『ヒストリエ』作中の『イリアス』について | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

今回は、岩明先生が『ヒストリエ』を描くに際して使った参考文献についての考察になる。

 

どんな人間であろうとも無から有は作れない以上、既存の情報の組み合わせだけでこの地球上の全ての創作物は成立している。

 

『ヒストリエ』にしてもその事情は同じであって、岩明先生は確実に何らか古代地中海世界について言及のあるテキストを読んでいるだろうという推測はある。

 

それは解説書なのか、実際の当時の本の翻訳なのか、それは分からないのだけれど、確実に古代ギリシア世界に関する本を読んでなければ『ヒストリエ』という作品を描くことは出来ないのであって、今回はその参考文献を検証してみて、案外分かったので、その調査結果について書いていくことにします。

 

まずなのだけれど、おそらく概説的な古代地中海世界の教科書的なものを岩明先生は読んでいると思う。

 

ただ、そのような概説書の場合は数があり過ぎて、更に言えば岩明先生がその本を読んだ時代と今とでは情報へのアクセスの利便で大分違いがあって、今ググるのと、15年以上前に実際に岩明先生が本を探した方法とでは違うのであって、岩明先生が参考にした教科書的な本について見つけ出すどころか、手掛かりさえも僕は見出だすことが出来なかった。

 

そのような概説的な理解をどんな本で得たかは分からないのだけれど、岩明先生は古代ギリシアの漫画を描くに際して、実際に当時存在していた『イリアス』や『オデュッセイア』を読んでいると推測できる描写は『ヒストリエ』の中に存在している。

 

 

(岩明均『ヒストリエ』2巻pp.175-178)

 

この一連の物語はホメロスという古代ギリシアの詩人が作ったと言われている『イリアス』と『オデュッセイア』という作品から来ている。

 

トロイア陥落までが『イリアス』の物語の範疇で、その後のオデュッセウスの旅が『オデュッセイア』という作品の物語になる。

 

このような描写が『ヒストリエ』にある以上、岩明先生はそれらの作品に触れている可能性が高い。

 

もっとも、概説書にある内容だけでこの描写をしたという可能性はないではないのだけれど、僕がそのようなことをするとして、それにあたってもし、該当の作品の日本語訳が存在しているとしたならば、普通にわざわざ読むので、岩明先生も読んだのだと思う。

 

実際、岩明先生には関係ないけれど、横山光輝先生は『史記』という古代中国の歴史漫画を描くに際して、その『史記』という古代中国の歴史書の他に、『韓非子』という古代中国の思想書も読んでいると描写から判断できるので、まぁそういうことを人間はする。

 

漫画の『史記』には、原作の『史記』にはなくて『韓非子』に記述がある描写が散見出来る。

 

岩明先生にしても、やはり実際に読んだのだろうと思えるような描写がある。

 

本編中に『イリアス』の一節を諳んじるシーンがある。

 

 

(4巻pp..107-109)

 

概説書の中に『イリアス』のこのセリフがそのまま載っていて、それを孫引きしたという可能性はあるのだけれど、普通に考えて実際に翻訳されている『イリアス』から引用したのだろうと僕は思う。

 

ここで、このセリフから実際に岩明先生が参考にしたテキストを導き出せるのではないか?と僕は考えた。

 

つまり、日本に存在している『イリアス』の翻訳の中で、このダイマコスのセリフがあったならば、それが岩明先生が実際に読んだ『イリアス』なのだろうということ。

 

今回はその検証結果の報告です。

 

ただ問題があって、どうやら実際の本の『イリアス』のセリフは著作権の問題でそのまま使えないらしい。

 

『ぱにぽに』という漫画があって、その作中でシェイクスピアの演劇を行うのだけれど、著作権の問題で有名なセリフは一切使えなかったという話がある。

 

例えば、『ハムレット』の「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」というような有名なセリフはあるのだけれど、そういうのは一切使えないから、一々翻訳しなおしてセリフを書いたと氷川へきる先生は言及していた。

 

だから、『ヒストリエ』にしても、『イリアス』の本編中に実際にあるセリフを使ってはいるのだろうけれど、若干言い回しには変更が見られるという推測がある。

 

とはいえ、無から有は作れないので、翻訳の『イリアス』の該当のセリフと、ダイマコスのセリフを比較検討すれば、おそらくの参考文献は導き出せると僕は考えた。

 

