『聲の形』の感想と考察 | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

今日は『聲の形』の感想と考察。

まぁ、考察と銘打たずに解説としても良かったのだけれど、そんなに読み込んでないのが実際なので考察とした。

一応内容的には『聲の形』全7巻を読んでいると分かりやすいと思います。

僕は『聲の形』という作品について、毎週マガジンで読んでいた。

まぁネギま載ってたし。

でも、結構読むのがきついから、流し読み程度にしか読んでなかった。

それでも結構好きな方の作品だった。

きつかったけど。

で、先ごろ劇場版が公開された。

映画自体の詳しい経緯とかはめんどくさいから書かない。

別にそう言うのはWikipediaの記事で十分だと思うし。

僕は映画館に行くことは決めていた。

なんでだろう。

まぁ、最初から、分かっていたのだけれど。

登場人物の中に、ボーイッシュな女の子が出てくる。

僕はそれ以上語らない。

で、その子を見るために劇場に足を運ぶ。

そして映画を見た。

かなり泣きながら見たし、かなり良い作品だと思った。

僕は原作をそこまで読み込んでいなかったのだけれど、もしかしたら原作より面白いのではないかとすら思った。

そして、結絃が可愛かった。


(『聲の形』2巻p.178)

映画自体は色々キツ過ぎるのだけれど、結絃がとにかくかわいかった。

これはアニメの『艦これ』の時に学んだのだけれど、ストーリーや演出がどんなにクソであろうと、キャラクターが可愛ければ人間はその作品を面白いと判断する。

艦これは6話が一番おもしろいとされている。

僕はそれを当然見たのだけれど、信じらんないほどつまらない。

けれども、可愛いロリキャラが前面に出された回であった。

僕はロリ趣味は無いので、ふっつーにつまらなかったけれど、ロリコンの皆様方は楽しんだ御様子だった。

反面、僕は5話がまだ救いのあるクソだと思った。

けれども、幾人かは僕と意見を同じにする人もいたけれど、それが多いか少ないかは分からないし、少なくとも6話の方が人気であるという話であるらしい。

僕は自分を鑑みた。

すると、この話の瑞鶴を可愛いと思っていたことを理解する。

ここに、内容の良し悪しなんて関係なく、人は可愛いキャラクターさえ出ればそれで面白いと感じてしまうということをまた理解する。

とは言っても『聲の形』は可愛いということを抜きにしても十分すぎる作品なのだけれど。

まぁ、結絃に関しては、僕の個人的な感傷なので…というか僕の遺伝子の交差の問題なのでどうでもよろしい。

で、映画を見ている最中は、結絃が出てくるシーンが来るたびに、「それにしても結絃が可愛いな」って思ってた。

だからそのうちまた結絃を見るために映画館に行こうとは考えていた。

けれども、全ての事が億劫だから見に中々行かなかった。

その間に『聲の形』の単行本を読み返していた。

何回読んだかなんて数えてないけれど、随分前に手に入れてそのままにしていたやつを映画を見終わった後に読み返していた。

あー、結構色々変わっているなぁと漫画を読みつつ思っていた。

そして今日、時間と金に余裕が出来たので、時間を見繕って映画館に行ってきた。

それはついさっきのことなのだけれど、色々と分かったことがあった。

初め映画を見た時に感じたこと、原作よりいいのではないかという判断は間違っていたと判断せざるを得ないということだった。

あ、色々考察はじめます。

ネタバレせずに考察なんて出来やしないから、勘弁してください。

まず、映画と漫画では主人公の石田の行動というか性格というか、動機に変化がある。

どういうことかというと、漫画で行動の端々にあった、色々な下心が映画ではなくなっていた。

漫画ではかなりの下心を以て、石田は西宮という聾唖の少女の所へと足を運んだし、様々な行動を起こしていた。

この下心というものが中々に厄介で、主人公の石田は男で、ヒロインの西宮は女であるから、下心というと下賤な男女間のそれであると判断してしまいやすい。

けれども、原作を鑑みるに、石田は確かに下心は持っているのだけれど、その下心は西宮への女性に対してのそれとしてあるわけではないということが分かる。

別にスケベ心では近づいていない。

けれども、確実に下心がある。

それはどんな下心かというと、寂しさを紛らわせたいという下心になる。

勿論、多くの事は小学高時代に石田が西宮硝子に行ったいじめに対する償いという側面があるのだけれど、それだけではなくて石田は酷く寂しいと感じている。

中学に入ってから一人たりとも友達がいなかった。

そんな石田はもう死んでしまうつもりだったのだけれど、最後に西宮硝子に会いに行った。

ここで謝罪を済ませて死ぬつもりだったけれど、その死ぬ理由は罪を償う為ではなくて、友達も出来ずに一人ぼっちで生きていくことが辛いからという理由になる。

よくよく読み返せばここは分かる。





(1巻pp.180-183)

