『ヒストリエ』の王の左腕に関する細かい描写の解説 | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

前回、岩明先生が『ヒストリエ』を描くに際して読んだであろう参考文献について色々書いた。(参考)

 

個人的にあの内容はあの内容で良いと思うけれども、僕がそうと思うことと読む人がどう思うかは別の問題だから、色々仕方がないと思う。

 

今回は『ヒストリエ』の細かい描写の解説を書くことにする。

 

前回の記事は珍しく書く内容を予めメモ帳に羅列しておいたのだけれど、その半分も消化できなかったというか、参考文献については参考文献についてだけで一纏めにしようと思って、それ以外の内容についてはあえて言及しなかった。

 

今回は前回の記事用で、けれども使わなかった『ヒストリエ』の細かい話です。

 

書く予定であったことの残りの量も少ないので、この記事はあっさりテイストで終わると思う。(追記:普通の文字量になりました)

 

まず、このシーンについて。

 

(岩明均『ヒストリエ』)6巻pp.166-167)

 

このハルパロスが滝から落ちる直前のシーンなのだけれど、最近まで僕はこのシーンの意味が分かっていなかった。

 

僕が分かっていなかったので、僕と同じように分かっていない人も居るかもしれないと思って、このシーンについて書くことにする。

 

このシーン…早い話が、アレクサンドロスが少し先の未来を見ているシーンなんだよな。

 

僕は最近までわかってなかったけれど、この瞬間のアレクサンドロスは、危険を察知したとか、馬の異変に気付いたとかそういうことではなくて、少し先の未来が見えていたという理解が正しいみたい。

 

この6巻の時点では言及はないのだけれど、10巻でアレクサンドロスの特殊能力についての言及がある。

 

(10巻pp.22-26)

 

このようにアレクサンドロスはほんの少し先の未来が見えるわけであって、ハルパロスの件については、異変を察知した…というよりも、ハルパロスが失敗するほんの少し先の未来が見えたという言及がより妥当だと思う。

 

アレクサンドロスはほんの少し先の未来を見ることが出来るという設定があの時点で既にあるから、その設定に沿って描写されている。

 

理解していた人も居るだろうけれど、僕が最近まで分かってなかったので一応です。

 

岩明先生は異常なまでに物語を予め構築しているようで、先のハルパロスが落下するシーンを描いた時点で、アレクサンドロスが予知能力を持っているという事まで想定して書いているわけであって、6巻の伏線が10巻で回収されたことになる。

 

6巻は2010年発売で、10巻は2017年発売。

 

伏線回収まで8年かかっている。

 

実際に岩明先生が雑誌に書いた時期はめんどくさいから調べないけれど、どの道、伏線回収が遠すぎる。

 

けれども、丁寧に作られているので、今回はその丁寧さについての話が多くなってくる。

 

『ヒストリエ』の10巻で、エウメネスは"王の左腕"の候補になる。

 

その王の左腕については早くから伏線が貼られている。

 

王の左腕ってのは、副司令官のことね。

 

(10巻p.198)

 

これについても、5巻のエピソードである"深酒の王"の時点で想定して描写がなされている。

 

(5巻p.157)

 

エウメネスのことを「左腕」と言っている。

 

このシーンはカルディアの一連の出来事が終わった後に挿入されるエピソードで、単行本だと5巻に収録されているそれだけれども、時系列的に丁度10巻の少し後の話になる。

 

…『ヒストリエ』の5巻のアマゾンのレビューを見ていたら、これがそういう時系列だって理解できてない人が頓珍漢なレビューを残していて、色々漫画ってのを分かってもらうのも楽じゃないよなと思った。

 

『ヒストリエ』はカルディアでエウメネスとフィリッポスが出会った後に、一旦未来の話を少しだけ描いて、その後また、時系列が元に戻ってカルディアの直後の話になっている。

 

その少しだけ未来の話の中で、エウメネスを「左腕」としているシーンがある。

 