今現在日本に存在する『イリアス』の翻訳は結構ある。

 

青空文庫、土井 晩翠訳『イーリアス』(参考)

岩波文庫、呉 茂一訳『イーリアス』

岩波文庫、松平 千秋訳『イリアス』

岩波少年文庫 高杉 一郎訳『ホメーロスのイーリアス物語』

『世界古典文学全集1』

『世界古典文学大系02』

 

等といった『イリアス』の翻訳の存在が確認できる。

 

最後の文学大系とか文学全集とかなのだけれど、調べたらこれらにホメーロスの作品が収録されていた。

 

僕は原始仏典とか古代中国のテキストを読むに際して、そのような全集的なものに結構触れたのだけれど、同じ文章を違う本で再録というのは結構あって、例えば『原典訳 原始仏典』という本がちくま学芸文庫から出ているのだけれど、内容は『世界古典文学全集06』に収録されているものと同じになる。

 

こういう風に、一度書かれた翻訳を色々な本でそのまま使うというのは日本の海外古典作品翻訳では良く見る光景で、全集やら大系やらに収録されている文章は、同じ翻訳者で同じ作品なら、同じ訳と考えていい。

 

上に挙げた全集やら大系やらは、著者名に呉茂一とあって、それらは同じ文章だろうと思う。

 

同じように、岩波文庫の呉茂一の『イーリアス』も同じテキストだと思う。

 

岩波少年文庫の『ホメーロスのイーリアス物語』について言えば、どうもホメロスの『イリアス』を元にした二次創作のようで、僕だったら参考資料としてこれは使わないので、とりあえず除外することにする。

 

確認出来る範囲で存在する翻訳は『ホメーロスのイーリアス物語』を除外して、土井晩翠版、呉茂一版、松平千秋版の三つ存在するということが分かった。

 

この三つの翻訳の文章を比較するわけだけれど、岩明先生が読んだ実際の翻訳を類推するにはどうすれば良いだろう。

 

話としては単純で、ダイマコスの台詞と最も近い『イリアス』の記述が、岩明先生が読んだ『イリアス』である蓋然性が最も高いだろうと僕は考える。

 

そのまんまの文言は使えない以上、参考にした『イリアス』に書かれたセリフと近いけれど違う言及になっていると推測出来て、実際、どの翻訳の『イリアス』でも全く同じセリフは見つけることが出来なかった。

 

ただ、検証の結果、岩明先生がどの翻訳を読んだのかは大体見当がついた。

 

とりあえず、ダイマコスのセリフを見てみる。

 

(4巻pp.107-108)

 

実際に、それぞれの翻訳にあるこのセリフを検証してみる。

 

この作業は思ったよりも簡単で青空文庫で『イーリアス』が存在するのだから、槍だとかアテネだとかそういう単語で青空文庫の『イーリアス』のページでF3キーを押して検索することによって、『イリアス』のどのシーンでこのセリフがあるかを見つけ出すことから始める。

 

実際、僕は「悲しみ」で検索して、該当の箇所を見つけたと思う。

 

ダイマコスのセリフは『イリアス』の第二十二歌の270行で確認できる。

 

実際に、土居版の訳を読んでみることにする。

 

「あらゆる勇氣振り起せ、今こそ汝投槍を
巧みに使ふ勇猛の戰士とおのが身を示せ。
逃るゝ道は既に無し、わが槍によりアテーネー
パラス汝を亡さむ、今こそ汝償はめ、
暴びて槍に倒したるわが友僚の悲しみを。(青空文庫より)」

 

…これ読んでも同じシーンなのか分かんねぇなぁ。

 

著作権が切れて青空文庫にあるくらいなのだから、古くて読みづらいのは仕方ないね。

 

とりあえず、何とも言えないので、他の2人の訳を読んでみる。

 

岩波文庫では『イリアス』は二度翻訳されているようで、古い方が呉茂一訳で、新しい方が松平千秋訳になる。

 

そして、何故か僕はその両方を偶然持っていたので、カタカタとそれを書き写すことにする。

 

まずは旧訳の呉版から。

 

「身に憶える限りのあらゆる武技(わざ)を働かすがいい、今こそ御身は

槍を執っての武辺者、また肝太(きもぶと)な戦士(もののふ)として立たねばならない。

もはや逃れる途はないのだ、直きに御身をパラス・アテーネーが

私の槍に討ち取らせよう。今こそ何もかもを一緒に償うのだ、

私の友への悲嘆の思いも。御身が槍に荒れ狂うて殺した者だぞ。

(ホメーロス『イーリアス 下』呉茂一訳 岩波文庫 1958年 p.251)」

 

