文身の血族 | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

この前、『ぼくらの』という漫画の解説を公開したときに、そのことをtwitterでも伝達した。

 

そのようなことは大体2年ぶりくらいだった。

 

何故そういうことをしたのかと言うと、『ぼくらの』の作者である鬼頭莫宏先生がものみち湖という名義で描いていたエロ漫画を御厚意で譲っていただいたことに関係がある。

 

譲っていただいた方は一応、twitterをやっていたから、遅ればせながらこのサイトで公開しましたよということを伝達するためにそういうことをやったのだけれども、まぁどうせ連動するならば、ここのことは隠し切れなくなるんだから、『ぼくらの』の解説の方も通知することにした。

 

僕にとってあの解説作業は苦行でしかないし、幾人かの人が「金貰っていいレベル」とかいうから(参考)、書いてて辛いということを示した上で、「Amazonのほしい物リストを公開したら…買っていただけるんね?」といって、このリンク(参考)を貼るというネタをしたくて、そういうことをした。

 

そういうつもりでtwitterとアメブロを連動して、一応100人くらいフォロワーはいたのだけれども、反応があったのは5~6人だった。

 

それだったらあのほしい物リストを公開してもあんまり意味ないなと思って、ほしい物リストは公開しなかった。

 

あーもう滅茶苦茶だよ。

 

とはいえ、よう分からんけれどもここ2週間くらいのアクセス数はそれなりに良くて、僕はそのアクセス数を見て、僕が書くものなんて漫画の解説以外に大して重要なものはないのだなということを改めて認識した。

 

基本的にこのサイトは、漫画の解説の記事と神奈川県秦野市にある被差別部落についての記事しかアクセスないからね、仕方ないね。

 

実際、神奈川県秦野市にはかつて穢多身分の人たちの集落があって、けれども、ほぼ完璧にそのことは隠蔽されている。

 

まぁ、穢多身分の人たちなんて、ただ単に先祖の仕事が皮製品製造だったという以上のことはなくて、その人たちが江戸時代に何処に住んでたかだなんてすこぶるどうでも良いことなのだけれども。

 

僕がそういう記事を作った時は、どうググっても秦野の被差別部落についての情報はネットでは得られなかったのだけれども、今現在だと沢山引っ掛かるから、僕があの時した努力は今現在だと全く無意味だと分かっている。

 

僕は分からないことを分かるようにする作業が好きだからそういうことを調べたけれども、それ以外で穢多身分の人たちが住んでいたところなんて調べてどうするんだろうと思うし、例えば、僕とかは先祖が隼人と呼ばれる異民族なのであって、彼らは大和朝廷との戦争に敗れた以上、身分的に被支配階級になるし、多くの日本人は結局、大和朝廷との戦争に敗れた被支配階級出身になる。

 

穢多という身分の人々は、そうやって戦争に敗れた人々が、軍事的必要性から、軍需品としての皮製品の製造のために集住させられたということに起源を持っている。

 

たまたま日本の場合、古代中国の文化的影響を受けて、死体が穢れているという発想を持っていたから、その死体を扱う職業柄によって後々差別されるようになっただけであって、血統的には他の日本人と大差はない。

 

特に僕とかだと、同じように被支配階級出身なのだから、血縁的にはもしかしたら天皇家の人々より近いのかもしれない。

 

まぁそんな話はさておいて、今回はtwitterで呟いたことの再利用。

 

なのだけれども、最初のトピックは呟こうと思っていたけれど呟き忘れていて、だからってわざわざ一回twitterで呟いた後にこっちにコピペするというワンクッションが必要とも思えないので、呟きを再利用したという体で今から普通に書いていきます。

 

・入れ墨の輩について

古代中国には入れ墨をした集団についての言及があって、彼らは中華世界の人々から見て野蛮人であって、辺境に住んでいたという様子がある。

 

具体的には呉や越と呼ばれる国の人々であって、彼らは古代中国の歴史書である『史記』や思想書である『荘子』などで、その異様な風貌について言及されている。

 

