言の葉のいたずら | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回はホピ族の神話と、精神分析学についてと、ついでにエホバの証人についてになる。

 

その三つに一体何の関係があるの、と思う人も居るかもしれないけれど、関係自体はなくて、けれども、方法というか結果が少し似ているので、そういう話です。

 

まず、ホピ族の神話というものを知っているだろうか。

 

ホピ族というのはネイティブアメリカンの部族の一つで、アメリカのアリゾナの砂漠地帯に住んでいる(住んでいた)民族になる。

 

所謂一種のインディアンなのだけれど、彼らは数いるインディアンの中で、少しだけ有名な人々になる。

 

何が有名かと言うと、彼らの神話というか、彼らの予言が有名であって、何でも、ホピ族の神話の中には未来を予測したものが含まれているという話らしい。

 

曰く、核兵器の登場を予想しただの、世界大戦と世界の滅亡を予言しただの云々。

 

そういうことが彼らの神話の中に言及してあって、彼らは未来を予言したとかいう文脈で、ホピ族というものは有名だったり有名じゃなかったりしている。

 

今回はその嘘について書いていくことにする。

 

僕は古代中国や古代インド、古代中東世界の古いテキストを人よりは多く読んできた。

 

それらは神話と呼んでいいようなレベルで古いものも多くて、それを読んだ結果、僕らが漠然として抱いている神話というイメージは概ねただの偏見でしかないということが分かってきた。

 

結局、持っている文化的な情報が違って、住んでいる場所の気象状況や生活形態が違うことに由来する価値観の違いはあれども、この文章を書いているのは僕らと大差がない人間であるということが強く認識されるに至っている。

 

専門的な事柄については僕らより遥かに賢くて、けれども、時折ヘンテコなことを言及してみたり、傲慢さや暴慢さ、素朴さや朗らかさを持った僕らと大差がない人々で、ただのホモ・サピエンスがそこに居ただけなのだと僕は強く思うことになった。

 

例えば、古代インドのウパニシャッドの中には、妻が不倫した相手の男性を呪い殺す呪文についての記述があったり、古代中国の『墨子』には幽霊は実在するということについての記述があったり、それに対して『論衡』では幽霊なんているわけないだろという話が収録されている。

 

『史記』という古代中国の歴史書には、友達と飲んでたらいくらでも飲めるけれど、偉い人の前で飲めと言われたら委縮して直ぐに酔ってしまうという話や、『荘子』には禿げたら鬘を被るという文化についての記述があったりする。

 

仏典の中にも、他の宗派の人たちに対してあいつらは全く無知な連中だと苦言を呈する記述が結構多くて、自分たちより高い身分の人々を羨んで、彼らのようになろうとするような経典も結構ある、

 

結局、文化や習慣が違うだけで僕らとあまり大差のない人間だということしか見て取ることは出来ない。

 

だから、ホピ族の神話にしたところで、それを考えた人は僕らと同じ人間であるのであって、僕らがそうであるように、未来のことを予言して見事的中させるだなんてことは出来はしない。

 

けれども、事実として、ホピ族の神話の中には、核戦争を思わせるような記述が存在する。

 

このことをどう考えればいいだろう。

 

僕はそもそもとして、そのホピ族の神話がどのように採取されたものなのかが問題だと思う。

 

まぁ、そのことについては以前書いたよね。(参考)

 

結局、人間の知識は全て既存の情報の組み合わせなのであって、神話を考えた人も、神話を伝達した人もその事情は変わらない。

 

今その単語を使って通じるのかとかは分からないけれども、昔のアメリカにはヒッピーと呼ばれる人々が居た。

 

彼らは、文明的なものを捨て去って、時計を投げ捨てて自然に帰ろうとした人々で、その文化の中にそういった神秘的なものへの傾倒が存在している。

 

その中には仏教の知識もあるし、中国の知識もある。

 

勿論、ネイティブアメリカンの神話についての知識もある。

 

彼らはどうやってその情報を得たのだろう。

 

ある人は本を読んだだろうし、ある人はそのことについての知識を持った人と会話をして、その会話によって知識を得ただろうと僕は考える。

 

会話というのは相互的で、本来的には個体間の情報融通のための手段でしかない。

 

一方的な発表の場合はそうではないけれど、会話の場合は相手に影響を与える一方で、相手からの影響を必然的に受けてしまう。

 

近代ドイツには精神分析学という学問が存在していた。

 

これは、ジーグムント・フロイトというおっさんが始めた学問で、元々フロイトは精神科の医者だった。

 

まぁ、当時の精神科なのだから、現在より遥かに劣悪な理解しか持っていないし、その方法も哲学の方法を用いたりしていて、かなり現在の価値観だと怪しい方法をそれでしかない。

 

彼はそのような精神科の医者として色々な人と面談をする中で、精神分析学という学問を始めることになった。

 