やり残したことの中に、西宮硝子に謝りに行くということがあるに過ぎない。

そして実際に硝子に会いに行った時に、寂しさのあまり「友達になれないか?」と言ってしまう。

ただ、謝りに行くことに関連して、しっかり手話は覚えていた模様。

物語はここで石田が死ななくなったから色々進むのだけれど、そもそもに石田の動機は寂しさを紛らわせたいという下心でしかない。

それが悪いとは僕は思わない。

僕は一か月も人と話さないような生活をした事があるから、孤独というものがどれ程苛むものかを知っているから。

まぁ石田は家族とは話していただろうけれど。

その後、石田は硝子と交流を進めるのだけれど、下心に基づいて色々やっていく。

ただ、石田自身は恋心は恐らく持っていなかった。

あんまりね。

思春期の男子が少し期待してしまう程度にはあったのかもしれないけれど。

けれども、下心があるということは読んでて分かるのだけれど、その下心が恋愛的なものなのか、それとも上述の通りなのか、実際分かりづらい。

完全に硝子の為に罪償いとしてやっていないということは分かるのだけれど、石田の心理について読み取りづらい。

そこに映画を作った人が気づいたのだと思う。

映画では徹底的に石田の下心が取り除かれている。

まぁ、いじめの加害者が下心を持って被害者に近づいて、結果被害者が加害者を許して結ばれる話だなんて、話だけ聞いたら都合がよすぎて反吐が出そうだしな。

その判断はまぁ悪くないと思ったし、映画を見た一回目は監督の意図を強く感じた。

なのだけれど、二回目で原作の意図を知った後だと、酷くその監督の意図が作品全体を損なっているということに気付く。

つまり、石田は一貫して罪償いと並行的に寂しいから硝子と一緒に居たいという気持ちで特に序盤、行動するのだけれど、それが失われているから石田の行動が良く考えると意味不明でしかなくなってる。

映画版だと罪悪感を前面に押し出して、石田がそれ程に人恋しくあるようには描かれない。

原作だと人恋しいのだけれど、それがないから石田の行動に一貫性がなくなっている。

つまり、罪を償うために硝子に尽くす為であるならば、その行動はあまりにもおかしいというような行動が多くなっている。

例えば、結絃が昔姉を虐めていた石田と姉である硝子が会わないようにするために、俺は硝子の彼氏だと言った時に石田はパンを落としてしまう。

下心がないようにふるまうのに、そのような行動をさせるから一貫性がなくて浮いてしまっている。

原作だと押していた自転車を倒してしまうのだけれど、仲良くなりたいという下心があるように描かれるために矛盾はしていない。

スマホを石田が手に入れて、原作だとそれを口実に硝子の連絡先を知ろうとするシーンがある。



(3巻p.6)

原作だと「俺とか」と独白していることが分かる。

この後硝子は小学校の頃の同級生の連絡先が欲しいと言ったために、石田の目論見は達成されないのだけれど、映画版だと特にこのシーンがよろしくない。

石田の下心が一切描かれていないから、このシーンで石田が何をしたかったのかがさっぱり分からなくなっている。

「俺とか」という独白は影も見えない。

矛盾、そうと言えるほどにあからさまな破綻ではないのだけれど、歪みレベルにはなってしまっている。

なぜこんな風な変更をしたのか、まぁ普通に下心を持って男が女に近づいて、女の方が男に惚れるという出来事が、いじめの加害者と被害者で起きるというプロットが非常にまずいからだと思う。

原作だとそう言う下心ではなくて、寂しくてということなのだけれど、多分原作読者も分かっていない人多そうだから、色々仕方がないと思う。

こういう風な変更と、尺ゆえの変更が結構ある。

その変更と原作の表現、その両方を並べて比べてどっちが良かったかを考えてみると、大体の事が原作の描写の方が良かったなと思えてくる。

まぁ映画版で映画作成の話をバッサリ切ったのはまぁよかったと思う。

あんまり映画撮影の話それ自体は面白くないし。

ただ、映画撮影が故に起こる諸エピソード、もちろん映画版だと尺の都合でカットなのだろうけれど、そのカットされたエピソードの中に、良いと判断できるものがあるから痛し痒しというかなんというか。

