死すべきものは神々の狭間で | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は死後の世界という概念について。

 

仏教やキリスト教では天国や地獄という発想がある一方で、中国の宗教である儒教ではそういう話をあまり聞くことがない。

 

そういうところから、儒教では死について語られないとか、死生観が存在しない宗教だとかそういう言及を時たま見ることがある。

 

今回はそういう話についてで、そういう風な漠然とした認識はあるけれど、実際の所、儒教を作った古代中国人は死後の世界に強い関心があるという話を以下ではしていくことにする。

 

儒教は死後の世界に関心がないというような意見をする人は、おそらく、単純に儒教関連のテキストをあんまり読んでないのではないかと思う。

 

『論語』とか『孟子』にはその辺りの話が書かれてないから色々仕方ないのだけれども。

 

加えて、『論語』には「怪力乱神について語らず」という言葉があって、この言葉は「怪異、怪力、乱、神」という四つの事柄について語らなかったという意味として考えられていて、そこから孔子は死後の世界について語らなかったという話として捉えられて、儒教は死生観のない宗教だと語られる場面に出会ったこともある。

 

ただまぁ実際の所、『論語』の他の箇所で孔子は神、すなわち鬼神について語っているし、『史記』の孔子の世家でも話の中で鬼神についての言及があるから、「怪異、怪力、乱、神」を語らなかったという解釈がまず間違いだし、そもそも儒教に、そして古代中国人に死生観がないということはないんだけれども。

 

古代中国人は死後の世界に関心があって、関心があるからこそ社稷を守るし、彼らは社稷を守るために生きているというレベルで先祖や鬼神に対する儀礼を行っていて、それは儒者以外も全ての人々がそうであった様子がある。

 

社稷というのは先祖の霊や先祖の霊を祀った廟の事で、それを守るために古代中国人は生きているみたいな部分があって、それを守るのは結局、先祖が死後に安楽を得るためにそういうことをやっていると判断して良いと思う。

 

だから、ただ単に、古代中国の時点では天国や地獄と言った冥界という発想がないだけであって、彼らは死後の世界に関心がないということはない。

 

逆にキリスト教や仏教でそのような話があるのは、文化的に近いからと言うだけであって、キリスト教も仏教も文化を共有している様子がある。

 

古代中国には天国や地獄といった死後に住む場所、言い換えれば冥界という発想はないけれども、死後の世界という発想自体は存在している。

 

死んだ後に天に昇ったり、死後の世界という発想自体は古代中国にもあって、ただ、死んだ後に行く先に関しては、諸テキストで色々書かれていて、古代中国人の死後に向かう場所については、当時としても明確な見解はなかったのだろうという話は以前している。(参考)

 

だから、古代中国には死後の世界という発想はあって、ただ単に地獄や天国と言った、中東世界などで見られるような概念がないだけという感じがする。

 

古代中国人は先祖に対する儀礼を非常に重視していて、それを何故するかと言えば、先祖がそれを喜ぶと当時の中国人は考えていたらしくて、そのような祭祀は当時の価値観として非常に重要視されていて、『礼記』はもちろん、色々なテキストに先祖に対する祭祀の話は書かれている。

 

そして、そのように生きている間に先祖を大切にして祭祀を行う一方で、死んだら自分も祭祀を受けるのであって、そのためにも祭祀は行われている様子がある。

 

死後に人はどうなるかと言えば、廟の"主"の列席に加わるわけであって、自分が祖先を祀るということは、後に子孫が自分を祀るということになる。

 

彼らの死生観は生前は先祖に祭祀をして、死後は子孫に祭祀を受けるという関係性があって、死後は子孫が繁栄して祭祀を行えるか否かが重要で、そのために家を絶やさないことを目指して生きている部分がある。

 

つまり、彼らにとっての不幸は社稷、すなわち祖霊やそれを祀った廟を守るものが居なくなる事であって、それを阻止するために生きていて、社稷を祀るというのは先祖の供養を行うという意味であって、そのために儀礼を行っているというニュアンスが彼らの文章から読み取れる。

