赤磐市熊山周辺探訪 ④

テーマ:
永瀬清子の生家です。
{6EE80336-0C56-4547-A4DE-8E299EB73B07}

この家には不思議な部分があります。
下の写真は一階から二階への「はしご」です。「階段」ではありません。
「階段」はちゃんと別にありました。
{55EC2259-311E-4B39-A654-07A96C40F7C3}
ちゃんとした「階段」から二階に上がって見ると床の間と棚?が見えます。
{3AB49083-6C88-46B5-8C20-A8B8643EA294}
ところが、右に目を転ずると、そこにも床の間らしきものがあります。この床の間はいったい何なのでしょう。この写真の右端の壁の向こう側が、一階から二階への「はしご」を上がった部屋になっています。この部屋は、四方を壁に囲まれていて、二階からはどこからも入れないどころか、部屋の存在もわかりません。
一階からの「はしご」を使ってしか入れないのです。
{6692DFB8-582D-4FFC-90EB-C622E9710F0F}
一階からの「はしご」をもう一度近寄ってよく見て見ました。足を乗せる横木の角が面取りしてあって、足を乗せても足が痛くないような作りになっているのです。
このような事を考えると、大事な人物が、なにかの際に姿を隠すための隠し部屋があったのだろうと思われます。
では大事な人物とはどんな人でしょう。

これについては、永瀬清子さん自身が語っています。
{7F0E8EE7-925C-459B-8698-3DF0E10C8FEA}
(『短章集』より)

また岡山県建築士会岡山県歴史的建造物委員会委員の、島村鐡二氏は次のような所見を述べられています。
{5D84B465-33DB-4F25-AF55-64FADEF5CA79}
字が小さいので、赤線の部分を書き出しておきます。

 2階の内、3畳の1部屋には2階から入れず、1階の吊り梯子で入る。江戸末期まだ禁教であった日蓮宗不受不施派の隠し部屋と伝承される部屋である。2階の街道側は16畳にも及ぶ1室であり、

2階を居住の用に供することは1度も無かったと永瀬家の人々は言う。

(島村鐡二氏の 日蓮宗不受不施派 と言う語の使い方は、厳密に言えば間違っているだろうと思う。下に続く文章を読んでいただきたい。)
 
  私の不受不施派についての知識は、高校の日本史で習う、キリシタンと同様に江戸時代に御禁制とされた、という事しかなかったのですが、今回、これを機会にちょこっとウィキペディアを覗いてみて、岡山が不受不施派の中心地じゃん!と初めてしったのです。
(ウィキペディアの記事はこちら)

永瀬清子の文章の中に「法中(僧侶)」と出てきています。ウィキペディアの説明と照らし合わして見ると、彼女の家に集まっていた不受不施派は、より厳格さを守る、   津寺派(不導師派)だったことがわかります。
この人達は、日向の佐土原に流刑中の日講と倉敷の津寺庵の日隆を中心とするグループで、覚寺を本山とし、不受不施日蓮講門宗の系統に属します。彼らは、僧侶=法中でない一般不受不施派信者=法立が導師となる事を認めなかったのです。一方、法立が導師となることを認める派は、覚寺を本山とする、日蓮宗不受不施派です。



生家前の江戸時代の山陽道です。
南側を見る
{2D55996E-BA62-4F8E-8DAE-EF765078F7E3}
北側を見る
{DB07B114-8DAB-4F28-AD99-36B32BE4F68A}

(続く)