泣かずにいるにはあまりに刺激的な | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

前回の『キングダム』についての記事から大分時間経っているし、そもそもとして漫画の解説は僕の中で色々ノーカンだから、僕の中では軽く一か月更新しなかったわけだけれど、その間二度三度なんか書こうと試みて途中まで書いて放棄をしたということを繰り返している。

 

純粋に、未だにあんまり元気じゃないんだと思う。

 

ただ、漫画についての記事を連続させたのには理由があって、アメブロの仕様が変わってその日にどの記事が読まれたか、全て確認できるようになったのだけれど、その結果としてほぼほぼ漫画についてしか読まれてないということを理解したから、とりあえず漫画のことを書いてた。

 

どうせ書いても読まれない程度の内容だったらあんまり意味ないよなと思う。

 

まぁ、漫画の解説なんてあまりに苦行でやってらんないから、今回はそんな意味のないことを今回は書くのだけれど。

 

この記事は、生物の目的について言及する。

 

生物の目的と言えばそうなのだけれど、何というか、ライオンの牙とか、鳥の羽とか、犬の優れた鼻とか、そういったものが何のために存在しているのかということについての説明についてになる。

 

ライオンの牙は何のためにあるのかというと、肉を引き裂くためにあるわけではない。

 

ライオンの狩りというのは牙で引き裂いて獲物を仕留めるという方法は取らなくて、首元に噛みついて、獲物を窒息死させてから捕食するという方法を取っていて、つまるところあの牙は捕食対象を窒息させるためにあると言えると思う。

 

鳥の羽はまぁ、飛ぶためにある。

 

犬のあの優れた嗅覚は、獲物を探したり、個体間のコミュニケーションのために役立てるためにあると言えると思う。

 

ただ、その説明は間違っている。

 

別にライオンの牙は獲物を窒息させるために形作られたわけでもなければ、鳥の羽は飛ぶために作られているわけでもなくて、犬の嗅覚はそのような目的のために優れているわけではない。

 

今現在その部位がある特定の仕事に役立っているからと言って、その形質がそのために存在しているとは本来的には言及できない。

 

どういうことだろう。

 

これは、一つのアナロジー、すなわち、例え話を見てもらえれば分かると思う。

 

考えてもらいたいのだけれど、寿司に入っているわさびは何のために入っているのだろう。

 

僕だったら素朴に、生魚を使った料理だから、殺菌のためにわさびは使われているのではないかと思ってしまう。

 

同じように寿司の話で、寿司を作るのに笹を添えたり、笹で包んだりするという方法を取ることがあって、実際、笹にはフィトンチという成分やサリチル酸という成分が含まれていて、その成分は殺菌作用を持っている。

 

じゃあ、寿司に笹を使うのは、殺菌のためだと言えるだろうか。

 

僕だったらそう言ってしまいそうになる。

 

でもそれは間違いになる。

 

何故と言えば、最初に寿司にわさびを使った人、笹を使った人は、別に殺菌しようと思ってそれらを用いたわけではないからになる。

 

江戸時代には寿司にわさびは用いられていたらしいのだけれど、その当時に細菌という発想は存在していなくて、何故食べ物が腐敗するのかは理解されていなかった以上、最初にわさびを用いた人は、別に殺菌しようと思って使ったわけではない。

 

細菌などは科学が発達して初めて認識されるような類の物であって、結局、顕微鏡がなければ確認することも出来なくて、最初にわさびを寿司に使った人は別に細菌の存在など存じ上げていない。

 

そのように江戸時代からずっと寿司にわさびを使い続けている以上、寿司にわさびを使う理由は殺菌のためというのはナンセンスな意見であって、ただ単に、昔からずっとわさびを使う慣習があるから、わさびを使っているだけに過ぎない。

 

結局、最初にわさびを寿司に使った人は、それが美味しかったからとかそういう理由で使ったわけであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 

じゃあ何故未だに寿司にわさびを使い続けるか。

 

その理由は、その文化が廃れなかったからという所に理由がある。

 

胡椒は西洋世界では高価であって、肉の臭みを取るのに使われたけれど、一時期上流階級ではコーヒーに胡椒を入れるということも行われていたと聞いたことがある。

 

その目的は贅の限りを尽くすためであって、ただそのコーヒーはあんまり美味しくなかったようで、今ではそれはあまり行われていない。

 

コーヒーに胡椒を入れるという文化は廃れてしまったけれども、寿司にわさびを使うという文化は廃れなかった。

 

その理由は何だろう。

 

理由なんていくらでもあると思う。

 

わさびを寿司に使うと美味しかったからかもしれないし、わさびの入手難度がそれほどまでに難しいそれではなかったからかもしれないし、その殺菌作用が経験的に認識されて積極的に用いられたからかもしれない。

