『ヒストリエ』のビザンティオン攻囲戦について | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

この記事はどういう趣旨かと言うと、前回の『ヒストリエ』についての記事で僕は、岩明先生が『歴史叢書』という古代ギリシアの歴史について書かれた本を材料に『ヒストリエ』を描いているのではないかという話をした。(参考)

 

その事についてなのだけれど、今までの僕は『歴史叢書』のカイロネイアの戦いのところと、アテネのカレスに関係する所程度にしか目を通していなかった。

 

ただ、少し気になるところがあったので、『歴史叢書』のビザンティオンにおける戦いについての記述を確かめたところ、やっぱり岩明先生これ読んでんじゃね?と思えるような記述が確認できたので、今回はそれをまとめるだけです。

 

前回の記事では『ヒストリエ』におけるイフィクラテスやカブリアスについての話も書く予定だったけれども、記事のキャパの問題で書ききれなかったから、本来的にはその話を今月書く予定ではいた。

 

ただ、その事とこのビザンティオンの戦いについてのことをまとめて書くと、絶対に紙幅が足りないと予見できたので、今回はビザンティオンの戦いについてだけを書いていくことにする。

 

『ヒストリエ』の7巻の最後の方で、マケドニアはビザンティオンとペリントスに遠征に向かっている。

 

(岩明均『ヒストリエ』7巻p.156)

 

この一連の戦いについては、ディオドロスの『歴史叢書』を元に描いている可能性が高い。

 

今からどうしてそうと言えるのかについてはねっとりと色々書いていくけれど、もし、この『歴史叢書』が普通に書籍として翻訳が出版されていたならば、僕は岩明先生はこれを読んでいると断言していたというレベルでこの『歴史叢書』と『ヒストリエ』とでは重なっている部分がある。

 

実際に今現在存在する『歴史叢書』の日本語訳はネット上にある有志の方がした英訳からの翻訳しかない。

 

けれども、『歴史叢書』の言及と『ヒストリエ』の描写を鑑みるに、岩明先生は『歴史叢書』を読んだのではないかと思えるほどに情報が重なっている。

 

もちろん、プルタルコスの『英雄伝』や『地中海世界史』も材料として使われているらしくて、フォーキオンのくだりは『英雄伝』から、ビザンティオン後のトリバロイのところは『地中海世界史』から色々持ってきてるらしい。

 

ともかく、ビザンティオンの戦いを頭から見て行って、『歴史叢書』にその話がある事柄をあげつらっていくことにする。

 

まず、『ヒストリエ』ではペリントス攻囲にはパルメニオンが向かって、ビザンティオンにはフィリッポス本人が向かっている。

 

(岩明均『ヒストリエ』7巻p.196)

 

このことは『歴史叢書』にも言及がある。

 

「彼は軍を二手に分けて彼の一方の部隊をペリントス人を前にした作戦の続行のために最良の将官の指揮下で残し、他方をビュザンティオンに奇襲を仕掛けるべく彼が直率してその都市にも厳しい包囲を行った。(参考、以下は『歴史叢書』の場合同一サイトから引用の為リンクは省略する)」

 

彼というのはフィリッポスのことで、ここでフィリッポスは自身はビザンティオンに向かって、ペリントスには最良の将官を残したと言及されている。

 

『ヒストリエ』においてこの時点でパルメニオン以上の優良な将軍など存在していないのだから、『歴史叢書』の記述が参考にされているとしたならば、『ヒストリエ』の物語を考慮して、作中登場している最良の指揮官であるパルメニオンがペリントス攻略に充てられたと考えて良いと思う。

 

もっとも、戦いの経過には差があって、『歴史叢書』では一旦、フィリッポスはペリントスを攻撃した後に、時間がかかりそうだから軍を割いて自分はビザンティオンに向かったという言及で、そこら辺は丸ごと『歴史叢書』をなぞっているとは言えない感じになっている。

 

とはいえ、ペリントス攻略戦に関して、『歴史叢書』の記述と『ヒストリエ』では情報を共有している。

 

一応、『ヒストリエ』の時系列に沿って色々言及しようかと思ったけれど、一番分かりやすく『ヒストリエ』と重なっている、ペリントスについての描写から書いていくことにする。

 

『ヒストリエ』ではペリントスという町が特殊な構造で攻めづらいという話がされている。

 

(8巻pp.10-11)

 