まぁこの段階で10巻の内容は想定されていたということになる。

 

5巻の発売は2009年で10巻は2017年だから、9年越しの伏線回収になる。

 

こっちの事情も考えてよ。(切実)

 

この"深酒の王"のエピソードで、10巻のアレクサンドロスのカイロネイアの戦いでの活躍についての言及もあって、"予定表"はかなり綿密に決められている様子ではある。

 

(5巻p.124)

 

アレクサンドロスがカイロネイアで方向転換をしたことについての言及がある。

 

僕は『ヒストリエ』が好きだから、何度も読み返していて内容を理解できているけれど、ライト層は色々な物語の構造が理解できてないんじゃないかと僕は思ってしまう。

 

それとこのシーンではフィリッポスは杖をついていて、トリバロイとの戦いの時に右足を負傷するということまで織り込み済みで描かれている。

 

話が少しズレてしまうけれど、このシーンでレオンナトスがフィリッポスに例え話をしている。

 

同じ軍を率いさせて戦わせて云々。

 

それに対して、エウメネスが三度目に勝つとフィリッポスは言う。

 

(5巻pp.124-126)

 

最近、このエピソードの元ネタが分かった。

 

これはどうやら、戦国武将の蒲生氏郷のエピソードが元らしい。

 

僕はWikipediaで蒲生氏郷の記事を読んでいて初めて知った。

 

実際に読んでみたほうが早い。

 

…Wikipediaの文章は書き替えられるかもしれないから、スマホで撮ったスクリーンショットを持ってくる。

 

(Wikipedia、蒲生氏郷より)

 

岩明先生は戦国時代が大好きらしくて、戦国時代が舞台の『剣の舞』という漫画と、戦国時代と江戸時代の過渡期が舞台の『雪の峠』という漫画を描いているし、戦国大名武田勝頼の息子の影武者が主人公の『レイリ』という漫画の原作を担当している。

 

考えるに、どういう書籍から得た情報なのかは分からないけれども、この蒲生氏郷のエピソードをなんらか戦国時代関係の本を読んでいて知っていたのだと思う。

 

一方で、エウメネスの物語のことを岩明先生はデビュー前から温めていたと確かどっかのインタビューで言っていた気がするから、この蒲生氏郷のエピソードについて、エウメネスだったらどう振舞うだろうということを考えたのだと思う。

 

結果として、エウメネスはいくら敗走しても討ち取られないだろうし、三度も戦えば最後はエウメネスが勝つだろうと岩明先生は考えたのだと思う。

 

実際、エウメネスの事績について書かれた『英雄伝』のエウメネスは敗走ばかりしているのだけれど、本当にしぶとく生き残っていた。

 

一方でアレクサンドロスは蒲生氏郷のように果敢であって、けれどもそれがために直ぐに死んでしまうだろうということ。

 

唐突に蒲生氏郷の話が入ってきたけれども、まぁ『レイリ』を含めて三作も戦国時代の漫画を描いているのだから、岩明先生は戦国時代のことが好きなのだと思う。

 

『七夕の国』にも戦国時代の話が出てくるから、かなり好きな様子ではある。

 

ただ、『レイリ』の描写を見る限り、岩明先生の戦国時代観はだいぶ古い。

 

結局、岩明先生が高齢だから、そういう古い戦国時代観のままなのだと思う。

 

今日日、武田勝頼が無能だったとか、徳川家康が長男を殺した理由が信長の命令だったとか、そんな描写されても「うーん」としか思えない。

 

昔はそれが定説だったのだけれど、今はそれは古い理解とされていると思う。

 

おそらく、そのように描写されている大河ドラマとかがあって、岩明先生はそれを見ていたのだと思うし、他にもそのような言及であるテレビ番組や本があって、それを材料に『レイリ』は描かれていて、『レイリ』の戦国時代観は若干古い。

 

そこのところを除けば『レイリ』はブラックジャックのあれと違って面白いのだけれど。

 

