太平洋戦争史と心霊世界 -14ページ目

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


nature1 


 自分の病気についての話です。ガンと判明し、「ガーン」ときた状況から、診断で手術はなしと言われ、抗がん剤治療を勧められたものの、納得いかずそのまま放置しようかと考えたところまで書きました。

 

 で、放置と言っても治療方針を以降、具体的にどうするかわからないので、「放置療法」で有名な近藤誠医師のセカンドオピニオンを聞くことにしました。 

 

 ところが親族はガンを放置したまま何もしないとは、自殺行為だと反対します。近藤誠氏は抗がん剤に延命効果はない、ガンは放置したほうが長く生きられると主張する医師ですから、セカンドオピニオンを私が聞けば、当然放置療法に走るに決まっています。

 

 ただしガンの「放置療法」というのは、何もかも放置するのではなく、抗がん剤をせずに転移で痛みが出たら、その都度痛み止めなど対処する、という方法です。また近藤氏は抗がん剤が全てのガンに無効なわけではなく、白血病など血液のガンには有効としています。

 

 親兄弟に治療法をもっとよく考えてくれと請われたので、彼らの心情を考慮し、もう1件のセカンドオピニオン先を加えることにしました。これは身内の希望でがんセンターになりました。

 

 最初に近藤誠氏のセカンドオピニオンを、親と一緒に聞きに行こうとしました。近藤氏の医療機関は東京なので、親が上京して東京のある地点で私と合流することになっていました。

 

ところが途中の列車事故で、親が予約時間にとても間に合わず、セカンドオピニオンを自分一人で聞きに行く羽目になってしまいました。親はこれまで何十回も東京へ遊びに来ていますが、未だかつてこんなハプニングに遭遇したことはありません。

 

なぜ「抗がん剤か何かの治療を受けた方がいい」と主張する親が、放置療法を勧める近藤医師のセカンドオピニオンに来られず、自分一人だけが行くことになったのか?何か天啓ともいえる作用が働いているのではないかとも感じました。

 

シルバーバーチの霊界通信には「世の中には偶然はない」とも述べられています。だったらこの出来事が、抗がん剤を投与しない方が結果として上手くいく、ということを暗示しているのではないか?

 

私は物事を決めるにあたり、結構このようなハプニングも決定のための考慮の対象に加えたりします。この事件は私にとって重要な意味を持ちました。


nature2 

 

近藤誠氏のセカンドオピニオンに伺った後、がんセンターにもセカンドオピニオンを受けに行きました。

 

がんセンターは想像した通りで、やはり手術はなし、抗がん剤治療を行うとの治療方針を示しました。

 

「何たらがんセンター」と名のつく機関は、典型的な標準治療を行っていますから奇抜な治療方針など取りません。必ず手術や抗がん剤治療がセットとなっています。

 

がんセンターへ行って「放置療法を行ってくれ」と依頼しても、実績がないのでできないのです。

 

しかし放置療法の近藤誠氏と、がんセンターの担当医師を比較してみると、近藤氏の方が医師として患者に真摯に向き合っている印象を持ちました。

 

近藤氏はセカンドオピニオンに加え診察も行いましたが、がんセンターの医師はオピニオンのみで、診察して実際の病状を確認しようとしませんでしたから。

 

放置療法の近藤誠氏は、数々の反対論者を負かしてきた論客だけあって、物事は直截に話します。また患者の自主性を尊重するので、こうしろ、ああしろとは指示しません。

 

近藤氏のセカンドオピニオンは自主性があって、覚悟ができている患者さんでないとキツイかもしれませんね。

 

結局私は近藤氏の放置療法を試すことにしましたが、身内がこの結果に失望したので、以後は妥協できるところは妥協して、彼らの要望は満たすべきだと思っています。

 

身内の要望を忖度せず、自分の希望ばかりを押し通せば、彼らのストレスになってきますから。ただ、治療より「生活の質」(QOL)を維持したいという最低限の要望は墨守したいですね。

 

戦艦山城の烹炊所 
戦艦山城の烹炊所


  

  戦艦霧島の烹炊所に勤務していた海軍兵の日常生活をご紹介しています。


  ヤシの木 ヤシの木     ヤシの木 ヤシの木     ヤシの木 ヤシの木     ヤシの木 ヤシの木

 

 

 「太陽といえば、われわれ主計科は陽にあたることが、ほとんどと言っていいほどなく、したがって、顔色は白く、最下級兵にいたっては、いつも怯えているせいもあってか、青白くさえ見える。

 

上陸しても、主計兵は腕のマークを見るまでもなく、なんとなくわかるほどであった。

 

 艦隊勤務の歌のように、“あかがね色”の肌色には程遠く、弱々しい感じさえする。作業も文字通り“陽のあたらぬ場所”、他科の兵隊より遊びもおとなしい様であった」


  ヤシの木 ヤシの木     ヤシの木 ヤシの木     ヤシの木 ヤシの木     ヤシの木 ヤシの木

 

 

 烹炊班には会計検査というものが1年に1回か2回ありました。検査前になると食糧品の帳尻を合わせるため、倉庫にある余った麦を夜中にこっそり艦から海へ捨てる作業が秘密裏に行われていました。

 

 「初めて『今晩麦をデッコ(捨てる)する』と言われたときは、何のことかわからなかった。残飯は捨て馴れていたが、倉庫にある麻袋入りの生の麦を捨てるとは、どういうことなのだろうと思った。

 

わたしたちの育った年代は、一粒の米も一粒の麦も、もったいないもったいないと教えられ、御飯を一粒こぼしただけでも怒られていたのだから、驚くのも無理はない。

 