先の青空文庫の土居版を読んだ後だと、相対的にマシな訳だなと思う。

 

土居版は見てみたら1940年のものらしくて、まぁそういう古い文章はやっぱり読みづらい。

 

この呉版にしたって1958年なのだから、色々表現が古風過ぎる。

 

次に、一番新しい松平版を見てみる。

 

「身につけたあらゆる武芸を思い出せ。今こそおぬしが槍の遣い手として、また果敢なる戦士としての面目を示さねばならぬ時なのだ。もはや逃げ隠れはならぬ、ほどなくパラス・アテネがわたしの槍でおぬしを倒されるであろう。おぬしが猛り狂って槍で仕留めた我が戦友たちの悲しみを、皆いま纏めて償うことになるのだ。

(ホメロス『イリアス 下』 松平千秋訳 岩波文庫  1992年 p.319)」

 

この訳だったら同じ箇所って分かりますね…。

 

(4巻pp.107-108)

 

著作権の問題で全く同じ文章をそのまま使うことが出来ない事情の存在を加味すれば、見た感じ底本は松平訳の『イリアス』だろうと言ってしまえるとは思うのだけれど、一応細かいところも見ていく。

 

松平訳の『イリアス』では"面目"という表現を使っていて、ダイマコスもそれを使っている。

 

一方で土居役と呉訳では面目という表現は見いだせない。

 

アテネが私の槍でお前を殺すと言うシーンについて、『ヒストリエ』では"ほどなく貫き倒すだろう"というように、"ほどなく"という言葉が使われている。

 

土居訳ではその語に該当する言葉は訳出されていない。

 

呉訳では"直きに"となっている。

 

松平訳では"ほどなく"という表現になっている。

 

土居訳と呉訳の『イーリアス』では、最後の文章で倒置法を使っていて、「償うことになるだろう→我が戦友たちの悲しみに」という表現になっている。

 

まぁ実際のギリシア語の原典がそういう表現なのだと思う。

 

一方で、松平訳の場合は、「我が戦友たちの悲しみを、皆いま纏めて償うことになるのだ。」と倒置法は用いられていない。

 

原文の文法よりも、読みやすさを選んだのだと思う。

 

そして『ヒストリエ』の方にしても、倒置法は採用されていない。

 

(4巻p.108)

 

以上の事柄から考えて、少なくとも『ヒストリエ』でダイマコスが『イリアス』の一節を吟じるシーンは、松平千秋訳が元だろうと言えると思う。

 

まぁそもそもとして、『ヒストリエ』の中だと『イーリアス』表記ではなくて『イリアス』表記なんだよな。

 

(4巻p.109)

 

元々が古代ギリシア語だから、日本語に翻訳するに際して表記にずれが生じてしまう。

 

ソクラテスはソークラテースが実際のギリシア語に近い音で、アリストテレスとかも正しくは、アリストテレースと発音する。

 

英語だとアリストテレスはアリストーテルと発音するのであって、じゃあアリストテレスって表記は何処から来たんだよ、と思うけれども、これは伝統なのだと思う。

 

もしかしたらドイツ語でアリストテレスと呼ぶのかもだけれど、基本的に参考にしたテキストの表記をそのまま自分で使うということが多い。

 

だから、岩明先生が参考にした『イリアス』も『イーリアス』ではなくて、『イリアス』だったのだと思う。

 

なんというか、普通に松平千秋訳の『イリアス』から、『ヒストリエ』の『イリアス』という表記は来ているのかもしれない。

 

まぁほかのは全部『イーリアス』表記だし。

 

とりあえず松平千秋訳の『イリアス』は読んだとして、他の『イリアス』の翻訳を読むかなのだけれど、複数の翻訳を比較検討するとか、そんなことをするのは専門家だけなのであって、普通に漫画家として一つ翻訳を読めば十分なので、『イリアス』に関しては松平訳以外は読んでいないと思う。

 

というか、呉茂一訳の『イリアス』なんて、実際読んでみれば分かるのだけれど、あんなの読んでたら頭がおかしくなって死ぬ。

 

現在を生きる僕らにはとても読めたものではない。

 