この精神分析学というのはかなり特殊な学問で、いくら精神分析学の本を読んでも、その内容を会得することは出来ない。

 

精神分析学というのは必ず、クランケ(患者)と資格を持った精神分析家とが一定期間、週に何回と定められた一定時間を医者と会話して、その会話のシチュエーションまでかなり厳密に定められたセッションをこなさなければ、その精神分析家の資格を得ることは出来ない。

 

その精神分析をするには大金が必要で、それを受けなければ精神分析が何たるかは分からないし、精神分析家になることも出来ない。

 

この話は大学で本物の精神分析家の授業を受けた時に聞いた話だから、本当だと思う。

 

その診察?なのだけれど、患者の方が自分が見た夢のことを話したり、自由連想と言われる思ったことを次々話すという方法を取ったり、精神分析家が判断して面談を途中でやめたりもする。

 

この界隈だとフロイトやユングが有名なのだけれど、フロイトは人間の行動のそのほぼ全てが性欲に基づいていると考えていた。

 

フロイトは、何十人何百人と面接を重ねて、それで出した結論が、全ての夢は性欲の暗喩だし、全ての発想は性欲が元にあるという妄想になる。

 

どうしてこんなことが起きたのだろう。

 

僕は、会話は相互的だということを理解している。

 

つまり、フロイトが初めに偏見を持って、全ての夢は性欲に基づいていると思っていて、その偏見を持って患者に接し続けたがために、患者の方もフロイトの考えに引きずられたのだろうということ。

 

人間は存外に権威主義で、偉い人の文章は正しいという誤解を多くの人が持っている。

 

哲学の文章を目の前にして、多くの人は自分が理解出来ないだけで崇高で正しい教えがそこにあると誤解している。

 

そのようなことは読んでみなければ判断しようがないようなことだというのにそう誤解していて、その誤解を晴らさないままに読み進めることが殆どで、僕とて昔はそのような偏見を持っていた。

 

実際、今の僕が哲学に下す判断は、根拠に依らない妄想が多すぎるというどうしようもないそれであって、昔抱いていた崇高さというものはただの偏見でしかないと理解するに至っている。

 

精神分析にしたところで、世界的に有名な医者であるフロイト大先生に、毎週毎週その発想は貴方の性欲に由来しているのではないか?と言われ続けたら、誰だってそんな気がしてくるというのが実際で、フロイトが語ったリピドーの概念、すなわち、全ての夢や行動は性欲に起因しているという議論はフロイトとの会話で考えが変容してしまった患者たちとの相互のやり取りに原因があると僕は考えている。

 

そもそも、一定期間、精神分析家と面談をし続けなければ精神分析は出来ないわけであって、そんなものを続ける人間はある程度精神分析学を疑わしいと思っていないような人間しかあり得なくて、途中で胡散臭いと思ったらやめてしまう。

 

残るのは精神分析学の嘘を信じやすい人々であって、そのような人々の記録を取り続けても、そりゃ、精神分析家の考えに親和性のあるような記録しか残らないだろうと僕は思う。

 

加えて、そもそも精神分析学の専門用語で"転移"というものがあって、それは何かというと、患者と分析家同士の感情の変異のことであって、医者の方が患者のことを好きになったり、患者が医者のことを好きになったり、反対に酷く嫌うようになったりもするということを"転移"という。(参考)

 

だからもう、お互いに感情移入出来るほどに会話のやり取りがあるのであって、そうとするならばお互いの情報は診察が続けられる間は交換され続けてしまう。

 

患者の方に精神分析学の知識はなくてその部分の知識は空白で、一方で精神分析家の方はその知識を持っていて、会話でその情報を補う以上、患者の知識は精神分析家が持っていたもの以上にはならないわけであって、フロイトが全ての行動を性欲と決めつけたのは、フロイトが持っていた情報が患者の方に移ったからとしか僕には考えられない。

 

フロイトが患者に与えた情報をフロイトが患者から得るという循環を行って、その果てに人間の行動の全ては性欲に由来するという妄想が出てきたとしか僕には判断できない。

 

フロイトはオイディプス・コンプレックスという言葉を作って、全ての男は父親を殺して母親を性的な意味で奪いたいと潜在的に思っているとしたのだけれども、それにしたところで、毎週毎週フロイト大先生にそんなことを聞かれたら、そんな気がしてきてしまうのが人間であって、例えば僕は、父親のことを何度も殺したいと思ったけれども、それは母親を奪いたいという理由では全くなかった。

 

精神分析学はオカルトめいたエビデンスしかなくて、客観的にそれは間違いだろうとは思うけれども、システム的に精神分析のセクションを受けなければ精神分析のことは分からないという構造を持っている。

 

まぁ、仏教の禅の修行もやってみなければ分からないし、ヒンドゥー教の苦行もやってみて初めて分かるのかもしれないし、オウム真理教の修行もやってみたら真理が見えたりするのかもしれない。

