先に言っときますけど、ただの所感ですから。
何の知識もないけれど、何のソースも提示せずに、思ったことを言うだけですから。
あのね、ここ2日、Twitter見てるとね
歌丸師匠が司会をしていた時の笑点の映像がたくさん流れてくるんですよ。
桂歌丸さんが亡くなった、という報道が入った後ですよね。
この回のこの大喜利がお気に入りだとか
これが一番の傑作だとか。
すごいなって、思いましてね。
だって、落語ですよ?
正直、落語って、寄席だの高座だのって言って観に行くのは高齢層が大半でしょ?
自分の世代なんか数えるほどしかいなくて、実際いつも寄席とかに行くと数えちゃいますもん。
同じくらいの、若い世代の人は何人いるのかって。
だけど歌丸師匠が亡くなってから、若い世代が主であるTwitterで、歌丸師匠が司会の笑点の動画がたくさん流れてくるわけです。
師匠は言っていたそうですね。
裸でお盆持って出てくることの何が芸なのか。
ただ頭を叩くことのどこが芸なのか。
日本語の良さというものを大切にしないで笑いをとろうとする、これが芸人のすることかと。
なんかそんな感じのことを仰ったそうじゃないですか。
そんな言葉に、すごく自分は納得しました。
自分はあくまで自分なりではありますが、叫んだり誰かを傷つけかねなかったりする笑いは好きになれず、逆に“ことば”で笑わせる巧妙さを持つ笑いは非常に面白く感じます。
たぶん、自分のこの聴き手(と言えるほども聴いてないけれど)としての感覚と、師匠の噺家としての感覚とは、通ずるところがあるのではないかと思うのです。
でも現代では、裸でお盆を持ってきたりただ叫んだりするだけの笑いがウケている。
ということは、もう日本語の良さは忘れられてしまったのでしょうか?
……この問いへの答えは、Noだったようですね。
笑点の大喜利にこれだけ反応している人達がいるんですから。
なんだか、この機会にこの現実がわかったというのが、個人的に少しだけ嬉しく感じます。
本当は、綺麗なことばの歌丸師匠の落語を直に聴いてみたかったなという思いもありますが。
しかし一方で、亡くなってもなお偉大さが浮き彫りになるのを目の当たりにして、凄いなと……。
しかもね、自らの死をずっと笑いに変えてきた方ですからね。
死してなおそれすらもネタと化すように仕向け、悲しいことなんだけれども、どこか悲しませ切らないような。
どこか笑いに変えてしまうような。
亡くなってからも歌丸師匠に場の空気を操られているような。
今、そんな空気を感じます。
それって、見事に落語の噺の世界感そのものなのかもしれない。
もうね。桂歌丸という落語家は本当に凄い方なのだという感情に尽きます。
もはやそれしか言えない。
言う義理も権利も何も無いけれど、ほんとそれしか無いなって。