耽美な姦邪に酔わせてよ | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回はtwitterで呟いたものの再利用…という体で色々書いていく。

 

書くことがないではないのだけれど、正直、一つの記事を一つの話だけで書くと疲れるからね、しょうがないね。

 

とにかくやっていく。

 

・ダーウィンの進化論について

進化論を否定する人が時々言う言葉として、「ダーウィンの進化論は否定されている」というそれがあるけれど、あれは正しいんだよな。

 

実際問題としてダーウィンの進化論は否定されている。

 

ただ結局、彼らは確証バイアスが働いていて、その言葉がどういう意味かを理解していないから、進化論が否定されていると勘違いしているだけに過ぎないのだけれど。

 

以上。

 

冗談でも何でもなく、ダーウィンの進化論は否定されていて、創造論者などの進化論を否定する人たちが言う、「ダーウィンの進化論は否定されている」という言葉は何ら間違ってはいない事柄になる。

 

けれども、ダーウィンの進化論が否定されているところで、別に進化論が否定されているわけではない。

 

どういうことかと言うと、ダーウィンは1800年代に生きた数百年前のおっさんで、彼は進化論を提唱した人物だけれども、当時の観測と当時の理解では色々限度があって、彼の議論には時代遅れのものが多々ある。

 

例えば、遺伝についてダーウィンは生物の体には謎の粒子が充満していて、生きているうちにその粒子が情報を蓄えて、生殖に際してその粒子が生殖器に移動してそれが子孫へと伝わっていくと考えていたりした。

 

それは現在の進化論だと否定されていて、遺伝を決定づけるのは後の研究で遺伝子であると分かっている。

 

このように、ダーウィンの進化論自体は古いもので、ダーウィンの進化論は否定されている言葉自体は正しいものになる。

 

けれども、だからと言って進化論が否定されているかと言えば全然そうではなくて、まだ分かっていないことも多いけれども、その議論は概ねにおいて実験と検証によって確かなものとなっていて、キリスト教徒とかそういう特殊な事例を除いて、進化論は広く受け入れられているようなそれになる。

 

進化論の本を読めばわかるけれど、大部分の議論は理路整然と道理に適った説明がなされている。

 

頑迷なキリスト教徒は自身の内にある教義と相反する進化論の議論を頭から否定していて、けれども否定するにしても別にその攻撃対象の進化論の議論を存じ上げていないということが多々ある。

 

以前にも言及したけれども、エホバの証人の人々は強く進化論を否定するような集団なのだけれど、僕は彼らの勧誘を受けて、彼らがどのようなことを考えているか知りたくて彼らと話したことがあったけれど、彼らに「あなたたちは進化論の本を読んだことがあるのか」と聞いたら、その場にいた三人の内三人が読んだことがなかったという出来事がある。

 

エホバの証人のテキストの中で、簡単な進化論の実験の話があって、このような実験があって、このことから進化論は否定されているみたな話が載っているのだけれど、その話はまだ進化論の本を一冊も読んでなかった当時の僕でさえ反論出来そうな稚拙なもので、今の僕は目の前にそのテキストを提出されたら、何の苦も無くそれがどうしても間違っているのかを説明できると思うようなものになる。

 

彼らは進化という瞬間があると考えているようだけれど、進化は一世代で突然起きるわけではない。

 

説明としては突然変異が起きて進化が発生するというのはそうなのだけれど、実際起きる突然変異は遺伝子の中の蛋白質を作る塩基の並びが少し入れ替わったり、少し重複したり、少し欠損したりとかそういう程度の変異で、僕らが普通想像する突然変異は進化論の想定する突然変異ではない。

 

僕らがイメージするような大きな突然変異は多くの場合致死的で、そのような突然変異が一世代で起きたとしても、その変異を持った個体は多く子孫を残すことに失敗するし、多く重度な障害を持っている。

 

だから、残っていくのは致死的ではない小さな突然変異が多くて、長い歴史の中でそれが積み重なって、気付いたら数十万年前の祖先と姿や遺伝子に変化が現れることがあって、そのようなことを言って進化と言っている。

 

加えて、致死的ではない大きな形質の変化が一個体で起こったところで、他の多くの個体はその変異を持っておらず、世代が進むとその特異変化は他の特殊ではない個体の遺伝子に希釈されていくのであって、世代を重ねるとそのような変異は他の遺伝子に紛れてあまり目立たなくなっていってしまうというか、その遺伝子が集団の中で優勢になるということはまず起こらない。

 

人間が生きているうちに観察できるような変異は普通定着しない。

 

進化という言葉に先入観が強すぎてあれなのだけれど、進化は瞬間のことでもなければ進歩のことでもない。

 

割と本気で進化という言葉は誤解を招くから他の言葉を用意した方が良いと思う。

 

一応、そういう風にしっかりとした説明は進化論に存在しているのだけれど、エホバの証人のテキストを読む限り、進化を瞬間や前進のことだと捉えているし、実験室で色々やったけれど進化は起きなかったし、突然変異が起きても定着しなかったとかいう話がされている。

 

進化論の想定している進化と、エホバの証人の想定している進化が違いすぎる。

 

彼らエホバの証人の人々は、進化論を理解する気なんてないのだろうなとおぼろげに思う。

 

結局、信仰心というのはそういうもので、このことは宗教の話だけではなくて何の話でもそうなのだけれど、自分と相反する陣営の話は基本的に聞かないし、相手がどんなことを言っているか調べようともしない。

 

右翼の人々は左翼の人々がどういうロジックに則っているのかなんて表面的にしか知らないし、創造論者は進化論の議論をロクに存じ上げていない。

 