ただどの道、仮に原作を100としたならば、劇場版は80や75と言ったところなのだろうなと思う。

劇場版の結絃が可愛かっただなんて、僕個人の感傷だし。

まぁ色々なところで劇場版の『GANTZ:O』よりは許容範囲にあると思う。

さて。

以下は一つの事を解説するための物語の解説を行う。

『聲の形』は登場人物が登場人物なりに一生懸命やったけど、何か上手く行かなかったという話になる。

多くの登場人物が、過去の事を振り返って後悔している。

その葛藤が物語の骨子であって、そこで描かれる人間模様が『聲の形』という作品であると僕は思う。

映画版の小学校時代のエピソードを見るに、どう考えても大人が悪いとしか言えない。

担任教師がもっとフォローしようがいくらでもあっただろうに、しない。

いじめが発覚して校長らしき人物が主犯を探していた時に、担任は真っ先に石田を怒鳴りつける。

その事からいじめの存在を担任は知っていたということが分かる。

それなのに担任は何もしなかったわけだから、大人である担任が全面的に悪い。

また、映画では硝子の母親が硝子を普通の小学校へ通わせた動機の一切が描かれないけれど、普通だったら我が子への配慮を怠って、普通の小学校へ通わせた母親が悪い。

子供たちは何も悪くない。

けれども、原作は更に葛藤がある。

硝子の母親は硝子の事を考えずに普通の小学校へ通わせたのではなくて、彼女の事をよく考えて、それが正しいかはさておいて、硝子を強く育てるために普通の小学校へ通わせた。

それがために硝子は苦しんだのかもしれないけれど、母親は母親なりにもがき苦しんで、最善だと思ってこの行動を取った。

これを読んでいる人がどんな年齢の人かは分からないけれど、大人になれば分かることも多い。

両親は万能ではなくてただの人だし、賢い場合もあれば愚かな場合もある。

どうすればいいかなんて知らないわけであって、暗中の中で模索するしかない。

僕は硝子の母親を責めきれない。

最も、普通に考えるなら硝子の母親はあまりに身勝手な判断で娘を苦しめたのだけれど。

ただ、彼女は人間であって、迷いもすれば間違いもする。

僕はこの年齢になってそれが良く分かる。

主人公の石田は、小学校の当時は何も考えずに硝子を虐めていたのはそれは確かになる。

けれども、高校生になって色々な事を考えて、どうすればいいのか、どうできるのかを手探りで一つ一つ確かめていく。

それを受ける硝子だって、彼女なりの最善を求めて行動している。

いつも笑っていれば人が良く思ってくれると考えて、作り笑いをいつもしているけれど、それが植野の癪に障るわけであって、彼女だって迷い悩んで行動していて、いつも自分の事を責めている。

植野は石田に恋心を寄せるけれど、石田の視線が硝子へ向いていることを知っている。

その為に石田の視線を自分に向けようと努力するのだけれど、全てが全て空回りしてがんじがらめになる。

佐原は過去逃げ出して硝子を一人ぼっちにしてしまったことを悔いて、今度は逃げ出さないために全ての事へ向き合おうと行動している。

川井は…彼女の事に言及すると、僕自身が彼女の事をあまりにも悪く思ってしまっていて、悪い言葉抜きには語れないから語らないけれど、彼女なりに悩んでいる。

真柴は硝子のいじめそれ自体とは関わりはないけれど、それでも悩み苦しんで、自分を探して葛藤している。

結絃は本当に姉のために色々していて、死体の写真をたくさん撮って、それを姉に見せてもう死ぬだなんて悲しい言葉を言わせないようにしている。

このように、登場人物の一人一人が思い悩んで頑張って、けれども全てが上手く行かないというのが『聲の形』という話になる。

読んでて辛い。

完全な悪役が居ればそいつが悪いわけであって、そいつを糾弾すれば良い。

そいつに恨みと激しさを全てぶつける事さえできれば、感情は消化されるわけだから、蟠る鬱屈したそれは胸中に残らない。

けれども、『聲の形』は誰が悪かったということではなくて、それぞれ頑張ったけれど上手く行かなかったという話になる。

だから蟠るものが出てくるし、それこそが『聲の形』の物語になる。

ただ、そんな中で悪役に描かれている人物がいる。

石田を虐めた二人は、結局石田が硝子の自殺を阻止した時に石田を救い上げているからそこまで悪い奴ではなく描かれている。

やはり、現実の世界と同じで、完全な悪は無くてそれぞれが加害者で、それぞれが被害者で、それが分かっているからやるせない。

けれども、小学校の頃の担任はどうだろう。




(1巻pp.107-108)







(1巻pp.119-122)

















(5巻pp.45-56)