それらの国の人々は体に入れ墨を彫っていたという認識が当時の中国人にあったらしくて、例えば『史記』の「魯周公世家」の中で、呉という国の王様のセリフの中で、「わしは身にいれずみをしている夷狄だから、中国の礼ではとがめられても仕方あるまい」というそれがある。(司馬遷『世界文学大系 5a 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 pp.231-232)

 

『荘子』の中に越の人は入れ墨をしているという話がある。(参考)

 

彼らの勢力範囲なのだけれども、そういう風に中国の南の方の越や呉という地域に存在していたということは間違いなくて、ただ他の地域にも同じように入れ墨をしていた集団がいたらしいということが『礼記』の「国制」の記述から分かる。

 

東西南北の蛮族についての記述の中で、南の人々について入れ墨をしているという記述がある一方で、東に居る人々も入れ墨をしていると「王制」に言及されている。どうやら、彼らの勢力範囲は中華世界から見て、東と南にあたる地域にあったらしい。

 

この「王制」がいつ書かれたのか分からないのだけれども、紀元前に書かれたのは間違いなくて、漢の時代に書かれたのなら今の朝鮮半島か日本辺りが東に位置する地域になって、彼らは入れ墨をしているという認識が当時の中国にはあったということになる。

 

一方で、『魏志倭人伝』の中では倭人は入れ墨をしていたという記述があるということを考えると、それらの人々はやはり、『礼記』や『史記』で言及のある南や東の蛮族は同じ民族なのではないかなと思う。

 

以上。

 

『礼記』の「王制」に以下のような文章がある。

 

「 中国と四夷との五方の住民は、それぞれ固有の性質があり、それを移し替えることは出来ない。東方に住んでいるものを夷といい、髪を結わず身体に入れ墨をし、火食をしないものがいる。南方に住んでいる者を蛮といい、額に入れ墨をして足を交差にして寝て、火食をしない者がいる。(市原 享吉他訳『全釈漢文大系 礼記 上』 集英社 1976年 p.348)」

 

呉や越という国は中国から見て南にあって、ここでは額の入れ墨にしか言及がないけれども、『史記』や『荘子』の記述を鑑みるに、他の箇所にも入れ墨はあったと考えていいと思う。

 

この記述に従えば、中華から見て東と南の地域にはなんか入れ墨をしていて生肉とか生魚とか生野菜とかを食う人たちがいるという認識が当時の中国にはあったという理解が妥当かなと思う。

 

『魏志倭人伝』には生野菜を食べることしか言及はないけれども、トータルで考えて、彼らと『魏志倭人伝』に登場する人々は、同じ民族か非常に近い文化を持っている人々であるという理解で問題は特に見当たらない。

 

『魏志倭人伝』に出てくる日本人は入れ墨をしている。

 

『礼記』はイマイチいつ書かれたのかとか分からないのだけれど、遅くて紀元前二世紀くらいであって、古くてそれより二~三百年前になる。

 

漢代に書かれたのなら、東は朝鮮半島辺りということで良いのだけれども、それより前だったら、山東半島の先の方まではまだ中華の領域でなかったということもあり得て、そういう所を指して東と言っている可能性もある。

 

まぁとにかく、中国の沿岸には生でものを食べて、体に入れ墨をしている人々が住んでいたということは間違いないと思う。

 

彼らの領域を考えると、陸では中華圏に分断されて版図を持っていて、彼らは船を使って海伝いに入植をしていたから中華から見て東と南に存在していたのだろうと推測出来て、その様な人々ならばやはり、日本にも訪れていたと思う。

 

朝鮮半島から対馬は視認できるし、対馬から九州も視認できる。

 

特に日本人に多い下戸の遺伝子は、中国の南の方で発生した遺伝子だと分かっていて、この入れ墨の集団に存在する遺伝子が下戸の遺伝子で、彼らはその遺伝子を伴って日本にやってきていたという理解が分かりやすいと思う。

 

結局、『魏志倭人伝』に出てくるのは彼らであって、僕は彼らと『古事記』や『日本書紀』の書き手の人々とは違う民族だと考えている。

 

