いつの間にか、徐々に独り善がりな性格になっていった一年でした。
ちょうど年の瀬ですし、振り返りましょうか。
今思えば、就職してからです。
それまでには無かったほどにどんどん語調が強くなって、知らぬ間に自分の中に“正義”を持つようになっていました。
一方、前々から変わらず、何が正しくて何が間違いかはわからないという考えは持ち続けていました。
だから他人の正義は他人の正義として受け止めていて、それがいくら自分のものと違っても否定する気持ちは起こりませんでした。
結果、何が起こったか。
自分の意見をガンガン主張するようになりました。
自分とは違う意見はどんどん聞きたいので、自分はこう思う!お前らはどうなんだ教えろ!っていう調子になっていました。
……当然、周囲は静かに引いていきますよね。
触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに。
もちろんそんな奴に意見などぶつけてくれませんよ。
こうなった原因として、考えられることが2つあります。
1つは、社会人として芯を持たねばならないと踏ん張っていたこと。
特に“男でも女でもない”人間として生きることが社会の中では想像以上に難しいと気づいてから、その点について声を上げていかねばならないという気持ちが強まっていたと思います。
自分には下の世代のために声を上げる使命があるとすら感じていました。
もう1つは、主張の激しい人との付き合いがあったということ。
相手と同じテンションでつき合うのが今までの自分のポリシーのようなものでした。
それが裏目に出て、当人の意見などお構いなしで「○○すべき」と言ってくる人に出会ったとき、自分はその人と同じ熱量で「その考えだけが正しいわけではない!」と言い切っていました。
これらのことが仕事上でもプライベート上でもあって、主張すればするほど空回りをして、意見を聞かせてくれと言うほど人から距離を置かれていることも体感できて。
どうしたらいいんだと頭を抱えました。
あるとき、主張の強い人といつも通り考えが衝突したと思ったら、それがきっかけで趣味つながりのとあるLINEグループを脱退させられ、衝突した相手との繋がりのみならず、その当時大切にしていたグループ全体との繋がりを突然切られるということがありました。
ここではこの問題で何が悪かったかという話は置いておきますが、少なくとも自分の非に焦点を当てた場合、とにかく人の意見をクッションのように受け止められなくなっている自分、あるいは適切に流すことの出来なくなっている自分が悪いというのは間違いがありませんでした。
あとは、口調の強さが加速してかなり悪い言葉遣いも出ていました。
このときいろんな優しい人達から「まずは一旦黙れ」と止めてもらって、自分を何とか抑えて考えて、そこでようやく自覚します。
以前の自分はこんなに主張する人間ではなかったと。
しかしこの時点では、以前の自分に戻ることは出来ませんでした。
昔の自分の在り方を忘れてしまったからです。
そこから、自分の考え方を信じられなくなり、自分への自信も何もかも失いました。
ついでに「余分なところに感情を使わずに受け流す」という技を身につけたら、楽になった一方で、生きる意味すら見失ったような状態になりました。
ようやく昔の感覚を思い出したのは、自分がふっとTwitterで呟いた文章を後から読み返した時です。
その文章は、誰を否定するわけでもなく、ただ「これってどうなんだろう?」と疑問提起するだけのものでした。
とても懐かしい匂いのする内容で、つまり自分が忘れていたものはこれだったのかと。不思議なくらい、さらっと気づくことが出来ました。
つまり、昔の自分は“正解は一つではない”ことを念頭に置いていた上に、自分の正義というものも持ってはいなかったわけです。
だから「こうじゃないのか!」ではなく「こうも見えるしこういう風にも見えるよね」という語りが中心になっていました。
ようやくそこに気づくことが出来て、心の底から昔の通りに穏やかになれそうです。
最近の自分は無理に自分自身の虚像を作るような勢いで主張を繰り返していたわけですから、そりゃどこかで破綻しますよねって話です。
主張は等身大でいい。
元々活動家になるつもりも無いのだから、身の丈に合ったことをすればいい。
無理に身を削る必要は無い。
これから考えがどう変わるかはわからないけれど、この気づきは生かしていきます。
さて。
本年はあまりブログ更新もなく来てしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。
これからもおそらく忘れた頃に更新することと思います。
おそらく次も平成の世のうちに更新するのではないだろうかと踏んでおりますが、いつになるかは神のみぞ知る世界……。
というわけで、来年以降もよろしくお願い致します。