ここで、ペリントスでは城壁が破壊されたとしても、街並みを利用してすぐさま新たな城壁を作ることが可能だったという話がされている。

 

この話は『歴史叢書』にもある。

 

「その都市の天然の地形は決定的な勝利のためにペリントス人を大いに助けた。そこは海によって横幅一スタディオンの地峡がある高い半島になっており、家々は互いに密集して非常に高くなっていた。丘の斜面沿いの建物は互いに高さを競い、概して言えばこの都市の面影はさながら劇場のようであった。防壁に絶えず生まれる割れ目にもかかわらず、路地を封鎖してさながら防壁のように家々の最も低い階層を適宜利用したためにペリントス人は打ち負かされなかった。フィリッポスはかなりの骨折りと激戦によって市壁を制圧すると、運命によってすでに家々が侵入者を待ち構えているのを見て取った。(同上)」

 

…なんというか、ここまで類似しているというのなら、それはもう、岩明先生がこの文章を読んだか、この文章を参考にした解説書を読んだという場合しか想定できないと思う。

 

この文章以外にも『歴史叢書』と『ヒストリエ』は情報を共有していて、『ヒストリエ』ではこの作戦で敵側にはペルシア軍の支援があったわけだけれども、その話も『歴史叢書』ではされている。

 

「かくして包囲は長引いた。市内の死傷者は数を増して物資は欠乏し、市は陥落寸前になった。しかし運命は危機に瀕した人たちの無事を無視することなく、予期せぬ解放を彼らに贈った。かねてよりフィリッポスの勢力増大はアジアにも伝えられており、ペルシア王はこの大国に警戒の念を抱いて沿岸地帯の太守たちにできる限りペリントス人を支援するよう手紙を書いた。かくして彼らは相談してペリントス人のために傭兵部隊、豊富な資金、十分な食料、投擲兵器、そしてその他軍事行動に必要な物資を送った。(同上)」

 

『ヒストリエ』では敵方が上等な投擲兵器を用いていて、それをペルシアが支援しているという言及がある。

 

(8巻p.9)

 

実際、先の『歴史叢書』の文章を見た後に『ヒストリエ』の描写を見ると、両者は情報を共有しているとしか判断できない。

 

このことをどう処理するかなのだけれど、まず、『歴史叢書』以外にこのことが書いてある未知の資料があって、岩明先生がそれを読んでいるという可能性がある。

 

次に、岩明先生は金は持ってるだろうから、ギリシア語の原文を依頼して誰かに翻訳して貰って、それを読んでいたり、岩明先生が英語やギリシア語を読む能力があって、英訳や原文を読んでそれを材料にしてそれらの描写を行っている可能性もある。

 

最後に、僕が読んでこの記事で引用している有志の方の英訳からの翻訳を実際に読んで、『ヒストリエ』を作っているという可能性があって、そのどれが正しいのかは僕には分からない。

 

ネット上にあるディオドロスの『歴史叢書』に関しては、実際問題としていつから存在しているのかが分からなくて、岩明先生が『ヒストリエ』の参考として利用できるタイミングでネット上に存在していたかは確かめる術を僕は持っていない。

 

色々なことを考えても、岩明先生はネット上の『歴史叢書』の翻訳を読んで『ヒストリエ』を描いているというのが最も分かりやすいけれども、実際のところがどうなのかは定かではない。

 

フィリッポスの遠征に話を戻すと、『歴史叢書』ではフィリッポスは投擲兵器や攻城兵器が多量に用いたという話がされている。

 

「彼は三〇〇〇〇人の兵と投擲兵器の蓄えと攻城兵器、さらにはその他の豊富な装置を有しており、籠城した人々を絶えず圧迫し続けた。(同上)」

 

ここで言う彼はフィリッポスのことで、このように『歴史叢書』では攻城戦に兵器を豊富に用いたという話があって、『ヒストリエ』でもその話はある。

 

(7巻p.209)

 

ここで破城槌が二コマ目に描かれているけれども、『歴史叢書』にも破城槌は言及されている。

 

「城壁に攻城兵器を曳いてきて激しく継続的な攻撃を敢行して破城槌の打撃で城壁の一部に裂け目を作り、その裂け目から市内に侵入して多くの敵兵を倒した。(同上)」

 

