経済学は虚像--世紀めくっても右から左へ受け流す与太話 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
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誰しも何か、ある事象に対して、「これ合ってるや~ン」と思って、経験的法則にしていることはあるとは思う。

 

マーフィーの法則というのがある。起こってほしくないことが起こる、というたぐいにものであるが、当然そういうことは印象深く記憶に残るものであり、単に印象に残りやすいことをのみを抜き出してみると法則っぽく見えるたぐいである。血液型占いも、実際のところ有意な偏りが見られないという話であったりするので、あまりあてにならないたぐいのものである。

似たようなものとして、昔、発掘あるある大事典とかいう番組があったが、毎週のようにその手の経験的法則が紹介されていた。その番組自体は、ネタ探しに窮しついには、法則の元ネタさえも創造してしまった。それもあって番組は終了してしまったのだが、なんかちょっとでもあってる!ということを一般化したいというのは人間の性なのではないだろうか。

 

発掘!あるある大事典 - Wikipedia

 

数学を愛する人にもそういうネタに心を鷲掴みにされる人を知っている。たまに、血液型占いやそれにまつわる番組内の実験のネタを言っていたりする。こういうことに引き込まれるかどうかは、論理的な思考能力ではなくて、直感や感性の問題なのだろうか。論理学ていうところの公理は、直感や感性でしか設定できないものである。

 

こんなことは与太話で済ましておけばいい話なのである。

 

しかし・・そんな性によって100年以上に渡って紡がれてきたのが経済学である。それは、人間社会という複雑系を対象としており、歴史が全く同じことを繰り返さないことが表すように、自然科学のようにぶれない観察対象があるわけでもない。それゆえにあっているかどうかの検証もままならない。やりようがない。したがってその法則があっているかどうかは詭弁でいくらでも理屈を紡ぐことができる。その理屈では算術やら数学やらを用いて、説得力を持たせてより法則っぽくしてきた。それが、経済学と言ってもいいだろう。

 

実際の状況を忠実に説明しようとすればするほど逆に法則っぽくなくなるということも暗に表している。そんな学問っぽくないものは亜流だ!と言っているのが主流経済学たる新古典派経済学である。壮大な規模の与太話である。もちろん、与太話らしく飲み屋のネタでとどまっていたらよかったのであるが、まじめに取り組んだりする奴がいるから問題なのである。

 

 

上の本が示すのは経済学が単なる学問の世界のお戯れを超えてしまったことを意味する。

 

狭い箱庭で数式で遊んでいるのであれば、それはまだ活用する可能性があったりするが、経済が悪い方向に働くことを認識できないでその法則とやらを実世界に応用してしまうと世界がどうなってしまうのか、ということを示している。20世紀はその実害が強く現れた時代であった。

その時の経済学が古典派経済学、新古典派経済学であった。それと、自由でありたい。好きなようにさせろ。強いことを邪魔するなといった思想を乗っけてきたフリードマンを始祖とする新自由主義という詭弁思想がくっついて、人間社会が持続的発展から衰退への道を歩むことを止められなくなってきたのが、世紀を越えた2016年の現状である。

 

世紀を越えた世紀の与太話、経済学。その規模は次の映像が示すぐらいに笑ってしまうものに違いない。。と少々話をむりくり持ってくるが・・

 

なんかこんなんばっかり見ている筆者も大概であるが、世紀超えしても20世紀最後の負の遺産を払拭できない状況になかなかつらい現状を再認識するとともに、これは思想の30年戦争なのかもしれないと思ったりする。

 

ついでに、またこの歌を貼ってしまう。このナンセンスな歌を聞いていると経済学を盲信する人々のナンセンスさを思い起こさざるをえない。

早くこの状況に気がついて、ああ、アメリカかぶれの受け売りの話ね、として、

右から来たものを左に受け流すぐらいの気概はなくなってしまったのだろうか。

聞いている人がどこで終わりかわからず、何度か拍手をしてしまっているのがなんともはやである。何回聞いても最後のああ、この東京砂漠~というところが、いかにもとってつけた感じで、どきまぎする。別の動画では、鳥取砂丘~と歌っていたがどうでもいいのだろう。

多分経済学も結論は経済学そのものにとってはどうでもいいのだろう。

結論を喜ぶお客さんがいればいいのだから。

どうなったら発展するとかそういうところにすら至ることもなく、至る気もない。

この歌が、堂々巡りをしながらも、さも違う新しい良いことを言っている努力をしているような流れになっているのがまさに主流と言われる経済学の本質と重なる気がする。

という感じでいい感じにオチガツイたのでホッとしたところである。