なにせ、それらの本では入れ墨をしている人々が敵対勢力として出てくるのだから、根本的に違う民族なんだろうな、って。

 

ただ、普通に歴史学者は『魏志倭人伝』の登場人物と『古事記』や『日本書紀』の登場人物は連続していると考えていて、卑弥呼は天皇の内の誰だろうという議論をしていたりする。

 

どういう根拠でそういうことを言っているのか分からないけれども、少なくとも『日本書紀』などの登場人物は入れ墨をしていなくて、その敵が入れ墨をしている以上、僕はそういうことだと思っている。

 

次。

 

・鳥居について

多分、鳥居とトーテムポールには共通の祖先たる元ミームがあるな。

鳥居のことはいくら調べても何も分からないけれども、考えたらトーテムポールがネイティブアメリカンの文化にあるし、シベルアのいくつかの部族にもある。

おそらく、住居や神聖なものの前に木で出来たモニュメント設置するというような元ミームがシベリア辺りにはあって、それが日本では彫刻するという文化が生じる前に分化して鳥居になって、シベリアやアメリカ大陸ではトーテムポールになったのだと思う。

古代中国の歴史書である『国語』に垂木についての記述はあって、けれどもそのようなものを門前に立てるという発想はなかった。中華由来のミームではないのだと思う。

望み薄だけれども、『淮南子』や『山海経』を開いて北方の領域についての記述を確かめれば、もしかしたら柱を立てるという発想が存在しているかもしれない。

 

以上。

 

僕は漫画の解説の中で少し鳥居について言及するシーンがあって、それに必要だからという理由で、神道の大辞典とかを開いたりして鳥居について調べたことがあった。

 

あったのだけれども、なーんにも分からなかった。

 

鳥居に関してだけは本当に情報がなくて、いくら調べてもどういうルーツを持っているのかとか一切分からなかった。

 

個人的に、鳥居というのは元はシベリア辺りの文化なのではないかと思う。

 

トーテムポールというのはネイティブアメリカンのアラスカ寄りの地域の人々の文化であって、木を彫って彩色したものを家の前とかに立てたり、その細工をした柱を家の柱にしたりする文化になる。

 

この文化なのだけれども、中国北のシベリアに住む人々の間でも見られる文化であって、シベリアに住む少数民族の中にこのような柱の文化を持っている人々がいる。

 

鳥居という文化はこれと共通の祖先を持ったものなのではないかと思う。

 

木を削って彩るという文化が生まれる前の段階で分化した、神聖な場所に作る木のモニュメントが今から2000年以上前のシベリアにあって、その文化が南進して鳥居になって、その地域で後にトーテムポール様に彩るという突然変異が起きた後に、アメリカに渡ったのではないかと思う。

 

結局、僕はヤマト王朝の人々は北方にルーツを持っていると思い込んでいて、その人々の宗教の中に神聖な建物の前に鳥居を立てるというそれがあるということは、北方にそのような文化がかつて存在していたのではないかという推測がある。

 

彼らの墓制はかつて古墳だったけれども、元々古墳は騎馬民族の墓制であって、中央アジアなどではクルガンと呼ばれている。

 

僕はその墓制を持った集団が今の天皇に連なる民族集団だと考えていて、実際、北朝鮮には紀元前後に作られた高句麗の王の古墳が遺跡として残っている。

 

古墳が日本独自の文化で、日本発祥だと主張する人も実際居るのだけれども、そういう人たちは北朝鮮のこの遺跡のことをどう思弁的に処理しているのかイマイチ分からない。

 

日本のことを一旦横に置いて、ある建築様式が時代と共に段々と移動していて、海を越えて同じ建築様式を持った建造物が見られた場合、その建築様式の文化を持つ集団が移動したと判断するのは別におかしな発想ではないと思う。

 

そもそも日本にはそれまでの石支墓や甕棺墓と古墳との過渡期にあたる中間的な墓制はなくて、完成形の形で日本に現れるのだから、その文化は訪れたものだと考える方が妥当だと思うし、特に古墳なんて建築のノウハウを持った技術者が居なければ作れないし、僕らが古墳に入りたいと思わないように、突然古墳の技術者が現れたところで作ろうとは思わないだろうという推論があって、そういう墓制を持った集団が日本に訪れたと考えたほうが無理はないと思う。