小学校時代は本当に屑だし、高校に入って再会した時もやっぱり屑でしかなかった。

僕らはこいつが本当の屑だと考えて、彼を悪しざまに語れるのだけれど、僕はこの歳になって分かることがあった。

両親が人間であるように、教師も人間でしかないということ。

社会経験と学力では学生と大きな差はあるのだろうけれど、本質的には学生が友人として感じる様な同級生と何ら変わりはない。

僕は年の離れた人と働くことが多いのだけれど、彼らを見ていて、どこまで行ってもやはり人間でしかないということが良く分かった。

当然、教師だろうが人間でしかない。

嫌な事は嫌だし、面倒なことは面倒であって、分からないことは分からないし、どうしようもないことはどうしようもない。

僕は、おそらく彼も彼なりにもがいたけれども、あの結果になってしまったということに気付いてしまった。

僕はあることに気付く。

このシーンを見てもらいたい。



(5巻p.57)

彼の最期のコマのセリフ、職員室に入ってきた西宮に関するものなのだけれど、僕は最初読んだ時、この担任が西宮について「なんだ?久しぶりに来たかったのか?」と独白したシーンだと思っていた。

けれども、少し考えてこのシーンを見てみる。

上記のような独白であったならば、登場したシーンの次のコマか、元担任の顔が出た次のコマにその独白が来る。

けれども、このシーンはそうではなくて、硝子の手話が描写された後に、彼のセリフ「…… 久しぶりに… 来たかった?」というものがくる。

これを考えてみる。

このセリフ、実は硝子のセリフとして最も合致している。

僕は手話が分からないから何とも言えないというのは確かなのだけれど、硝子が手話で石田に伝えている内容を元担任が読み上げている可能性がある。

つまりそうであるとしたならば、彼は手話を理解できるということ。

石田が硝子の為にそうしたように、元担任の彼もまた、初めて出会った聾唖の教え子のために、もしかしたら彼女の為だけになってしまうかもしれないというのに、一年に数十人居る教え子、生涯では数百人になる教え子の中のたった一人のために手話を覚えたということ。

僕はそれに気付いた時に、感情のやり場を失ってしまった。

大人だって完璧じゃない。

教師だからって万能じゃない。

僕はそれを知っている。

彼だって彼なりに努力したのだと思う。

その上で彼からこのセリフが出てくる。





(5巻pp.58-60)

「ほら やっぱり 立派になったじゃないか」

自分を立派じゃないと卑下した石田に彼はこう言った。

一度読んだ程度だと本当に嫌な言葉だけれど、彼がたった一人の教え子のために手話を覚えるような人間だと知った後にこれを読むと、意味合いが変わってくる。

僕はどんな気持ちを抱けばいいのか分からない。

誰しもが完全に善人であるわけでもなく、完全に悪人であるわけでもない。

ただ、巡り会わせでその人の悪い部分にあたってしまっただけで、酷く相手の事を恨んでしまう。



(6巻p.129)

このシーンは硝子が一人で彼に映画の撮影の許可を取りに来ている所に真柴もお願いするシーンだけれど、硝子と彼の距離が筆談する人間同士の距離ではない。

そして、彼の「さすが 石田の友達だな どーしようもない愚か者だ」という台詞について、これも侮辱の為のセリフではない。

結局、彼はこの後映画撮影を許可している。

馬鹿者や愚か者という言葉は、文脈によっては褒め言葉になる。

彼のセリフを、馬鹿なお願いをけれども何度もお願いしにくる人間に対して、その愚直さを褒めた言葉として受け取ってみる。

すると彼が真柴を褒めているということが分かる。

ありとあらゆる感情が、激情が、この作品には絡み合って、ほぐすことは出来やしないのだけれど、僕はそれを見てただ嘆息する。

僕らは現実世界の相似であるこの『聲の形』の世界を見て、けれども彼らはそれを乗り越えて生きていく。

物語は結局、読者の望んだ形にならない限り、良いものであると大抵は評価されない。

彼らの生き方、そして結果。

現実世界では解消しきれないような苛みでしかない、いじめという問題をもがきながら乗り越えていく彼らのあり方は、僕らが望む現実世界の写し鏡である側面があるのかもしれない。

最期、硝子の手を握ってドアの向こうへと歩き出した石田。

あの二人に読者は、そして僕は何を思ったか。

言葉にすることがいつも正しいと僕は思えない。

あのシーンは抒情的にあるだけで、僕はその抒情性を言葉にする術を持っていない。

でも彼らは、きっと。


これくらい。

まー、元担任がこういう話だっていうのは結局、硝子の手話を理解しているということが僕の読み違いではないという前提ではあるのだけれど。

そんな感じ。

では。

 

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