それらの描写はあくまでペリントス攻囲戦の話だけれど、『ヒストリエ』の場合はペリントスとビザンティオンを同時攻撃していて、実際、ビザンティオンでも同じことやっただろうから、ビザンティオンで攻城兵器のくだりの描写を持ってきたという話になると思う。

 

もし、『ヒストリエ』が『歴史叢書』を参考にしているならば、これらの描写は実際、先に引用した文章が元だろうし、この戦いで攻城兵器を用いたという記述を僕は『歴史叢書』以外で把握していない。

 

ともかく、そのように攻城兵器を用いても中々敵はしぶとくて攻め落とせずに、『歴史叢書』ではペルシア軍の支援に加えてアテネの援軍が到着したことにより、状況の不利を悟って講和したという話になっている。

 

「この年にフィリッポスがビュザンティンを包囲していることを知ったアテナイ人は票決を行って強力な艦隊をその都市の支援のために速やかに派遣した。彼らの他にキオス人、コス人、ロドス人、その他のギリシア人もまた援軍を送った。フィリッポスはこの共同行動を恐れて二つの都市の囲みを解き、アテナイ人及び彼と敵対していたその他のギリシア人と和平協定を結んだ。(同上)」

 

ここでキオス人、コス人、ロドス人、その他のギリシア人の援軍とあるけれど、前者の三つの名前はギリシア沿岸にある島の名前で、メムノンが率いたのが彼らだとしたならば、『ヒストリエ』の描写と合致している。

 

(8巻p.83)

 

ただ、先のペリントスの話と違ってそこまで類似している描写でもないので、この辺りが『歴史叢書』由来であるとは言えないと思う。

 

とはいえ、ここでペルシア軍の支援をビザンティオンが受けたという話がそもそも『歴史叢書』くらいしか把握できていないので、実際、『歴史叢書』が由来ということで良いのではないかと僕は思っている部分もある。

 

・追記

よく読んだらペルシアが傭兵部隊を寄越したって『歴史叢書』に書いてあるんだな、って。

 

「かねてよりフィリッポスの勢力増大はアジアにも伝えられており、ペルシア王はこの大国に警戒の念を抱いて沿岸地帯の太守たちにできる限りペリントス人を支援するよう手紙を書いた。かくして彼らは相談してペリントス人のために傭兵部隊、豊富な資金、十分な食料、投擲兵器、そしてその他軍事行動に必要な物資を送った。(同上)」

 

そうとすると、傭兵部隊の登場に関しても『歴史叢書』に依っていて、『ヒストリエ』の物語的に重要であるメムノンにそれを率いさせたという話なのかもしれない。

 

追記以上。

 

『ヒストリエ』ではビザンティオン近海に布陣していたマケドニア軍はフォーキオンによって壊滅させられたけれども、この話は『ヒストリエ』の原作である『英雄伝』に言及がある。

 

「(援軍に向かったカレスが碌な働きをしていないので、)フォーキオーンに別の援軍を率いてヘルレースポントスの同盟軍を救いに行くように命じた。(中略)人々はフォーキオーンが町の外に陣営を置こうと云うのを聴かず、城門を開いてアテーナイ軍を迎え入れ慇懃にもてなしたので、アテーナイの兵士も非の打てない思慮のある行動を取ったばかりでなく、町のものの信頼に応えて勇ましく戦った。その結果この時はフィリッポスもヘルレースポントスから撃退され、戦闘の相手がないとまで評判を取りながら軽蔑を受けるようになり、フォーキオーンはその軍艦を幾艘か捕獲しその守備隊のいた町々を取り返し、その領土の諸方に上陸して攻撃と破壊を事としたが、ついに敵の援兵からの傷を受けて帰航した。(プルタルコス 『プルターク英雄伝 9巻』 河野与一訳 岩波文庫 1956年 pp.197-198 旧字は新字へ 冒頭()は引用者補足 注釈は省略)」

 

細かい推移は違うものの、フォーキオンは引用文の最後で帰航したと書いてあって、水軍を率いていることが分かるし、ヘレスポントスでフィリッポスの軍を撃退したと言及されていて、ヘレスポントスはビザンティオンが面している海峡の事だから、実際、『ヒストリエ』の描写はここに由来しているということで良いと思う。

 

『ヒストリエ』ではカレスの援軍としてフォーキオンはビザンティオンにやってきていて、その話は『歴史叢書』にも『地中海世界史』にも言及がないし、他の資料ではそもそもフォーキオンの話自体がされていないので、ビザンティオンのフォーキオンの話は『英雄伝』由来と判断して良いのかもしれない。

