手のひらは何も知らなくて | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

二週間くらい更新してなかった気がしないでもないけれど、裏で結構色々やっていた。

 

『ヒストリエ』の記事にプルタルコスの『英雄伝』の文章を引用したり、映画の『影武者』を見たからそれに関連して『レイリ』について書き足したり、『キングダム』の記事に莫邪の剣について書き足したり、『バオー来訪者』の技名の記事にミセス・ロビンソンについて書き足したり。(参考)

 

結局、漫画の記事しか読まれはしないという悟りめいた現実を受け入れて、漫画の記事に色々書き足していたし、『ぼくらの』のマキ編の解説の前編も前回の更新と今回との間で既に書いていたもする。(参考)

 

頑として10月まで公開しないけれど。

 

そんな話はさておいて、今回はまた不可知論について。

 

というか、風水や血液型占い、星座占いや手相占いについて。

 

僕は哲学や宗教のテキストを人よりは多く読んできたけれども、その中で思うところがやはり多い。

 

特に哲学について言えば、不可知論への嘘とその不誠実さにとても耐えきれなかった。

 

僕は不誠実なことが嫌いで、その不誠実さを孕んでいる哲学という学問が、何か劣ったものであるように思えて仕方がなかった。

 

僕は知らないことについては知らないと言うし、分からないことには分からないと言う。

 

知り得ないことには知り得ないと言うし、知り得ることしか知り得ないということを理解している。

 

けれども、哲学や宗教はそのことを理解していない。

 

知り得ないことは知り得ない。

 

なのにも関わらず、哲学や宗教のテキストは、その知り得ないことへの言及の割合が多すぎる。

 

哲学で言うのなら、観念論的な議論や形而上学、それらの無責任さと無根拠さを見て、僕は彼らと時間を共有するのは時間が勿体ないと強く思った。

 

人生は有限で、その有限の時間を彼らの空想事に費やすほど僕は時間に恵まれていない。

 

宗教は知り得ないことについての知識について嘘をつくことを恥と思っていない。

 

例え、死後の世界が存在するとしても、そのことは人間には知り得ないことになる。

 

どうしてそれなのに宗教のテキストは知っているのか。

 

僕は仏教についてのテキストで語られる死後の世界や死後の禍福について、それを事実妥当と言えるような理由で説明しているシーンには出会ったことがなくて、ただ無根拠に存在していると言い切ってみたり、良く分からない、根拠が見いだせない議論を成している場面しか出会ったことがない。

 

それは哲学でも同じであって、哲学で語る本質などというものは、何故それが存在していると言及できるのか、僕にはさっぱり分からないし、そのような議論をし出したプラトンのそれについては、彼の意見がどうして成り立たないか、今の僕はしっかり答えることが出来る。

 

その様な知り得ないことの知識への不誠実さを僕は許容できないし、とにかく、分かり得ないことについての言及は僕は空言だと理解する。

 

そこで考えるのが占いという営みについて。

 

例えば手相占い。

 

十年以上前の僕は、自分の手を見て生命線の長さや太さ、運命線のその途切れ等を見て、一喜一憂していた。

 

生命線が長いから寿命が期待できるとか、運命線がしっかり刻まれているから、何か数奇な運命を送れるかもしれないとか、そういったことを幼気に抱いて、手を眺めてはそのことについて一喜一憂していたことを記憶している。

 

けれども、今の僕は一喜一憂をしない。

 

僕は考える。

 

どうして、生命線やら運命線やらを言い出した"誰か"は、この手の皴にそのような意味があるということを知り得たのだろうか。

 

手のひらは何も知らない。

 

手のひらにある皴はただ単に、人間の手の関節が稼働するに際して、頻繁に稼働する部位の皮膚が損傷するというリスクから逃れるために、予め皮膚に溝を作っていてそれが皴となって手相となっているという以上の意味は持っていない。

 

どうしてその皴に、人間の生命力や運命について記されていると言及できるのだろう。

 

手のひらはそのことを知っているのだろうか。

 

例えば、チンパンジーの手のひらを見れば人間と同じようにそのことを把握できるのだろうか。

 

じゃあ、実験用のマウスも可能なのだろうか。

 

僕は知っていて、それらの動物の手に刻まれる皴は何か重要な意味を持っているということはない。

 

じゃあ、どうして人間の手のひらに刻まれた皴はそうだと言及できるのだろう。

 

昔の僕は、無邪気に、無垢に、その手相占いで示される文言をさも事実であるかのように受け取っていた。

 

けれども、今僕が手のひらを見て、昔得た知識を失った今手のひらを見て、僕は何も情報を得ることは出来ない。

 

僕の目に映るのはただの表皮に刻まれた皴であって、運命線や生命線という名前は知っているけれども、だからと言ってどのような意味を持っているのかは全く分からない。

 

じゃあ、僕以外の人はどうして分かるのだろう。

 

ある人は、そのことを本で読んだのだと思うし、ある人は高名な先生にそのことを教えてもらったのだろうと思う。

 