岩明先生の戦国時代観はまぁ、そういう所謂"歴史本"に依っていて、先の『ヒストリエ』のエピソードの元になった蒲生氏郷についても、そのような戦国時代についての書籍などで得たものだと思う。

 

それとも出典たる『名将言行録』を読んだのだろうか。

 

分からない。

 

個人的に『名将言行録』の成立が1800年代だから、そんな後世の創作物について関心が抱けなくて、検証しようとも思えないけれども。

 

話を王の左腕に戻す。

 

エウメネスは王の左腕の候補として選ばれたのだけれど、その素質について本編中に数々それをエウメネスが持っているということが描写されている。

 

先にクラテロスが王の左腕になれなかった理由として、フィリッポスと阿吽の呼吸が出来なかったからと言及されている。

 

(10巻p.199-200)

 

クラテロスは阿吽の呼吸が出来なかったが故に王の左腕になれなかったけれども、そのことは逆に阿吽の呼吸が出来ればその人物は王の左腕になれるということを意味している。

 

エウメネスはフィリッポスと非常に近い戦術眼を持っている。

 

そのことは結構描写されている。

 

まず、コンスタンティノープルでの戦いで次のような描写がある。

 

(8巻pp.76-77,79)

 

このシーンはフォーキオン率いるアテネ海軍にマケドニア海軍が敗北した直後のシーンだけれども、エウメネスもフィリッポスも同じように対岸に布陣しているメムノンの部隊を認識している。

 

エウメネスの方が若干早く、フィリッポスもそれを追うように対岸の部隊に気が付いていて、呼応するがごとくその"気付き"が描写されている。

 

また、トリバロイ戦でもこんなシーンがある。

 

(8巻p.147-148)

 

エウメネスは左からの投石を陽動だとすぐに理解して、右から敵が来ると考え警戒している。

 

一方でフィリッポスも同じようにトリバロイが陽動として投石を行ったと理解して右に注意を向けたのだけれども、眼帯である右目が死角になって、トリバロイの兵士の槍をまともに受けてしまう。

 

片目を失明したことによってフィリッポスは対応が出来なかったけれども、エウメネスとフィリッポスは同じような戦術眼を持っているということが分かる。

 

これらのシーンは岩明先生が王の左腕として選ばれるエウメネスを想定しているが故のシーンであって、その王の左腕にはフィリッポスとの阿吽の呼吸が必要であるということも考えられているのだと思う。

 

エウメネスの方が二回とも気付きが早いから、エウメネスの方がフィリッポスよりも若干優れているという想定とも取れる。

 

もしくは同じ発想をすることを描いただけで、偶然エウメネスの方が先に気付いた描写を二回してしまったかどちらかになる。

 

王の左腕についてはこれくらいかな。

 

他にこのシーンについて気付きがあった。

 

(10巻pp.148-151)

 

これ、気付いてなかったのだけれど、伏線であるらしい。

 

エウメネスはペルシア戦争後の封土で、カッパドキアとパフラゴニアを得るのだけれど、それを平定した後に軍隊を編成している。

 

それに際して鐙を使った騎兵を編成するのだろうとは前に言及したけれども、この利き手に合わせた軍隊も編成するのだと思う。

 

フィリッポスがこのような軍隊を作れなかったのは、既に精鋭の兵士たちが居て、それらが存在している都合上だけれども、エウメネスは0から軍隊を作るのだから、この編成が可能になる。

 

未来のことは分からないから予言は出来ないのだけれども、岩明先生はエウメネスにこの利き手に合わせた軍隊を編成させるつもりなのかもしれない。

 

『ヒストリエ』のそのシーンは新兵訓練のくだりなのだから、エウメネスが新兵を訓練する時にそうする可能性はあると思う。

 

これくらいかな。

 

あとそうそう、これは『ヒストリエ』の解説や考察に一切関係はないのだけれど、マントについて気付きがあった。

 

(10巻p.81)

 