 

僕は、例えばオウム真理教の修行で真理が見えたりしないということをやる前から理解するように、精神分析もやる前からただの欺瞞だと判断している。

 

結局、精神分析学が始まったころには、観察者効果という、観察者の影響が対象に現れてしまうという事実が知られていなくて、観察者効果の存在が理解されている今現在は、人間の本質を理解するための学としての精神分析学はまるで無価値なそれだと思う。

 

患者たちは精神分析家との会話で考えを変えるし、精神分析家は患者たちの言葉で考えが変わってしまう。

 

とにかく、会話は本来的に情報の融通の方法でしかない。

 

話を戻すと、どうしてホピ族の人々は核戦争のことなんて知り得たのだろう。

 

話としては簡単で、ホピ族の話を聞きに来た人の中に、核の脅威を知っている人がいて、その情報がホピ族の神話を変容させたのだろうというのが実際になる。

 

ヒッピーの若者たちはホピ族の人々の言動に感化されて考えや知識を改めている一方で、ホピ族の人々もそのような若者たちとの触れ合いによって考えや知識を変えている。

 

さもなければラジオでその話が流れていたり、新聞や本でその情報を得たのかもしれないし、テレビで見て、映画で見て、ホピ族のその人はその情報を知るに至っただけという可能性も十分にある。

 

人間の全ての知識は、既存の情報の組み合わせだ。

 

結局、ホピ族のその神話がどの時点で採取されたものかが問題で、論理的に別に最近採取されたものならば、その様に見聞きした情報が採用されただけという理解が最も妥当だと僕は考える。

 

エホバの証人の人々と会話したことが僕にはあるのだけれど、彼らは聖書に書いてある予言をやたらに重要視している場合がある。

 

その予言にしたところで、いつ書かれたなんか分からないのであって、ただ単にその出来事が起きてから書かれたことに過ぎない可能性の方が、予言して当ててのけたと考えるより遥かに現実的だと僕は思う。

 

そもそも、エホバの証人の元になった宗教団体はアメリカに存在していて、かつて何年の何月何日に世界は滅びると予言して、その日を臨んだけれども果たして世界は滅びなかったというクッソ悲しい歴史的経緯を持った集団になる。

 

日本のエホバの証人の人々はその話を知らないのだろうけれど、彼らの宗教団体が持つ予言は"その程度"の話であって、他の当たったという設定の予言も結局、事が起きてから書かれた文章でしかないだろうと思う。

 

あと、具体的な数字は忘れたけれども、来たる最後の審判の日に数千人しか救われなくて、それはエホバの証人の人々だというのが彼らの教えであって、彼らは無条件にエホバという神の名前を知っている自分たちが救われると思っている。

 

そしてその教えを知らない人々は全て救われないと思っていて、それではいかんと救われない人を救おうとして玄関とかに来るのだけれど、そもそも救われる定員は決まっているので、布教すればするほどに自分の座る椅子が減っていくという自滅的な宗教団体になる。

 

彼らはその矛盾に気付かないのか、と思うけれども、彼らの宗派の教えは大した吟味はされていないので、実際、誰もその矛盾に気付いていないのだと思う。

 

彼らは進化論を否定するから、彼らに「進化論の本を読んだことがあるのか」と聞いてみたけれども、その場にいた三人が三人ともに、進化論の本は読んだことがないと言っていた。

 

つまり、進化論を否定するけれども、進化論の本は読まないような人々が彼らになる。

 

僕はエホバのテキストと進化論の本を読んだけれども、進化論の方が事実正しいと思う。

 

実験で進化は起きなかったとかエホバのテキストに書いてあるのだけれど、実際にシャーレの上で進化が発生した事例について、確かドーキンスの『進化の存在証明』で紹介されていたと思う。

 

エホバの証人の人達にせよ、親が信者ではない限り、最初は何処にでもいる日本人だったわけであって、けれども、エホバの証人の信者たちとの会話で、自分の考えが変わってしまったが故に、エホバの証人の伝道者と変わってしまっている。

 

人間の意思などは、結局、与えられた情報で簡単に変貌してしまう。

 

西洋哲学では人間は意思を持っていて、その意思が大きな意味を持ってるということになっているけれども、実際の人間の意思なんてものは、周りにいる人や出会った人、出会った情報で簡単に変わってしまう。

 

主義主張にしたところで、自分が見聞きした情報をそのまま垂れ流している場合が殆どで、哲学が主張するところの自由意志にどのような重要性があるのか、僕には少しも分からない。

 

言葉は悪戯で、言葉は徒なのだと思う。

 

という日記。

 

最初は「ホピ族の嘘」という表題で書き始めたけれども、殆どホピ族の話をしてなかったので、今のに挿げ替えた。

 

まぁ色々仕方ないね。

 

では。