僕は考える。

 

その高名な先生や、その占いの本を書いた人は、どうしてそんなことを知り得たのだろうかと。

 

高名な先生にはまた先生が居て、その先生にもまた先生がいると思う。

 

本を書いた人も先人の崇高なる知識を継承して、その知識を本にしたためたのだと思う。

 

僕は考える。

 

その様に遡って、手相占い"のようなこと"を始めた一人目の人間は、どうしてただの手のひらに刻まれた皴から、運命や財運について知ることが出来たのだろうかと。

 

僕は、そのことは人間の能力を超えたことだと理解する。

 

どんな本に書いてあろうとも、その本の情報は人間の感覚器官から得られる情報を越えているのであって、知り得ないことへの知識になる。

 

僕は知り得ないことについての知識は妄言だと理解していて、どのような学であったとしても、そのような知り得ないことへの知識は疑ってかかるし、考えてみてそのことが事実妥当な判断であると理解できなかった場合は、そのことを妄想であると切り捨てるということを厭わない。

 

星座占いについて考える。

 

どうして、生まれついた月によって、人間の何かが分かるのだろう。

 

今生きている環境は個体によって違うし、個体によって受け継いだDNAも変わってくれば、受け継いだ遺伝的装飾も変わってくる。

 

それなのにどうして、生まれついた月によって何かが分かるのだろう。

 

僕は分からないと理解する。

 

…もっとも、星座占いについては生物学者のリチャード・ドーキンスが『虹の解体』でそのナンセンスさについては語っていたから、その議論を読んだ方が良いのだろうとは思うのだけれど。

 

次に、血液型占いについて考える。

 

どうして、最初に言い出した人はそんなことが分かったのだろう。

 

血液型によって性格が変わってくるだなんて、どうして知り得たのだろう。

 

これについては現代の心理学者がしっかり検証して、血液型占いという発想に十分なエビデンスはないと分かっている。(『オオカミ少女はいなかった』)

 

血液型占いというのは日本人の心理学者が言い始めたのだけれど、その心理学者がやった方法は、身近な二十人くらいの適当な人間の性格を血液型ごとに割り当てたとかそのようないい加減なものであって、科学的なエビデンスとして成り立つようなものではない。

 

そもそも、これはジャレド・ダイアモンドが『昨日までの世界』で指摘していたのだけれど、心理学というのは根本的にデータのサンプリングに問題のある学問になる。

 

ダイアモンドの指摘だとアメリカの大学の研究のそれだけだけれども、アメリカの心理学の研究のサンプルは、授業を受けている学生が選ばれる場合が殆どで、多くの心理学のエビデンスは、大学に行けるほど裕福な白人にそのような傾向性があるという以上の意味を持っていない場合が多い。

 

日本にしたってそのサンプリングが十分に人種を分け隔てなく扱えているかと言えば恐らくは扱えていないわけであって、僕は心理学の研究には懐疑的ではある。

 

心理学という学問は統計学で、ある場面について統計を取って、どのパターンではどのような行動が多いかということを調べていく学問なのだけれども、それは本来的な話であって、例えばネットで見られるような心理テストの類にそのような統計が存在している場合の方が少なくて、なんとなくそれっぽい言葉が説明として付与されているだけになる。

 

まぁ、心理テストの場合は多く、ただのバーナム効果だと思う。(参考)

 

統計的なデータを併記していない心理テストの類は、ほぼ全てが適当に言葉をこねて作った嘘であると僕は理解している。

 

僕は心理学について、そもそもしっかり統計を取っているのか怪しいそれも多いし、統計を取っていても人種を隔てなく行っているかと言えば行っていないだろうし、少なくとも英米系の研究については日本人には当てはまらないものも多いだろうと考えている。

 

日本で行われている心理テストは、しっかり統計を取っているならばある程度は日本人の傾向性として扱えるだろうけれども、人間の性質としてその研究結果を使うことは出来ないだろうという推論がある。

 

古代中国、古代インドのテキストを人よりは多く読んだけれど、地域によってものの考え方は大きな差異がある。

 

心理学でさえ僕はこのように考えているのだから、他のものはどうだろう。

 

風水について、僕はそれがどんな根拠に基づいているのか全く分からない。

 

そもそも、僕は紀元前後からそれより前の中国のテキストを中心的に読んでいるのだけれども、その時代には風水というものはない。

 

その原型と言えるような方角に関する信仰めいたものはあるのだけれども、風水の歴史は"その程度"の浅さになる。

 

その時代より後の中国人が、十分ではない根拠に基づいて示した"何か"が風水であるというのが僕の理解になる。

 

元々、中国には"易"と呼ばれる占いがあって、これはかなり重要視されていて、孔子も晩年、易を重要視したと中国の歴史書『史記』にも言及がある。

 

風水はその"易"についての学問の延長にあるのだろうとは思うのだけれど、実際軽く『易経』という易についての本を読んだけれども、断言する形で"○○だ"とされていて、根拠についての言及はなかった記憶がある。