マントというものはおそらく、後方からの矢を防ぐための防具として存在している。

 

日本の戦国時代には母衣という武具が存在している。

 

(http://www4.airnet.ne.jp/sakura/blocks_menu/conjyaku_08/horo/horo_fr2.htmlより)

 

このクッソ格好悪い袋なのだけれど、どうも後方からの矢を防ぐ効果があったらしくて、Youtubeに実際にこの母衣に矢を射かける動画がある。(参考)

 

だからマントにしても、あのようにひらひらしているのは、騎乗で後方からの矢を防ぐのに役立っていたのだと思う。

 

マントを羽織っているのは伊達や酔狂が理由じゃなかったんですね。

 

何でここに書いたの?って思うかもしれないけれど、『ヒストリエ』でアレクサンドロスがマントを脱ぐシーンでそのことに気が付いたからね、しょうがないね。

 

最後に、『ヘウレーカ』と『ヒストリエ』の関係性についてちょっとある。

 

岩明先生は『ヒストリエ』を描く前に『ヘウレーカ』というローマ時代のシチリア島が舞台の漫画を描いている。

 

これについてなのだけれど、おそらく、『ヘウレーカ』は『ヒストリエ』のための習作なのだと思う。

 

地中海世界の漫画を描くに際して、その練習として少し時代はズレるけれども地中海世界の戦争の漫画を描いて備えようとしたのだと思う。

 

何故そうと考えているかと言うと、『ヘウレーカ』は最後、主人公であるダミッポスが敵の将軍であるマルケルスの前で啖呵を切る。

 

その演説めいたダミッポスのセリフをふと思い出して、あるシーンを僕は想起した。

 

それは何かというと、『英雄伝』で最後、エウメネスが軍の前で演説するシーンになる。

 

詳しいことはあれだから書かないけれども、エウメネスは最後の少し前に、自分が指揮した軍隊の前で演説を行う。

 

僕はあの『英雄伝』のエウメネスの叫びを読んで、岩明先生はこのシーンを描きたいがために、エウメネスを主人公に選んだのだろうと強く思った。

 

それ程に胸に迫る叫びであって、今この瞬間、思い出すだけで胸から湧き上がる何かを僕は感じている。

 

あの演説を『ヒストリエ』で描きたいのではないか、僕はそうと思うし、そう思ってしまうほどにあの演説は激しさを持ったものだった。

 

そして、『ヘウレーカ』。

 

『ヘウレーカ』の最後の少し前で、主人公のダミッポスは演説めいた啖呵を切る。

 

これについて僕は、エウメネスのための習作なのではないかと思う。

 

あの魂の演説の練習として、ダミッポスにエウメネスがするであろうあの叫びと似た言葉を吐かせたのではないかと思う。

 

以前、「岩明先生はディアドコイ戦争まで流石に描く気ではないのではないか?」とコメントを貰ったことがある。

 

けれども実際、岩明先生はディアドコイ戦争まで書く気でいるらしい。

 

インタビューでアレクサンドロスの死後も描くつもりだと言っている。(参考)

 

とするならば、あのエウメネスの演説までも描くつもりでいるだろうと僕は考えていて、そうとするならば、ダミッポスの演説はエウメネスの演説のためにあるのではないかと思う。

 

まぁ実際のところはそこのシーンに至るまで分からないし、物理的にあのシーンに至ることはないだろうとは思うけれど。

 

実際問題として岩明先生はディアドコイ戦争も描くつもりらしくて、今これを書いている現在の連載最新話で、ネオプトレモスが剣戟でマケドニアの熟練兵を撃退するシーンが描かれている。

 

『英雄伝』でネオプトレモスはエウメネスと一騎打ちをするのだけれど、その一騎打ちを想定してネオプトレモスの腕っぷしの強さを描いているわけですね。

 

僕はあの号のアフタヌーンを読んで、「この連載ペースで本気でディアドコイ戦争まで描くつもりなのか…」とドンびいていました。

 