実際、この呉なる人物はかなり有名な人らしくて、僕は卒論で悲劇を扱ったのだけれど、それに際して参考になる本はないかと、悲劇論の授業をしていた教諭に問うたところ、この呉茂一の本を紹介されたことがあった。

 

だから、古代ギリシアといえば呉茂一であって、その筋では著名な人物になる。

 

ただ、だからといって今現在彼の訳した古代ギリシアの本を読むかといえばなかなか難しいのが現実で、僕はこの作業を始める前から呉訳の『イリアス』ではないだろうとは考えていた。

 

検証の結果として、岩明先生が参考にしたのは呉茂一訳の『イーリアス』ではなくて、松平千秋訳の『イリアス』である蓋然性が高い。

 

そして大体、松平千秋訳の岩波文庫の『イリアス』を岩明先生が読んでいたと分かったならば、他にもいくつか分かってくる内容がある。

 

例えば、松平千秋は岩波文庫で『オデュッセイア』も翻訳している。

 

とするならば、岩明先生が読んだ『オデュッセイア』も岩波文庫の新訳の『オデュッセイア』であるだろうという推論がある。

 

実際、古典文学の翻訳を読んだことがある人は分かると思うのだけれど、一度信頼できる訳をしている翻訳家の本があったならば、次も同じ人の翻訳を手に取るという傾向性がある。

 

…古典文学の翻訳の中には、少なからずやべー奴が混ざっている。

 

その様な地雷を避ける方法として、同じ人の翻訳を選ぶということを多くの人がしていると思う。

 

だから、岩明先生は松平千秋訳の『オデュッセイア』を選んだだろうと僕は考えている。

 

そして、松平千秋は岩波文庫でヘロドトスの『歴史』も翻訳している。

 

この『歴史』についても岩明先生は読んだ可能性が高い。

 

『ヒストリエ』にはメディア王国についての言及がある。

 

(1巻p.175)

 

このメディア王国についてなのだけれど、ヘロドトスが書いた『歴史』以外に殆ど記述が存在していないらしい。

 

その『歴史』を松平千秋は翻訳しているし、『ヒストリエ』で有名なハルパゴス将軍のエピソードの元はおそらくは松平千秋訳のヘロドトスの『歴史』だろうという推測がある。

 

勿論、概説書に書いてある内容を持ってきたという可能性はあるけれども、先の『イリアス』に関する情報を鑑みるに、少なくとも『イリアス』は読んでいる以上、『歴史』も岩明先生は読んでいるのだろうと僕は思う。

 

『イリアス』『オデュッセイア』『歴史』はそれぞれ岩波文庫から出ているのだけれど、岩明先生は岩波文庫を手に取るような人間だと考えていいと思う。

 

とすると、岩波文庫から出ている他の古代ギリシアに関する本も読んでいる可能性が存在してくる。

 

『ヒストリエ』本編中に『アナバシス』についての言及がある。

 

(1巻p.141)

 

これも岩波文庫から出ている。

 

僕も持っているのだけれど、読んでないなぁ…。

 

何で持ってるんですかね?(自問)

 

ちなみにこの『アナバシス』も松平千秋が訳している。

 

岩明先生が読んだ可能性はある。

 

加えて、これは松平千秋が訳したわけではないのだけれど、岩波文庫から『アレクサンドロス大王東征記』という本の翻訳が出ている。

 

これに関しては、岩明先生は読んでいる可能性はあると思う。

 

僕はブックオフでほんの少しだけ立ち読みしたけれども、偶然開いたページで、ヘファイスティオンとエウメネスが争っていた。

 

『ヒストリエ』のアレクサンドロス大王の東征に関する底本は何かしら存在しているとは思うのだけれど、岩明先生が岩波文庫を読んでいるだろうという推測からして、僕はこの岩波文庫の『アレクサンドロス大王東征記』がこれから書かれる予定にあるペルシア戦争の底本である可能性をにらんでいる。

 

信頼できるレーベルが一つあったならば、普通そのレーベルの本が資料集めに際して採用される。

 

岩明先生は高い確率で岩波文庫の『イリアス』を読んでいるのだから、他の資料も岩波文庫を頼ったということはあり得ないではない。

 

それに加えて、エウメネス自身の話はプルタルコスの『英雄伝』が元なのであって、そこら辺の本を読めば岩明先生の"予定"が分かるかもしれない。(参考)

 