 

加えて、『歴史叢書』ではアテネが艦隊を率いてやってきたことが停戦の理由として言及されていて、もしかしたらその辺りは『歴史叢書』からなのかもしれない。

 

「この年にフィリッポスがビュザンティンを包囲していることを知ったアテナイ人は票決を行って強力な艦隊をその都市の支援のために速やかに派遣した。(中略)フィリッポスはこの共同行動を恐れて二つの都市の囲みを解き、アテナイ人及び彼と敵対していたその他のギリシア人と和平協定を結んだ。(同上)」

 

実際のところは『英雄伝』のフォーキオンのくだりと、『歴史叢書』の折衷と理解するのが分かりやすい話なのかなと思う。

 

そうと言えども、フォーキオンが上陸して攻撃と破壊をしたという『英雄伝』の話は『ヒストリエ』にはなくて、そういうところを見ると微妙かもしれないけれど、フォーキオンに関しては『ヒストリエ』においてされる描写は大体『英雄伝』で言及されているそれで、『英雄伝』に由来するフォーキオンの描写については以前言及している。(参考)

 

結局の所、プルタルコスの『英雄伝』が原作であるとは言え、『英雄伝』ではエウメネスがスキタイであったりはしないわけであって、あくまで土台がそれなだけで、色々な変更は実際されている。

 

ビザンティオン攻囲戦については『地中海世界史』にも言及があって、ただ言及自体は別に『ヒストリエ』とは重なっていないから引用はしない。

 

書いてあるのはフィリッポスが直々にビザンティオンに行って攻囲して、けれども長引いてジリ貧になって、資金を捻出するために海賊行為を行ったという程度だから、あまり『ヒストリエ』とは重なっていない。

 

とはいえ、参考にはされているらしくて、それはビザンティオンの後のスキタイとの戦いの話がまんま『地中海世界史』の記述と重なっていることから分かる。

 

以前引用したけれど、折角だからまた持ってきましょうね。

 

「 その当時、スキュティアの王はアテアスであった。彼はヒストリアの住民との戦争で苦しみ、アポロニア人を介してピリッポスに援助を求め、〔自分は、ピリッポスを〕養子にしてスキュティア王国の継承者にするであろう、と言った。その間、ヒストリア王が死に、スキュティア人は戦争の脅威と援軍の必要から解放された。そこで、アテアスは〔援軍に来ていた〕マケドニア人たちを帰し、ピリッポスに、自分は彼の援助を求めたことも、長子縁組をしようとしたこともなかった、と伝えるように命じた。なぜなら、〔スキュティア人は〕マケドニア人より優れているのだから、彼らによる解放を必要としていないし、また息子が健全なので、自分に跡継ぎがいないわけでもない、というのである。これを聞いてピリッポスは、アテアスの所へと使者を出し、〔ビザンティオンを攻囲する〕戦争の継続を戦費の不足故に断念することにならないように、と言って、攻囲に要する費用を求めたが、〔彼によれば〕こういう要求を自分が〔アステア王に対して〕進んでしなければならないのは、同王を援助するために自分が送った兵士たちに、自分は勤務の手当てだけでなく、生計の費用すら与えていないからだ、という。これに対してアテアスは、天候の厳しさと土地の不毛さとを口実に持ち出し、それらがスキュティア人を財産で富ませず、食料もほとんどない状態にしてしまった、と言い、自分たちは偉大なる王〔であるあなた〕を満足させるような富は何もないのだ、と答えた。そして、〔さらに付け加えて次のように言った。即ち、自分たちは〕わずかなものを手にして仕えるような恥しいことをせず、むしろ全部を拒む方がよいと思う。自分たちスキュティア人は富によってではなく、精神の勇気と身体の頑強さとで評価されているのだ、と。(ポンペイウス・トグロス 『地中海世界史』 合阪学訳 西洋古典叢書 1998年 pp.156-157)」

 

この辺りはまんま『ヒストリエ』と一緒だし、獲得したものは女子供の奴隷と馬だったという話も『地中海世界史』にはある。

 