僕は古代インド、古代中国、古代ギリシアの少しのテキストを読んだけれど、仏教もジャイナ教もバラモン教も、儒教も道教も、ギリシアの哲学という宗教も、進化論に対して道理に適っていないとしか判断できなかった。

 

そもそも、僕がそのような古代の本を読むのは歴史学的な目的があるわけではなくて、進化論的な目的のために読んでいる。

 

人間という生物を考えるに際して、文化的な判断と生得的な判断を区別するために、古代の情報の流通の少ない時代の人々の振る舞いの差を検討するためにそういうことをやっている。

 

だから、進化論の方が優れているというバイアスが初めから存在していて、僕も色眼鏡でしかそれらのことは見れていない以上、正しく判断できている保証は何処にもない。

 

とはいえ、古代インドのおっさん連中が妄想した内容に世界の真理が含まれるという議論の意味が分からないので、彼らの言動は基本的に妄想と大差ないと判断している。

 

そこら辺の道を歩いているおっさんも、古代インドのおっさんも、かなりの同じ遺伝情報を共有しているヒトという生物の一個体ということは変わりがなくて、根本的に彼らの議論は僕ら現代人の議論と属性を異にしているということはない。

 

僕らが知りえることしか知りえないように、彼らとて知りえることしか知りえない。

 

彼らは色々な妄想をしてそのことは文字に書かれて今現在に残っているけれども、そのテキストはそうというより、文献に残っていないだけで人間として数千年営々と生活をし続けてきたのが実際だから、その際に生じた色々な文化や伝統が沢山あって、それが故に彼らはそのようなことをしているんだろうなというような内容になっている。

 

彼らもなんで自分たちがそういう振る舞いをしているのかイマイチ理解できていないようで、自分たちの儀式や儀礼の振る舞いの説明に多大な紙幅が割かれている。

 

まぁ説明と言っても、何を根拠にそうだと断言しているのか分からないようなものが過半なのだけれども。

 

仏教の場合は比較的新興の宗教だから、当然、新しい儀礼とかも多いのだけれど、結局多くの儀礼はバラモン教と共有していて、例えば、仏教では酒を飲むことは原始仏典の時代からの古い禁則事項で、けれども、これは元々はどうやらバラモン教の儀礼らしい。

 

『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』にはいくらかの禁則事項についての言及があって、その中に、師匠を殺すことと並列される形でスラー酒を飲むことが禁じられている。

 

…師匠の妻を寝取る話だったかもしれなくてお手元の『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』を確かめたけれどページ数が多すぎて見つからなかったし、ネット上の英語のテキストを確認したけれど、スラー酒は意訳されているらしくてF3キーで"Surāh"と入れても検出されなかったので、確かめないでおく。

 

…頑張って探したら見つかった。

 

黄金を盗んだ場合、スラー酒を飲んだ場合、師匠の妻を寝取った場合、バラモンを殺した場合、そして、そのようなことをした人と交際した場合、チャンダーラ(不可触民)に来世生まれ変わると書いてあったけれど、元の文章が難解なことに加えて訳が悪いことがあって、何を言っているのか分からないから引用はしないでおく。

 

古代インドの場合、研究者が少なすぎて訳がこなれていなくてクソだという事情がある。

 

英訳の方がよっぽど読みやすいんだよなぁ…。

 

スラー酒は『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』の五章の10-9に言及がありますね…。

 

けれどもスラー酒という言葉をそのまま使うくせに、スラー酒についての注釈は存在してないんだよなぁ…。(激怒)

 

スラー酒が何か良く分からないから手前で調べたのだけれど、スラー酒というのはインドに存在する強い酒のようで、Wikipediaにも記事がある。(参考)

 

リンク先を読んだら分かるように、『リグ・ヴェーダ』の時代からあんまり良くはないと思われていたらしくて、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』の時点ではスラー酒を飲むことは師匠に対する裏切り並みの悪行ということになっている。

 

確か、『ヤージュニャヴァルキア法典』でも同じように酒に対しての禁忌があったと思う。

 

そういうようにインドでは酒に対する禁忌の風土が存在していて、仏教で酒が禁じられているのはそのような文化的な延長線上にあると思う。

 

他には、日本の小乗仏教の信徒の人が書いた本を読んでいたら、小乗仏教はウポーサタという集会をやっていてそこでよく修身しているから優れていて、それをやっていない大乗仏教はクソだというような話がされていた。

 

その人はウポーサタを仏教独自の教えだと思っていたようだけれど、ウポーサタは仏教成立の数百年前に書かれた、『シャタパタ・ブラーフマナ』に言及があるバラモン教の儀礼でしかないんだよな。

 

このウポーサタはジャイナ教でも存在するようで、ジャイナ教の聖典を読んでいたらウポーサタの話があったので(ヘーマチャンドラ『ヨーガ・シャストラ』)、インドではある程度常識的な振る舞いであったらしい。

 

ウポーサタが何かだなんてどーでもいーので説明はしないけれど。

 

僕はその程度のことには理解があるくらいには古代インドの本を読んでいるし、その古代インドの本より遥かに古代中国の本を読んでいるのだけれど、その上で下す判断は、やはりそれらより進化論は道理に適っているだろうというそれになる。

 

基本的に宗教は根拠を示そうという事柄に対して根性が足りないからね、しょうがないね。

 

それに対して進化論は根性があると思う。

 

次。

 

…なのだけれど、記事の量が少し多くなってしまったために分割する。

 

続きはここ。(参考)