異なる言語で書かれた文章の翻訳は、不可能なのではないか。大学で少々語学をかじった際、よくそのようなことが言われ、自分でもそう感じたことがあった。

単語、文法、そして、文化が違えば、翻訳など不可能に近い、と考えてしまっても仕方がなかろう。

しかしながら、いうまでもなく、翻訳の歴史は長い。有名人な例としては、古代ギリシャ語やラテン語で書かれた文献の翻訳であろう。

ということは、歴史的な事実としては、翻訳は可能、という平凡な結論で落ち着くのであろうか。

僕の場合、翻訳といえば英文和訳のことと同義だ。そして、ごく稀に和文英訳。

ここで述べることは、忌まわしき受験勉強の際の実体験からの影響も大きい。

英文読解であれば、nativeでなくとも練習次第で彼等に負けないくらい、上達が見込める。教育程度によっては、彼等に優ることだって。

英作文も、似たような面があるとはいえ、自分の経験上は、文化的発想の観点から、nativeに一日の長がある。個人差もあるので、一言ではなんとも言えないが。

念のため言っておくと、会話に関しては、nativeと比べるのは馬鹿らしい。

さて、ここでは、英文和訳を主題としよう。(もちろん、他にも十分当てはまりそうだとは考えられる。)

なんだか、竜頭蛇尾のようだが、結論はあまりに平凡至極。

翻訳の極意は、「達意眼目」

コツというには、単純過ぎるが、なかなかどうして、難しい。

ただ、この言葉を知っているかどうか、意識しているかどうかで大違いなのだ。

皆さま、言葉の力は偉大なり。

「結局、何をいっているの?」

「言いたいことは何?」に尽きる。

是非、お試しあれ。

最後に、

(話はズレるが)世の文筆家の方々にも、この言葉を送りたい。

 

あれ、この文章の言いたいことは?という意地悪は言わないで。

以上。

 

 

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追記

今回の文章は、ほとんど、忘れられた日本人、故関口存男から着想を得ていることを断っておく。

 

 

〈一言コメント〉

明治の時代、関口存男という偉人だいた

(令和2年4月22日)