 

笹を使うということに関しては、色々なものを試してく過程で、笹を使ったパターンが最も腐敗という不利益を避けられたからこそ、積極的に使われていったのだと思う。

 

コーヒーに使う胡椒にしても、それがコーヒーに入れる砂糖やミルクのように美味しく仕上がるそれであったならば、別に廃れはしなかったわけであって、結局、今寿司にわさびや笹を使って、コーヒーに胡椒を使わない理由は、前者が淘汰圧から逃れて今現在まで存在していて、反面、後者は淘汰圧から免れずに滅んでしまったからと言っていいと思う。

 

ここで例えばわさびと同じように刺激的な味の香辛料や調味料が存在していたとしても、それを使ったらわさびのように食あたりを防げなかったり、むしろ食材の痛みを早くするようなものだったとしたならば、それは初めほんの少しだけ使われて、時間が経つにつれて使われなくなっていくかもしれない。

 

何が淘汰圧になるか分からないけれども、少なくともわさびは寿司のお供としては淘汰圧に強かったからこそ、未だに寿司にはわさびを用いると言える。

 

結局、生物も文化も究極情報でしかなくて、それぞれぶつかる淘汰圧は違えども、それが存続するか否かは、それぞれの直面した淘汰圧のに耐え得るかによっている。

 

ライオンの牙は獲物の首を絞めるということに実際問題役立っているけれども、別に獲物の首を絞めるために存在しているわけではない。

 

牙の話に限定すると、長い進化の過程で色々な牙の形態が存在していて、それを用いて生存競争を行うのだけれど、その中で比較的有利な形質を持った個体が生殖に成功して次世代を作っていく。

 

それぞれ直面する淘汰圧によって様々な戦略がある。

 

ただ、それぞれの戦略者は頭を使って戦略を練っているわけではない。

 

長い長い年月の間に、例えば鋭い牙が淘汰圧に強ければ、それを持った生物がより生き残っていくし、例えば足が早いという形質が捕食者からの逃亡に有利に働くとしたならば、その形質が目立つ個体が集団の中で増えていく。

 

どんな形質を持っていても問題はないのだけれど、生存と生殖に不利益な形質を持った個体は取り除かれて、生き残った生存に有利な形質を持った個体が生んだ世代では、その一つ前の世代より若干洗練された個体同士でまた同じ競争を行う。

 

ライオンが今ある牙を持っているのは、長い長い年月の間でそのような牙を持った個体が生殖に成功したからということに理由があって、別にあの牙はその目的のために形作られたわけではない。

 

わさびは結局、美味しいという理由、入手が比較的容易という理由、殺菌作用があるという理由、等々がそれぞれ決定的にどれかが理由ということはなくて、けれどもそれが淘汰圧に強かったからこそ、今現在まで使われている。

 

ライオンの牙にしても、結局、それぞれの世代が生まれた時に、その形質が致命的ではなかったからこそ、その個体は生き残り子孫を残すことに成功したということが実際にあったことであって、別にそれぞれの個体は牙をより鋭くしようだとか、空を飛ぶのに有利な羽を作ろうだとか、より嗅ぎ分けられる鼻を作り上げようだとか考えた結果、その形質が生まれたわけではない。

 

だから、説明として、ライオンの牙は相手を窒息させるというそれは、そうとは言えるけれど別にそのために作られたとは言えないというのが実際で、けれども、都合としてそういう説明を選ぶということがある。

 

僕は時たま、人間の形質について、色々と○○のためにある、と言ってしまうことがあるけれど、別にそのためにその形質が存在しているわけではないということは知っていて、けれども、他に説明のしようもないし、毎回毎回このような説明を加えるということは不経済というか、大変だからそういう説明はあまり入れられていない。

 

生物の全ての形質は、結局、そのことが何らか有利であるか、何らか致命的ではないかという理由で存在していて、人間の形質とてそのことは変わらない。

 

僕が書いている中で結構語弊があるなと思ったために、そのことについて言及したいと思ってこの記事は書いている。

 

…短いけれどこの記事は以上になる。

 

なんか最近、自分でも良く分からないのだけれど、日記が書けない。

 

この記事は一週間くらい前からちょくちょく書き足して、でもなんか書けないから途中でやめて、ということを繰り返して、個人的な規定量である5000字に到達するのはもう無理だと思ったから公開することにした。

 

もうかれこれ10年近く色々書いているけれど、こんなに何にも書けないというのは1~2回しか起きてなかった。

 

そろそろ色々な潮時なのかも知れない。

 

まぁそもそも大してアクセスはないし、大して読まれてないということは分かっているし、そもそも読まれてようと読まれてなかろうと、別にこれは日記なのだからそこのところはまぁ良いのだけれど。

 

そんな感じ。

 

では