 

そして、いつしかは自分もその一員になるのであって、そのための祭祀は非常に重要視されている。

 

例えば、『春秋左氏伝』の宣公四年の記事には以下の言及がある。

 

「 はじめ楚の司馬子良に子越椒が生まれたとき、兄の子文が警告した。

「かならず殺してしまうのだ。この子ときたら顔かたちはまるで熊かのよう、声は山犬か狼のようだ。殺さなかったら、きっとわれら若敖氏を滅ぼすだろう。諺に『狼の子は狼の子』という。こやつこそ狼だ。育ててはならぬ。」だが子良は聞かなかった。子文はいつもこのことを心配していたが、いまわの際に一族をあつめて、「椒が国政をおこなうようになったら、ただちに国を立ちのくのだぞ。災難にまきこまれぬようにするのだぞ」と遺言し、涙をうかべて独りごとをいった。「死んで鬼神(神霊)となってもなお食物がいるなら、若敖の祖先はさぞひもじい思いをすることだろうな。」(左丘明 『世界古典文学全集 13 春秋左氏伝』 貝塚茂雄 pp.131-132)」

 

 

これに関しては、古代中国人は結構、人相占いに関心があって、凶相として生まれてきた子が居たから、こんな顔の子を育てたら将来的に酷い不幸が起きると言って、先祖の儀礼には食べ物を捧げるから、その捧げる食べ物がなくなって祖先はひもじい思いをする、つまりは一族が滅ぶだろうという未来の予想を言っている場面になる。

 

こういう話があるのは先祖を祀るというのが古代中国人にとって非常に重要だからで、このような言及は古代中国の本を読んでいると非常に多い。

 

結局、そのように大切にしている祖先たちに自分も将来的に加わるわけであって、祖先を大切にしてそれを子々孫々に伝えていくということは、自分の死後が安泰になるということになる。

 

もし、古代中国人の宗教に死生観がないというような場合は、そもそも社稷は守る必要がないというか、死後に苦楽があって、子孫に社稷を守られている場合は安楽であるというような価値観が彼らにあるからこそ、彼らはそのような祭祀を行っているのであって、彼らには死後の世界という発想がある。

 

そういう風に子孫に祀られている限りは神であるけれども、一方で、誰も祀ってくれなくなった人々は鬼になる。

 

そして、どのような場合に誰にも祀られなくなるかと言えば、それは先祖への儀礼を疎かにして、それが故に災いを被った結果として一族が滅んだり、そうでなければ天が宗族を滅ぼした時になる。

 

天命によって氏族は繁栄して、天意によって社稷は失われるというような価値観を古代中国人は持っていた様子がある。

 

だから、天に悖るような悪行をしたら社稷は滅びるのであって、それが故に天が災いを降すような悪行はあまりしないし、もし、それでも滅んでしまったような場合、それは天がそう望んだから亡びるのであって、天意は絶対で、逆らうことは出来ないような概念だから、そういう悪逆非道な行いを彼らはあまりしなかったと言って良いのではないかと思う。

 

要するに、古代中国人は死後の世界に関心があるし、死後は子孫に祀られて神になるのであって、古代中国人が死後の世界を持っていなかったということはない。

 

そのように古代中国人は死後の世界について関心があった様子がある一方で、人が死後過ごす世界について、どのように考えていたのかは良く分からない。

 

そうとはいえ、彼らが死後の世界についてどのように考えていたかについて言えば、やはり、日本人が漠然と死者の霊に抱いている印象とほとんど同じで、草葉の陰で見守っているというか、何処に居るということはないけれど、居ないということもないというような感じだったのではないかと思う。

 

『礼記』には葬式に於いての儀礼の話がかなりある一方で、死霊というものをどのように捉えていたかが良く分からなくて、まぁ宗教熱心ではない日本人が死者の霊をどのように捉えているかと言えば、居るんだかか居ないんだか曖昧なそれで、けれども、故人の墓で罰当たりな事をしないのは普通で、罰当たりなことを墓前でしないのは、一人で墓参りをしていて周りに人が居なくてもきっとそうで、その時に想定する死者の霊というのに、古代中国の死者の霊は近いのかなと個人的に思う。

