分散化と集約化、ネットワークとコンピューティング、ネットワークレイヤとコンピュータ・アーキテクチャ、ネットワークとオブジェクト、OSとネットワークプロトコル、COMとDCOM・・・ネットワーク・サービスとASPこんなキーワードを考えると真のNGNが見えて来るのではないか・・そう思う。


ネットワークはコンピューティングの一部になるのか、コンピューティングがネットワークに融合されるのか・・シスコとマイクロソフト・・シスコとIBM,さらにDELLコンピュータ・・様々な構図が見えてきて実に面白い。・・NGNのヒントはメタフレームに隠されているのかもしれない・・さて・・っと。


Net2

ネット上に自分の個性を生み出すのはそう難しい事ではない。ネット上にはリアルな世界と全く異なるバーチャルな自分を生成する事が可能だ。


例えば「ワタナベ・ノボル」、このサイトを見ているほとんどの人は「ワタナベ・ノボル」を知っているので、「ワタナベ・ノボル」の実体を想像し、そのネット上の「ワタナベ・ノボル」に話かけるのである。つまりこの「ワタナベ・ノボル」は実体の「ワタナベ・ノボル」とネット上の「ワタナベ・ノボル」とが目に見えない紐で結び付けられているのである。


ところが、ネット上に自分の知らないハンドル名が登場した時は、少なからずパニックに陥る。そしてこの本質を探そうと努力するのである。信頼できるのか、信頼できないのか。男か女か、熊かリスか、このような具合だ。 最初に自分の周囲の特徴、文章の特徴、話題のコンテクストから探してみる。


それで類推できれば一安心なのだが、それでも特定出来ないときは、さらに試行錯誤を繰り返す。実際は、それでも実際の「ワタナベ・ノボル」を発見できなくても決して「君は誰?」と尋ねたりしない。全てはネット上のコンテクストからの類推であり、リーダーの創造の上委ねられる。 「ワタナベ・ノボル」は、一つの人格を持っている。


これは作者がネット上にとき放った1つの「オブジェクト」なのである。「ワタナベ・ノボル」は現実の個性とネット上の個性の中間的に位置するものと考えている。彼・彼女の振るまいはネット上に存在するときと、ネット上から解き放たれた時とは全く異なる振るまいをするかもしれない。それはネット上の単なる個性かもしれないし、実体と同じかもしれない。


オブジェクトで言う所のポリモフィズムを全く持たない存在なのである。一つの指示に対する反応が全く予想できない存在と言える。同じ命令の結果が常に同じとは限らないし、同じ命令が通じるとも限らないということだ。ネット上に解き放たれた個性は、作者の個性により誘導され自然に成長をとげる。


成長過程にある個性は、様々な個性を吸収し、そのルートから多くの物を継承して成長を続ける。これは実に興味ある現象だ。 しかし1つの個性は個々の指示によって同一の振る舞いをすることは決してなく個々の成長過程で得た新しい個性により支配される。これがネット上に存在する一つの個性の姿なのである。


我々が「ワタナベ・ノボル」のような1つの個性をネットに投下した瞬間には、「ワタナベ・ノボル」はすでに実在する「ワタナベ・ノボル」とは別の個体(オブジェクト)として存在が定義されてしまう。 これは、「ワタナベ・ノボル」の実体を知らない人達に該当する、「ワタナベ・ノボル」の実体を知らない人の中には、別の「ワタナベ・ノボル」が存在する。


これも面白い現象である。ネット上では同じ「ワタナベ・ノボル」でも個体としての「ワタナベ・ノボル」は全く別の実体である。これをバーチャルと呼べるのだろうか。それは別の実体なのだ。私達はこれを利用して、ネット上に全く自分とは異なる個体を作り出す事もできる。男にも女にも、犬にも羊にも、象にだってなれるのだ(ネットの世界ではアバターとも言いますね)。


これが「ワタナベ・ノボル(のアバター)」であり「ワタナベ・ノボル」なのである。全く異なる自分をそこに形成し、まるで「かぶりもの」か「変装」かでもするように異なる自分を解き放つ快感がネット上に存在しそれが実体へも影響する可能性を秘めているのである。きっとこれがネット・バーチャル・リアリティなのであろう。


Net1

クラスから生み出されるスミス的なインスタンスも単なるプリミティブなオブジェクトに過ぎない。 目

ふふふ・・結局NGNって何なんだ・・?


雨気温は高くなかったけど・・とっても梅雨らしい1日だった、それと朝の電車がとっても混んでいたよ、隣に立っていたOLの鼻息が荒いので閉口・・ああいったOLもいるんだ。今週は既にワインを2本買ったのでもう買いませんよ・・イタリア産のシラーです・・美味しいのかな?