現状のペースだと、アレクサンドロスが死ぬまでに、僕か岩明先生かどっちかが死ぬと思う。

 

まぁディアドコイ戦争やエウメネスの演説までは無理でしょうね…。

 

そんな細かい描写についてとかの解説。

 

本当は、この内容が前回の記事の続きに書かれるはずだったのだから、あの時切り上げて良かったなと思った。

 

そんな感じ。

 

では。

 

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すっごくどうでも良いけれど、ヘウレーカって言うのはギリシア語で「見つけたぞ!」って意味であって、『ヘウレーカ』に出てくる数学者にして哲学者であるアルキメデスが最後に書いた数式について「分かったぞ!見つけたぞ!」言っているけれど、あれがギリシア語だと「ヘウレーカ!」って言葉です。

 

 

 

 

 

 

武田信勝に暗殺者を差し向けたのが誰か分かってから読み直す『レイリ』の3巻は面白いからおススメします。

 

岩明先生の古めの戦国時代観を考えても、あまり補うほど面白いと思う。

 

…冷静に考えたら、信勝は声変わりしてないって描写があって、まだ元服してないだろうから、信勝って呼ばれてるのおかしいよな。

 

それとも元服しているという設定なのだろうか。

 

良く分からないし、そもそも当時は信勝とか名前で呼ぶことは実際シツレイだったらしいけれども。

 

・追記

『レイリ』の元ネタが黒澤明の映画、『影武者』と知る。

 

『影武者』は武田信玄の影武者の話。

 

武田信玄の孫の影武者の物語である『レイリ』とは普通に考えて関係性があると思う。

 

やっぱり、岩明先生の作品にはそのような映画や大河などと言ったものが材料としてあるらしい。

 

…まだ見てないけれど。

 

そのようなことはこの記事を作った時に書いておきたかったけれども、元ネタが『影武者』と知ったのがこの記事を作った三日後だったからね、しょうがないね。

 

・追記2

黒澤明の『影武者』を見た。

 

長いわりにそんなに面白くなかったねー。

 

で、『レイリ』の元ネタと言えるかなのだけれど、『影武者』と『レイリ』に元ネタと言及できるほどの十分な類似性はなかった。

 

結局、戦国時代が舞台の物語だから、ある出来事が『影武者』の中に存在しているとしても、その出来事は歴史上の出来事なのだから、他のテキストや映像でもその情報は存在していて、『影武者』と『レイリ』の両者にその描写があっても関係づけて考えることは出来ない。

 

ただ、『影武者』の本編中に高天神城を武田勝頼が落とすシーンがあって、『レイリ』にも勝頼がそのことを誇りに思っているシーンがある。

 

両作品ともに信長は恐ろしい性格をしていて、両作品の勝頼も、自分が跡継ぎではなくてあくまで陣代という立場であるということに不満を抱いている。

 

また、『影武者』で武田信玄のことを勝頼が亡霊と言ってその遺蹟について語ったりしている一方で、『レイリ』では信玄の亡霊を勝頼は白昼夢で見ている。

 

そして、『レイリ』の物語はちょうど、『影武者』が終わった直後の時系列から始まって、両方とも武田家の影武者がテーマの物語になる。

 

これでいくらなんでも『レイリ』を作る際に『影武者』という映画に一切触れていないと推論するには難しいし、どちらかと言うと見たと考えたほうが良いのかもしれない。

 

ただ、確実に見たと言えるほどの材料があるわけではなくて、類似点は登場人物の中で武田勝頼と織田信長の性格に親和性がある程度になる。

 

加えて、両者の情報源が『甲陽軍艦』なのだろうという推論がある。

 

武田勝頼が無能って設定は『甲陽軍艦』からだし、『レイリ』では武田勝頼が高天神城の戦果を誇っているという描写があって、『甲陽軍艦』には勝頼がその勝利で傲慢になったという記述があるらしい。(参考)

 

そんな感じです。

 

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