 

居るということはないけれど、だからと言って何処かで見守っているようなニュアンスで日本人は死者の霊を捉えているようなことが多い印象が個人的にあって、古代中国人に関しても似たような感じだったのではないかと思う。

 

まぁ葬式関係の宗教儀礼に関しては、あれは全て中国の宗教の文化で、仏教の教えであんな話はないから、日本人の死者の認識も、元は古代中国に由来するのだから、漠然とした日本人の死者の霊の捉え方と、古代中国のそれとでは近い部分があるのではないかと思う。

 

位牌に関しては古代中国の文化だし、戒名についてもそうだし、死者の着物を左前にする話も『礼記』にあるし、死後に顔にのせる布の話も同様だし、一回忌と三回忌に関しても、それぞれ小祥と大祥という名称で『礼記』で言及されている。

 

 

香典に関しても『礼記』に言及があるし、喪主に関してはまんま"喪主"という言葉で記載されている。

 

「 婦人は、吉礼には、君から物を賜るときでも、粛拝をする

祖姑のかたしろとなって座するときは、手拝をしないで、粛拝をする。

喪主となるときは、手拝をしない。(市原享他訳 『全釈漢文大系 13 礼記 中』 集英社 1977年 p.366)」

 

粛拝は「拝礼の一種。頭を垂れ、手を下して拝する。夫人は吉日には粛拝し、凶事には手拝するのが礼である。(同上『礼記 中』p.366)」という意味だそうです。

 

これはまぁ、婦人の礼儀作法の話で、様々な場面でどのようなお辞儀をするかの話であって、喪主の時はお辞儀はしなかったらしい。

 

ともかく、喪主という言葉自体が古代中国由来で、他の箇所にはどんな言葉で書かれていたかは思い出せないけれど、香典についての記述も確かこの『礼記』にはあったと思う。

 

結局、こういう風に日本の葬式については『礼記』にその記述がある一方で、仏典のどれを読んでいてもこのような葬式の儀礼についての話はない。

 

『礼記』とか読んでると、日本の仏教って本当にクソだよな…と思ってしまう場合が非常に多い。

 

…まぁ古代インドの原始仏教も、牛糞や大便を食べる話があるから、あれはあれで普通にクソだと思うけれども。(クソ違い)

 

「 わたしは、なるほど、舎利弗よ。およそそれらの牛舎があり、牛どもは出かけて(空で)、牛飼いたちがいないとき、そこに四つん這いで近づいて行き、なんでもそれらの、子牛ども、若牛ども、乳牛どもの牛糞を、それらを本当に食べる。また、舎利弗よ、自分の尿と糞がわたしに尽きないであるうちは、本当にわたしは自分自身の尿と糞とを食べる。じつに、舎利弗よ、私が大汚物食者のときはこうなるのだ。(中村元編 『原始仏典 第四巻 中部経典Ⅰ』 「マハー・シーハナーダ・スッタ」 春秋社 p.188-189)」

 

 

ともかく、『礼記』を読んでいると葬儀の儀礼について事細かな話があって、そのような話があるのは古代中国人が祖先の霊のことを非常に大切に思っていたからであって、無条件に彼らは祖先の霊、すなわち鬼神を大切にしていたのはそうなのだけれども、死んだら自分もその鬼神の仲間入りをするのであって、先祖を大切にするということはイコールで、自分の死後を大切にしているということになっている。

 

だから、古代中国人が死後の世界に関心がなかったかと言えば全然そんなことはなくて、むしろ強い関心があるからこそ、そのように社稷を守って、先祖のための儀礼を行っていた様子がある。

 

ただ、天国や地獄、または冥界など言った概念は古代中国になくて、一方で、仏教やキリスト教にその文化があるのは、普通に同じ文化として、それらの宗教で死後にそのような世界があるというだけの話だと思う。