 

…まぁ、『易経』を理解するというのは僕の能力を超えたそれなので、僕には『易経』は理解出来ないのだけれども。

 

このような風水などは、古い本にそう書いてあるからという理由で、そのことを継承してそのことが事実正しいかはさておいて、これこれという本に何々と書いてあって、それを発展させるという方法を取る。

 

僕はその方法について辟易している。

 

僕はその方法に哲学のテキストで良く出会っていた。

 

Aという哲学者が○○と言っており、だとか、Bという哲学者は○○としていた、とか、そういった文言が根拠として提出されている瞬間に哲学では良く出会っていた。

 

結局、先人の本に書いてあるということはそれだけで多くの場合正しいとされていて、そのことが事実正しいかは吟味されることは少ない。

 

特に哲学の場合だと、何か飛びぬけて素晴らしいことが書かれているという偏見がある。

 

『知の欺瞞』という本があって、この本は現代哲学に登場する数学的概念を実際の物理学者が検証して、それが如何に適当なことを言っているかを示した本なのだけれど、その中で面白い話があった。

 

ある物理学の優秀な学生が、ドゥルーズという哲学者の示している数式が理解出来なかった。

 

理解出来ないのは当然で、ドゥルーズは成り立たない式を適当に並べただけだった。

 

しかし彼は、「あの著名な哲学者であるドゥルーズがそんなことをするわけがない」と考えて、その式がナンセンスの塊だと理解することは出来なかった。

 

結局、哲学には偏見がある。

 

何か素晴らしいことが、自分が理解出来ないけれど偉大なる哲学が、この意味不明な文章には遠大な哲学が。

 

多くの人はそのようなことを偏見として哲学に持っている。

 

けれども、それは偏見に過ぎない。

 

哲学のテキストで見られる言説は、時代遅れの科学の理論や想像力によって作られた根拠のない言説、さもなければキリスト教的な信仰を元にしたナンセンスが多く含まれている。

 

僕はそれらを除いて哲学を鑑みて、ほぼ取るところはないと理解するに至っている。

 

その哲学に対して行った作業と同じような手段で、手相占いについて考える。

 

手相を占う誰かが僕の手のひらから、例えば運命と言ったものを読み取るのは人間の能力を超えた事柄になる。

 

そして、手相の本を書いている誰かにとってしても、ただの皴から例えば人間の残りの寿命を割り出すというのは不可能なことになる。

 

だから、手相占いというものはただの嘘だと僕は理解する。

 

けれども、街角に居るような占い師の言説には取るものはある場合があることもあるとは考えている。

 

結局、占いに来るような人は悩みを持っている人が多くて、悩みを持っているのだから悩みを当ててみたり、人間は表情で相手の心情をある程度把握したりも出来る。

 

占いは存外に高額で、その高額な対価に見合うほどの相談内容があって初めて占いという場に人は訪れる。

 

そうであるならば、占い師はどうすれば良いだろう。

 

落ち込んでいるような顔をしたり、深刻そうな顔をして向かって座っているのなら、その相手の心に刺さった棘を探り当てて抜いてやることも出来るし、病気を持った人の顔や人の臭いというものがあるのであって、それを嗅ぎ分けることが得意な人は、病気を見事言い当てたりすることも可能になる。

 

話術の得意な人はそんな嗅覚を持っていなくても相手の悩みを簡単に引き出せるかもしれないし、表情や振る舞いや服装、そういったものから情報を引き出すことだって出来る人には出来ることになる。

 

高いスーツを着ていたら金に困っていないことは分かるし、反対に安いスーツなら金の悩みである概算が高くなる。

 

だから、占いに相談するということが必ずしもナンセンスであるとは僕は考えないのだけれど、不誠実なものを僕は嫌っているから、手相占いは嘘である以上、その不誠実さを許容できない。

 

分からないことは分からないのであって、手の皴からは何も分からない。

 

僕はそのような知り得ないこと、すなわち不可知論や観念論に関する嘘や不誠実が好きではなくて、僕はそれを行わないし、それを行う人を取り合わない。

 

けれども、そのようなことを好む人はそれを続ければいいと思う。

 

何故ならば、人間は、生物は、不合理なことを行っても最終的に子孫を残せるかどうかが問題なのであって、不合理であっても問題がないのだから。

 

という日記。

 

途中の哲学の話はしない方が良かったのかもしれない。

 

あんまり小難しい単語は使わなかったのだけれど、哲学という言葉を使うと途端に理解が遠くなる。

 

僕はそういう事こそ偏見だと思うのだけれど、まぁ実際読んでみなきゃ哲学の何が馬鹿げているのかは分からないし、殆どの場合は読んでもあのナンセンスさは理解出来ない。

 

本気で哲学の勉強するくらいなら漫画を読んでいた方が有意義なんだよなぁ…。

 

まぁいいや。

 

では。