 

とはいえ、クルガンに埋葬されているのはインド・ヨーロッパ語族の人々であって、紀元前後のシベリアに居たのは必ずしも印欧語族の人々ではないのだから、同じ墓制だからと言って同じ民族ということにはならない。

 

まぁ少なくとも高句麗の王の紀元前後の墓が北朝鮮に存在しているということから、古墳という文化は日本のオリジナルではないということは確かだと思う。

 

それと、トーテムポールはよく動物の霊と関連付けられるのだけれども、鳥居は"鳥が居る"と書くのであって、鳥居にしたところでやはり、動機としては何らかのアニミズム的な発想が根底にあるのかなとおぼろげに思う。

 

シベリア辺りの地域は木があまり多くなくて、そうした木のモニュメントは目立つし、そのようなものを用意できる権勢の誇示という意味合いがあったということも想定できる。

 

ただ、実際のところは分からないし、『淮南子』や『山海経』に北方についてで柱に関する記述があったとしても、そのことは参考程度にしかなりはしない。

 

次。

 

・木々の青々しさについて。

日本語で緑のことを青と表現することがあるけれども、それは中国由来のミームなのだな。『論衡』の"論死"の中で、植物の瑞々しい色のことを青と表現している箇所があって、同じ個所を現代中国語訳を確かめたけれど、青になっていた。

 

以上。

 

…まぁ言いたいことも言えることも何もない。

 

ただ、青信号が緑なのに青信号なのは、新聞が緑なのに青だと報道してしまったからだという話がある、(参考)

 

けれども、木々の瑞々しい緑を指して青というのは古代中国から連綿と続く文化で、漢字などと共に日本に訪れた文化でしかなくて、青信号を青というのは普通に、その文化の延長でしかないという判断しか僕には出来ない。

 

基本的に日本の文化は中国由来が過半だから、青信号のこともただそうなのだろうと僕は思う。

 

むしろどうして新聞の記事に由来の当てをつけたのかとか、ちょっと良く分からない。

 

これくらいかな。

 

この記事は冒頭の愚痴を言いたくて、最近の記事ではこういう呟きの再利用の時しかそういう愚痴は書けていないので、そのために見繕った記事です。

 

なので、僕の苦行をねぎらいたいな、と思った人は、ほしいものリストから買って、どうぞ。(参考)

 

正直、『儀礼』辺りの値段を始めて見た時は、僕も「買えるか!」って思ったよ。

 

やっぱり、『儀礼』はヤフオクで全巻セットで4~5万で出てた時に買うべきだったんだろうなと思う。

 

まぁ図書館で内容を確かめたら、文語調で翻訳されていたのだけれども。

 

そんな感じ。

 

では。

 

・追記

青信号については、元々緑信号という表記も存在していたのだけれども、新聞の表記によって、青信号という認識が広まったという話らしい。(参考)

 

両方の用法が存在していて、けれどもいつしか青信号という認識が優勢になって、優勢になった理由の想定として新聞という媒体の表記という可能性が挙げられるという話みたい。

 

僕はテレビをあまり見ないのだけれど、珍しくテレビを見る機会があって、その時に「チコちゃんに叱られる」という番組をたまたま見てその話を知ったのだけれども、あの編集だとそういう話だとは分からなかったんだよなぁ…。

 

この記事のインタビューの相手である教授の名前は、見てみたら「チコちゃんに叱られる」でインタビューを受けていた教授と同一人物だった。

 

時系列的には記事が先行していて、おそらく、あの番組を作った人はこのインタビュー記事を読んで、番組制作の時にインタビューをまた行ったのだと思う。

 

ただ、別に新聞が青信号という情報の発信源だという話に十分な根拠はないと思う。

 

ラジオだってあったわけであって、人伝いで情報が伝わったという可能性もある。

 

分からないことは分からないと言ったほうが良いと思うけれども、まぁ娯楽目的のテレビ番組なのだから、色々仕方がないと思う。