 

仏教には原始仏典の時代から天国も地獄もあって、特に最初期の仏教は、苦行をして、天国に行くことを目指していた宗教であった様子がある。

 

成立の古そうな経典を読んでいると、修行のゴールとして天国に向かうことを想定しているものがあって、原始仏教では修行の大成者は死後に梵天界、すなわち神々の領域に生まれ変わるという発想がある。

 

五〇八 「誰が清らかになり、解脱するのですか?誰が縛されるのですか?何によってひとはみずから梵天界に至るのですか?聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、告げてください。師よ、わたしは今梵天界をまのあたりに見たのです。真にあなたはわれらの梵天に等しいかただからです。光輝ある人よ。どうしたならば梵天界に生まれるのでしょうか?

 五〇九 師は答えた、「マーガよ。三種より成る完全なる祭祀を実行するそのような人は、施与(せよ)を受けるべき人々を喜ばしめる。施しの求めに応ずる人がこのように正しく祭祀を行うならば、梵天界に生まれる、と、私は説く」と。(中村元訳 『ブッダのことば スッタニパータ』 岩波書店 1983年 p.88)」

 

 

この話は、仏陀が梵天(ブラフマー)のように素晴らしい知恵を持っていて、その素晴らしい人である仏陀にどうやったら死後、梵天の住む世界に生まれ変わることが出来るのでしょうかと聞いて、それに対して、宜しく祭祀を行う人が死後に梵天界に生まれ変わると仏陀が答えるというやり取りになる。

 

他には仏教より成立が古いと言われるバラモン教のウパニシャッドにも天国や地獄についての話があって、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』の二章には、月を神々の世界として、それと合一する話が確か書いてあったと思う。

 

お手元の文章は訳がアレだし、めんどくさいから引用はしないけれど。

 

地獄に関しても、『スッタ・ニパータ』に普通に言及がある。

 

六四七 前世の生涯を知り、また天国と地獄とを見、生存を滅しつくすに至った人、――かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。(同上p.117)」

 

こういう風にインドには天国も地獄も文化としてある。

 

…同じ『スッタ・ニパータ』の記述でも先の引用は梵天界、すなわち天国に生まれることを目指していて、この引用だと再び生まれないこと、すなわち解脱を目指していて、こういう風に相矛盾した言及が平然とされているから、仏教のゴールはイマイチ把握できないんだよなぁ。

 

おそらく、初期は天国を目指していて、後に教義が煩雑になった結果として、生を滅ぼす云々という話が出て来て、そのような新しい教義と古い教義が語られた経典が同時に存在していて、それが故に教説が混沌を極めているのだろうとは思うけれども。

 

『スッタ・ニパータ』に関しては、短い文章を書き集めたような経典だから、その短い文章の成立にも新しいものと古いものがあるが故に、先の引用のような"ザマ"になっていると判断して良いと思う。

 

まぁ先の梵天界に行く云々を聞いたマーガさんは直前の記述によれば在家信者で、善き在家信者の死後の行き先は天国で、善き修行僧の行き先は解脱だと書かれた経典があった気がするから、マーガさんに関してはそういう話なんだろうけれども、経典によっては普通に修行者が天国目指していたりするので、仏教のゴールがイマイチ分からないという話には変わりはない。

 

ともかく、仏教では天国と地獄という概念が確かにあって、そしてキリスト教に関しても、どうやら仏教やインド的なものは教義の中に混入しているらしいという話は以前からしている通りで、それらは文化的に近いから、どちらも天国や地獄があるという様子がある。

 

そもそも、冥界という発想自体が古代中東のシュメール人の時点で存在していて、『イナンナの冥界下り』と呼ばれる、イナンナという女神が冥界を行ったり来たりする物語が刻まれた粘土板が出土していたりする。

 