ただ、『英雄伝』に関しては、岩波文庫のやつではない可能性が高い。

 

岩波文庫の『英雄伝』は戦直後に書かれて修正されてない旧字体のやつしかないもの。

 

調べたのだけれど、岩波文庫以外ではちくま学芸文庫と潮文庫なるところからそれぞれ文庫で『英雄伝』は出ている。

 

加えて、『世界古典文学全集23』でプルタルコスの『英雄伝』が出ているから、岩明先生はこれを読んだ可能性はある。

 

同じシリーズの『世界古典文学全集10』で、ヘロドトスの『歴史』があるから、岩明先生はこのシリーズでヘロドトスとプルタルコスを読んだのかもしれない。

 

この『歴史』は松平千秋訳ね。

 

このシリーズは『論語』と『仏典Ⅰ原始仏典』『仏典Ⅱ 大乗仏典』を僕は持っているけれども、参考程度に読んだそれらの本は、少なくとも読める内容だったので、ヘロドトスとプルタルコスの著作について、このシリーズで読んでみると良いかもしれない。

 

アマゾンで見たら1000円弱で売ってるな。

 

折角だから今回出てきた本のアフィリエイト貼っておくか。

 

どうせ儲けなんて出ないのだけれど。

 

そうそう。

 

『ヒストリエ』の本編中にアリストテレスが出てくるのだけれど、岩明先生はアリストテレスの著作については読んでいないと思う。

 

(1巻p.18)

 

何故そうと言うかというと、本編中に古代ギリシア哲学に由来のある描写が存在しないからになる。

 

なんというか、現代の哲学関係の本を読んでいたとしても、古代ギリシア哲学に由来がある言及については、それが古代ギリシアのそれだということは分かる。

 

アリストテレスの煩瑣な哲学や、プラトンのイデア論的な発想を『ヒストリエ』の中では見出すことが出来ない。

 

見出すことは出来ないし、岩明先生は一切知らないと思う。

 

作中にそのような情報が存在していない。

 

岩明先生が知っているのは、概説書の中にある自然科学の研究に関するアリストテレスだけであって、エーテルだの質量因だのを論じたアリストテレスのことを存じ上げてはいないと思う。

 

まぁプラトンにしてもアリストテレスにしても、あんなの読んでたら頭おかしくなるからね、しょうがないね。

 

…あと、メモ帳には蒲生氏郷のことが書いてあったのだけれど、純粋に僕が飽きてきたので、これくらいにする。

 

最後に、サイトマップ的なページのリンクを貼って、申し訳程度のアフィリエイトを張り付けて終わりにする。

 

一応アフィリエイトは貼るけれども、アメブロだと一円にもならないのが現実だから、あまり気にしないでください。

 

では。


・追記

僕は『英雄伝』はエウメネスの話しか読んでないから知らなかったのだけれど、『英雄伝』にはアレクサンドロス大王の伝記が収録されているらしい。

 

それだけではなくて、フォーキオンやデモステネスについても書いてある。…ってWikipediaに書いてあった。

 

なので、『ヒストリエ』の底本はあくまで『英雄伝』であって、『アレクサンドロス大王東征記』を岩明先生は読んでいないのかもしれない。

 

…検証はしないけれど。

 

言及した岩明先生の参考資料の中で確実に読んだと言える本は『イリアス』と『英雄伝』だけになる。

 

まぁ『オデュッセイア』は読んだだろうと思うけれど、『イリアス』と『英雄伝』程の確実性はない。

 

『英雄伝』についてはほぼ確実で、先に書いたようにフォーキオンとデモステネス、そしてアレクサンドロスの伝記が載っているというのはそうなのだけれども、それに加えてマルケルスの伝記が収録されている。

 

この『英雄伝』は高校の世界史で『対比列伝』といういう表記で習うのだけれども、趣旨としてはギリシアの英雄とローマの英雄を対比させる形で叙述するという内容になる。

 

そのローマ側の英雄の中に、マルケルスが存在している。

 

マルケルスは岩明先生の作品である『ヘウレーカ』に敵軍の将軍として重要な役割を果たしている。

 

個人的に『ヘウレーカ』は『ヒストリエ』のための習作だと考えているけれども、総合的に考えて『英雄伝』は読んでいると思う。

 

詳しくは"『ヒストリエ』の王の左腕に関する細かい描写の解説"の記事を読んでください。(参考)

 

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