「勇気と気概でスキュティア人は勝っていたが、ピリッポスの狡猾さに敗れた。二万人の少年、婦人が捕らえられ、膨大な数の家畜も奪われたが、〔分捕り品の中には〕金や銀はなかった。それが何よりも、スキュティア人の貧しさの証拠であった。二万頭の血統の良い雌馬が純血種を作るためにマケドニアに送られた。(同上『地中海世界史』p.158)」

 

(『ヒストリエ』8巻pp.134-135)

 

…特に深く考えるまでもなく、これらの描写は『地中海世界史』由来ということで良いと思う。

 

流石に数字まで一緒であることは偶然ではないと思うし、この内訳が書かれているテキストを僕は『地中海世界史』以外把握していない。

 

この後のトリバロイとの戦いについても、まんま同じ内容が書かれている。

 

「 スキュティアからの帰途にあったピリッポスに、トリバルイ族が立ち向かった。彼らは分捕り品の分け前を受け取らなければ通過を許さない、と言った。ここから争いが生じ、やがて戦闘になった。その戦闘でピリッポスは太ももに大きな傷を負ったが、それは彼の体を貫いて、馬が殺されたほどであった。皆は彼が殺されたと思ったので、分捕り品は【トリバルイ族が持ち去り】消えてしまった。このようにスキュティア略奪は、言わば呪われたものとして、マケドニア人にとってはほとんど葬式になるところであった。(同上『地中海世界史』p.158)」

 

『ヒストリエ』では奇襲を受けていて、『地中海世界史』では奇襲というわけではないし、分捕り品は『ヒストリエ』では逃げて、『地中海世界史』ではトリバロイが獲得しているけれども、他の描写に関しては『ヒストリエ』と重なっていて、例えばフィリッポスが太ももに怪我を負って、馬がそれに際して死んだという話は『ヒストリエ』にもある。

 

(『ヒストリエ』8巻p.153)

 

加えて、スキタイでの鹵獲品が失われた話が『地中海世界史』ではされていて、それを含めた色々なことが呪われたものとマケドニアでは扱われた話がある一方で、『ヒストリエ』にもその話はある。

 

(『ヒストリエ』8巻pp.192-193)

 

『地中海世界史』だと「分捕り品は〔トリバルイ族が持ち去り〕消えてしまった。(同上)」とあるけれど、〔〕の部分は訳者の補いなので、実際には「分捕り品は消えてしまった。」と書かれているわけで、そうとすると『ヒストリエ』の描写の方が近いというか、岩明先生は「消えてしまった」という表現を混乱に乗じて逃げられたと理解したのだと思う。

 

そして、呪われた云々も両者ともに言及があるし、フィリッポスが死んだという風聞が両者で確認できる以上、どう考えたって『ヒストリエ』は『地中海世界史』を参考にしているわけで、このことを疑うことは逆に不誠実なのではないかと僕は思う。

 

ただ、実際の戦いの内容についての記述は『地中海世界史』にはなくて、その辺りは岩明先生のオリジナルというか、エウメネスを活躍させるためのあれこれは書籍を参考にしたわけではなくて、岩明先生が構築している様子がある。

 

ちなみに、『ヒストリエ』では65話から71話までにかけてで、ビザンティオン攻囲戦からトリバロイ戦までを扱っているけれど、『地中海世界史』ではその範疇はp.153からp.158の6ページでその話がされている。

 

文章だとその程度で終わる話が、漫画にすると6話もかかるのだから、色々大変だよなと思った。(小学生並みの感想)

 

最後に、ビザンティオン攻囲戦の始まりのところで、アテネのお偉方が数人描かれている。

 

(7巻p.158)

 

左から順に、フォーキオン、デモステネス、カレスという並びなのだけれど、一番右に誰か分かんない人物がいる。

 

これはおそらく…面子的にデマデスなんだよな。

 

彼が将軍であったならば、カレスと同じように鎧を着ている筈であるところが鎧を着ていなくて、当時アテネで有力だった人物で、ここに並ぶ人材となるとデマデスになると思う。

 

デマデスは当時のアテネの有力な弁論家で、マケドニア寄りの政策を取った人物になる。

 

彼はフォーキオンとデモステネスと同じように当時のアテネでは有力な人物であったようで、彼の話は『英雄伝』のフォーキオンとデモステネスの列伝にそれぞれ言及がある。

 

まぁなんというか、優れた弁論家ではあったようだけれど、人品は優れてはいなかったようで、フォーキオンの列伝の冒頭でひたすらディスられている。

 