「彼女は〔一番高い天〕から冥界に思いを向けた。

女神は一番高い天から冥界へ思いを向けた。

イナンナは一番高い天から冥界へと思いを向けた。

私の主人は天を投げ捨て、大地を投げ捨てた。彼女は冥界に下っていく。

イナンナは天を投げ捨て、大地を投げ捨てた。彼女は冥界に下っていく。

神官の地位を投げ捨てて、ラガル職の地位も投げ捨てた。彼女は冥界に下っていく。(五味享他訳 『筑摩世界文学大系 1 古代オリエント』 「イナンナの冥界下り」 筑摩書房 1978年 p.25)」

 

 

ここで冥界と訳出されている箇所に関しては、原文だと大きな地だそうで、冥界というのは意訳に過ぎないけれども、まぁ全文を通して読めば、冥界と解釈していい内容にはなっている。

 

このテキストは大体、紀元前2000年くらいのそれだそうで、それくらい古くから古代中東世界には死後の世界というか、冥界についての理解があった様子がある。

 

けれども、イナンナは神であって、神と人間は大きく違う存在だから、神に存在する冥界が同じように人間に存在しているかは分からないし、『イナンナの冥界下り』の時点では天国も地獄もなくて、ただ冥界であった様子があって、いつから天国と地獄という発想が生まれたのかとかは良く分からない。

 

少なくとも原始仏典やウパニシャッドの時代には、天国も地獄もあって、古代インドの修行僧は、苦行を行うことによって天国に行くことを目標にしていた様子はある。

 

ただ、そのように紀元前2000年の時点で冥界という発想が中東にあるというのなら、天国や地獄というそれもその辺りの地域で生まれたのだろうという推論がある。

 

古代インドの場合、バラモン教の『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』や仏教の『テーヴィッジャ・スッタ』では、天国は神々の世界であって、それは空にあるような言及のされ方になっているのだけれども、紀元前1700年ごろに成立したという話の古代アッカドの『アトラ・ハシース叙事詩』では、神々は天に昇ったという言及がされている。

 

「神々が人間であったとき、彼らは苦役に服し、重労働にあえいだ。
神々の労役は甚大で苦役は重く、苦悩は多かった。
7人の大いなるアヌンナキはイギギに苦役を負わせた。
彼らの父アヌは王、彼らの顧問官は英雄エンリル、
彼らの侍従はニヌルタ、彼らの運河管理官はエンヌギであった。
彼らは国土を取り、神々は籤を投じ(て)分割した。
[アヌ]は天に向け昇って行った。
海の閂である[差し錠は]思慮深いエンキに付与された。
アヌが天に昇ってしまいそしてアプスーの神々が下ってしまうと
天の[アヌンナキ]はイギギに[労役]を負わせた。(『アトラ・ハシース叙事詩』:参考)」

 

冒頭の神々が人間であったときというのは、人間と同じように地上で生活していたときという意味で、普通に地上での生活が苦しいから、アヌンナキと呼ばれる神々はイギギという下っ端の神々にそういう仕事を押し付けて、彼らは天に昇ってしまったという言及で、この後はイギギが反乱を起こす話が続いている。

 

ともかく、神々は天に昇ってしまったと『アトラ・ハシース叙事詩』には言及があって、先の『イナンナの冥界下り』でも天に居たイナンナが冥界に下ったのであって、個人的に古代インドの神々が居る天という概念は、シュメール人やアッカド人という時系列的に先行する人々の文化に根があるのではないかと考えている。

 

もっとも、僕はアッカド語とかは読めないので、原文がどうなっているのかはイマイチ判然としなくて、お手元の『筑摩世界文学大系』にも『アトラ・ハシース叙事詩』は収録されているけれども、アヌが天に昇ったというくだりに特に注釈はないので、原語がどのような言葉なのかは良く分からない。

 

それでも、おそらくはインドの天国や地獄は、シュメール人やその後に続くアッカド人の語るところの冥界と地続きで、紀元前千数百年の時点から原始仏教やウパニシャッドが書かれた紀元前数百年の間に、中東やインドやエジプトの何処かで地獄という発想が生まれて、それが故にあの辺りではそのような文化があって、それを受容したから仏教やキリスト教に天国や地獄という発想があるのだろうと思う。

