではなく、平成の改元時にあった、形式的な停滞に比べるともっと重苦しいものがあるともいえる。

 

新自由主義の蔓延。そして資本主義の暴走による日本の国力の減衰の底なし沼である。そこから脱するしか日本の生きる道はないはずだ。しかし、そんな喫緊の問題から目をそらし、カネを増やすことにしか興味がなく、何やらへらへらして、金融経済万歳!という雰囲気から脱することができないのだ。

 

資本主義のシステムさえ「効率的に」運用され、そのうえでカネさえ儲かればよいので、「効率の悪い」ことである自分で作るということをやめ、奴隷的外国人にやらせることを正義とする。また、国内で作るものがなくなった代わりに奴隷的な労働力として下位99%の国民を使うことに何のためらいもない経営者。そして、その経営者が国に貢献することをやめ、これまでの国の遺産を食いつぶしながら金儲けする方が「効率が良い」とする考え方に染まっている。それらを成功者としてあがめてしまう国民は、売国奴、守銭奴を目標にして活動をいとわないという。国民葬自殺行為の状況は、令和の時代に果たして転換できるか。転換できないと、おそらく、元号も令和で終わってしまうことになるだろう。

 

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売国を制度のせいにしている

 

世界に打って出るには給与を変えないと無理だった、あるいは、終身雇用をやるのは無理なので、うちらは、カネもうけだけをする会社になります、というのは、ほとんど同じようなことを言っているぐらいの有害なことである。日本の会社のくせに、日本の国民経済に寄与するのをやめるというのは、ほとんど売国奴といっていいだろう。こんな流れを20年かけて作ったとすれば、なおさらである。許されるものではなく、それが当たり前だと思っていたら、いつか自分も貧困に叩き落されるという絶望的な人生を想像しなければならない。そしてそれを回避するために、同僚を裏切り叩き落すというサラリーマン人生を繰り返す羽目になるのだ。しかも、仮に出し抜けたとしてもその先にあるのは、文化を失った暗黒時代だけである。

 

【企業】「世界に打って出る」日立、給与を変えないと無理だった

https://egg.5ch.net/test/read.cgi/bizplus/1555939154/

 

【IT】たそがれる人月商売、優秀な技術者が片っ端から辞めていく

https://egg.5ch.net/test/read.cgi/bizplus/1555939308/

 

こういうタイトルの話を聞くと、確かにそうだと思ってしまうが、本当にそうなのだろうか。

記事の内容はリンク先でも読んでもらえればいいだろうが、それを額面通りに読んで感心しているとすれば、実に愚かなことである。

 

政府という存在がほとんど何もせず、民間がカネを設けるということに邁進していくのであれば、上のような状況は放置しておくしかないが、それがもたらすことは、国家の自滅以外には何もないだろう。

 

【話題】<ひろゆき>日本はオワコン?「どういう理由で大丈夫なのか、論理的な答えを知りたい」

https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1556373852/

 

この人にしてもほぼ同じ仲間であるホリエモンにしても、カネもうけすることが経済だと思っている連中は、竹中平蔵のように論理の前提を新自由主義においているので、どんな説明もあり得ないだろう。しっかり考えているようで、実に狭い論理展開の世界しか見ていないのが、こういう意識高い系の特徴だろう。実に筋は通っているが、そもそも筋を通せる世界が狭すぎる上に一握りの人間以外の世界の貧困化しかないのである。そういう意味で、どうでもよい存在であると我々が強く認識しなければいけないということだ。

 

カネを国民の賃金に回さなくてなにが日本企業か

 

出すところに金を出さず、多くの人を理不尽な貧困に導いたり、一歩間違えると貧困に引きずり落とされる経済構造を作り出すことが正しいことであるというのは間違いだろう。一社やある業界の選ばれた人間がカネを稼ぎ、その熾烈な競争から落ちた人間がどうしようもない貧困にまで落ちる構造になっているということは、結局は多くの貧民と一握りの金持ちを作り出す構造になり、金持ちになった人間は、モノを作り出すことよりはその金持ちの地位を保持することに興味の大半を割かれることになるのだ。

 

競争状態を放置しておくことでもたらされるのは、圧倒的な格差である。競争そのものが社会を土台にしていることを忘れた状態では、究極的には、強者があらゆる手段を使って、強い立場を維持しようとしてしまうものなのだ。それが無制限の競争というものである。当然、それによってもたらされる人間社会は、強者の言い訳にしかならない形式的な道徳ばかりがはびこる(ポリティカルコレクトネス)だけで、多くの人々の猥雑な生活から生み出される懐の深い文化というものは、決して生まれることがないのである。

 

現実の格差を見ないことの罪深さ

 

強者は、別に成り上がったものだけではない。貧困に落ちることが回避されている存在も強者の位置にい続けることができる。学者やマスコミの人、言論人などは、それにあたるだろう。そういう連中が発信しているのが、日本のサヨク、ウヨクという言論形態である。そして、当然多くの国民はそれに感化されてしまう。

 

サヨクが好んで進めてしまう、きれいごとを並べたところで、文化や文学が出てこないことは別に偶然でもないのである。当然ウヨクの言うきれいごとも同じ穴のムジナといっていいだろう。どちらも、知的エリートのみが眼中にあって、その他大勢は愚民としてしか映らず、そういう人たちを救うという発想が起こらないのである。感化されている国民は、貧困になってしまっては実は全く救われないことになってしまう悲しさがあることを知らなければならないだろう。

 

新自由主義の行き先はカネ儲けさえできれば

 

カネさえもうければいいという考え方がいかに、世界を壊していくのかということをこういう記事から見ることが実は大事なのである。だってしょうがないじゃない、というごまかしをやっている余裕は我々にはすでにないのである。上記のようなことを言う会社の会長が経団連の会長をやっていて、終身雇用を悪者だとして、うちらはやってられないという、国民経済に対する責任を放棄しながら、その遺産を食いつぶすという寄生虫に成り下がっているのは偶然ではない。この失われた20年で、出世してきた「成功体験」がすべて間違っていたということ示すだけのことである。