「現にデーマーデース自身が難船した国家の破片なのであって、その生活も政策も厚顔無恥であったために、既に老人になっていたアンティパトロスはこの人の事を、儀式の後の犠牲のように舌と胃袋しか残っていないと云った程である。(プルタルコス 『プルターク英雄伝 9巻』 河野与一訳 岩波文庫 1956年 p.183 旧字は新字へ)」

 

まぁよく回る舌と強欲さしかないという揶揄という理解で良いと思う。

 

ただ、彼の弁舌は実際優れていたようで、その話はデモステネスの列伝に言及がある。

 

「孰れにしても、デーマーデースが、自分の天分を揮えば無敵であり、即席演説にかけてはデーモステネースの研究や準備を凌いでいたことは、全ての人が認めていた。(同上p.131 注釈は省略)」

 

彼はフォーキオンやデモステネスに比されるほどの演説の能力があった様子がある。

 

そのような演説能力によってアテネでは指導的な立場にあって、彼はマケドニア寄りの政策を取ったおかげで、マケドニアに屈服した以後のアテネではフォーキオンと共に主導的な役割を果たすことになっていて、その話はデモステネスの列伝の方に言及がある。

 

「(フィリッポスの死後にアテネではデモステネス主導の反乱があり、アレクサンドロスが鎮圧した。そして、)アレクサンドロスが国を去ってから、この二人(デーマーデースとフォーキオン)は勢がよくなったが、デーモステネースは振るわなかった。(同上『プルターク英雄伝 10巻』 p.150 冒頭()は引用者補足)」

 

この文章は英訳だとアレクサンドロスが帰国してからデマデスとその仲間たちは強い権力を持ったが、デモステネスは強い権力は持てなかったという感じの文章になっている。

 

まぁともかく、この時代で将軍ではなくてアテネで権勢を振るった人物と言えばデマデス程度なので、多分、デマデスなんだろうなぁという話です。

 

僕はギリシア史については詳しくなくて、ただ『ヒストリエ』の原作はプルタルコスの『英雄伝』だから、その『英雄伝』で当時、あの面子と並ぶ人物と言えばデマデス以外思いつかないので、デマデスなのではないかという話です。

 

そこら辺が明らかになるのは…もう今後、無いかもしれませんね…。

 

あんな一ページにだけ出てくるどうでも良い人物の名前なんか、ねぇ?

 

という感じの『ヒストリエ』のビザンティオン攻囲戦について。

 

この記事の本旨は『ヒストリエ』のビザンティオン攻囲戦は『歴史叢書』由来なんじゃないかという話なんだけれど、所々重ならないにしても、『歴史叢書』の記述は参考にされていると判断した方が妥当なのではないかと思う。

 

そして、その必ずしも重ならない部分に関しても、その"重ならなさ"は他のテキスト、『英雄伝』や『地中海世界史』の"重ならなさ"と大きな差異が見出せない。

 

そうとすると、岩明先生は『歴史叢書』を参考にしていると考えた方が良いわけだけれども、出版されてないからなぁ、この本。

 

出版されていたならば、『歴史叢書』も他のテキスト同様、岩明先生が参考にしているって言いきってしまっているところなんだけど、まぁ僕には分からないという言及にとどめておくことにする。

 

そんな感じです。

 

では。

 

・追記

他の記事でも言及があるけれども、どうやら、『歴史叢書』は原典訳は存在していなくても研究者は普通に目を通す史料であるらしくて、あれくらいの時代の解説書には『歴史叢書』に記載されている情報が用いられていたり、『歴史叢書』の文章が引用されたりしているらしい。

 

現に、『アレクサンドロスとオリュンピアス』というこの時代の専門家が書いた本の中で、『歴史叢書』の文章を引用している場面に僕は出会っている。

 

だから、例え『歴史叢書』の原典訳が出版されていなかったとしても、その情報に日本語しか出来ない人物がアクセスすることは可能らしい。

 

よって、どのようなルートからであったかはさておいて、この記事で示したように岩明先生は『歴史叢書』の情報を持っていると判断した方が良いのだから、何らかのテキストでこの記事で言及した内容を得ているらしいというのが実際になる。

 

まぁ実際、どんな資料を読んだのかとかは分からないけれど、『歴史叢書』の情報は用いられていると判断した方が事実妥当だと僕は考えていて、逆に用いられていないだなんて話をする方が無理筋なのではないかと思っている。

 

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