 

だから、古代中国に天国や地獄という発想がないというのが特殊なのではなくて、世界三大宗教が誕生したのが中東近縁だから、その辺りに元来存在する文化として冥界という発想があって、それが故にそれらの宗教はそのような文化を持っているに過ぎないという話で良いと思う。

 

イスラム教でも当然地獄はあるけれど、イスラム教とて中東の文化の延長線上にある。

 

イスラム教では女性はスカーフで顔を隠すという文化があって、どうやらこれは古代中東のアッシリア帝国の伝統らしい。

 

「 おなじメソポタミアといっても、アッシリアの社会はバビロニアとはいささか性格を異にしており、ここでは家父長権力が強く、女性の地位も相対的に低かったように見える。中期アッシリア時代の『アッシリア法書』によれば、婦人は街に外出するのに、頭に被り物をつけなければならず、娘はさらにヴェールか衣服かマントで顔をかくさなければならなかった。(三笠宮崇仁編 『古代オリエントの生活』 河出書房新社 1991年 p.122)」

 

 

中期アッシリアは紀元前1000年くらいの話だそうで、結局、旧来の宗教の革新として生まれた新興宗教と言えども、土着の文化は無視できないのであって、西暦600年代に生まれたイスラム教で女性は顔を隠すという文化があるのは、そういう文化的な伝統があの辺りの地域にあったからという話であるらしい。

 

アッラーの教えではなくて、ただのアッシリアから続く伝統という話らしい。

 

もっとも、『アッシリア法書』とか日本語訳は存在していないので、実際の言及がどうなっているかは不明だから、全面的にあの言及を受け入れる前に、一歩立ち止まる必要はあると思う。

 

まぁ古代中東の専門家がアッシリアにはそういう文化があったと言及しているのだから、ある程度は信用して良いのだろうけれども。

 

ちなみに、先の引用文の直前には、処女に関する言及もある。

 

「 しかしながら、他方では、新バビロニア時代になると「花嫁は処女にかぎる」という考えが出現してくる。例えば、ナポニドス王時代の結婚契約文書には、つぎのような文言が見られる。

「アルディ=ネルガルの裔、ベール=アヘ=イディンの子ナブーナディン=アフは、ムシャリムの子シュム=ウキンに次のように申し込んだ。"処女である貴方の娘イナ=エサギラ=バナトを、私の息子ウバリツ=グラに下さい"……」(同上pp.121-122)」

 

キリスト教などでは処女であることが重要視される場合があって、現代日本人でも処女を重要視する人もいて、おそらくそれは古代中東の文化の延長線上にあって、名前も知らない古代中東人がそう言い始めたから、今生きている人の中でもそうと考えている人が居るという話なのだと思う。

 

ちなみに、ナポニドスは紀元前500年代を生きたそうで、その時点でおそらく処女を重要視する発想が古代中東にはあったという話なのだろうとは思う。

 

引用された翻訳文では処女であるということが強調されていて、処女性に関してはやはり、中東に端を発する文化に過ぎないのだと思う。

 

古代中国とか、『孫子』に「初めは処女の如く、後は脱兎の如く」という言葉や、『五十二病方』で初潮の下着を薬として使うという話があるくらいで、古代中国人は処女かどうかについての関心がない。

 

だから、処女を重要視するのは人類の普遍的な文化ではないのだろうと言えて、少なくとも新バビロニア王国の時代にはあった、中東の文化なんだろうと思う。

 

それと同じように、天国や地獄に関しても、あの地域にはそういう文化があるからそういう発想があるだけで、古代中国にそのようなものがなかったのはそのような文化が訪れていなかっただけの話で良いのではないかと思う。

 

古代中国人は死後の世界に十分な関心があって、関心がなければ社稷を守る儀礼を行う理由もない。

 

結局、天国や地獄などというものは、そういうミームに過ぎないのだろうと僕は考えている。

 

そんな感じの日記。

 

タイトルを決めて…これにしよう。

 

では。