それも、いつも残飯をデッコ(捨てること)するスカッパー(ゴミ捨て口)から捨てるのだから気持が悪かった」

 

 「会計検査前になると、麦のデッコは毎晩のように続いた。一晩に2,3袋平均で、状況によって中止されたりしていた。月夜の晩は明る過ぎてできなかった。

 

なにもそんな手間をかけなくても、ドボンと投げ込んだらいいようなものだが、投身自殺者か転落者と勘違いされたりしたら大変なことになる恐れもある」



重巡高雄の烹炊所 

重巡洋艦「高雄」の烹炊所
                    

 

 筆者の海軍烹炊兵が人差し指を怪我した時の出来事です。

 

「人差し指といえば、気の合う同年兵としみじみと語り合ったことがあった。『陸軍は右の人差指を負傷したら除隊できるらしいぞ』とか・・・。『いや・・・陸軍なら人差指は三八銃の引金を引くのに重要だけど、海軍はダメだろう』とか・・・。

 

後で考えたらバカらしいことだが、今にも指を切り落としそうな話を、真面目な顔でやっていたものだ。海軍を、なんとかしてやめる方法はないだろうか。ということから、こんな話になった」

 

「同僚とこんな会話をかわせる時間は、ほとんどと言っていいほどない。たまたま二人で作業を命じられた時ぐらいである。普段は同年兵同士で口をきくことはなかった。みんなスネたようなふくれっ面で、毎日がシラケ切っていた。

 

一般社会からみたら、同じ艦内で生活していて横の連絡がないなんていったら、奇異な感じがするだろうが、軍艦の勤務は、乗組み前の想像にはほど遠く、戦友という感情が芽生える余地がないところであった。

 

なにもかも機械的に動いていて、人も機械も武器も、ただ物理的に作用し合って動いているようだった」

 

このような横の連携がない状況は、烹炊班だけでなく、海軍全体に共通して見られた光景であったとも言われています。また現在の海上自衛隊でも、同じ事情を抱えていると聞いたこともあります。

 


 

『海軍めしたき物語』、高橋猛、新潮文庫、1982

『写真で見る海軍糧食史』藤田昌雄、光人社、2007


ムスカリ 


 ここで『シルバーバーチの霊訓』についての概要を述べておきます。

  シルバーバーチとは霊界でもかなり高い界層出身の高級霊とされ、イギリス人モーリス・バーバーネル(
19021981)を霊媒として約60年間、地上世界や霊界の様相を語ってきました。

 

 シルバーバーチが降霊会で語ったことは「宗教」ではなく、「知識」と言われています。

 

例えば地上世界や霊界には、自然の摂理」と呼ばれる目に見えない法則が存在します。

  「自然の摂理」の中には「氷は
0度で溶ける」などの科学的知識も含まれますが、人間に事実として認知されていない「因果応報」など、未知の道徳的知識もあります。

 

この「自然の摂理」に従って生きれば、より早く、合理的に、人間が目指す究極の目的へと到達できる、というものです。

 

 では人間の「究極の目的」とは何でしょうか?それは自分自身の霊性を高めるこです。霊性を高める手段として、利他的行為(他人に思いやりを持って親切にする行為)や生活の節制が奨励されています。


葉のしずく 

 

 一方で「自然の摂理」に反した行為、つまり利己的な行為などを行ったために、負債を作ってしまう事があります。この負債は「カルマ、又は「因果律」と呼ばれます。

 

 人間は利他的行為によって霊性を高められますが、反面自分が作ったカルマは自分で解消せねばなりません。

  そこでカルマとして、病気、悩み事、トラブルなど、様々なイベントが人生で形を変えて発生します。「自然の摂理」には以上のような、道徳的法則も含まれています。

 

 シルバーバーチは、本来のメインとなる環境は霊界であると述べています。地上世界とは実は、単なる僻地のトレーニングセンターに過ぎません。

 

ですから本来の最も大切な人生の価値観は、地上世界のようにお金持ちになったり、社会的地位を築く事ではなく、自己の霊性を高める事なのです。

 

 ではなぜ人間は僻地にも例えられる地上に誕生するのかというと、一つは霊界ではできない色々な体験を積むためです。

 

例えば霊界では霊性レベルが同じ霊がグループを作って住んでいるため、様々な霊性レベルの霊に会う機会はあまりありません。しかし地上世界では様々な霊性レベルの人間が一緒に住んでいるため、霊界ではできない体験が持てます。


あじさい 

 

人間が地上で生活するもう一つの目的は、先にも挙げましたが自己の前世などで作ったカルマを、地上世界で解消するためです。カルマを除くことにより、一段と霊性の向上が望めます。

 

そして人間はある一定の修業期間が終わると、死という形で地上を去り、霊界へ戻っていきます。霊界は地上より遥かに素晴らしい世界で、一度霊界に戻った人間は二度と地上世界へ戻りたくなくなると言われています。

 

 しかし地上世界でしかできない仕事やトレーニングが存在するため、一個の霊は何度か地上に誕生し、そこで修行を行わねばなりません。地上に繰り返し誕生することは「再生」と呼ばれます。いわゆる「生まれ変わり」、「転生」です。

 

 こうして数回再生した霊は霊性が向上し、もはや再生せずとも霊界での修業だけで事足りる時期が来ます。(再生は何十回、何百回も行われることはありません)

 

こうなると地上での生活は終了し、あとは霊界のみで生活を続けることになります。シルバーバーチもまた、3,000年前に地上生活にピリオドを打った高級霊でした。

 

以上がシルバーバーチの述べた概要ですが、他にも語りきれない部分が数多く残されています。

 

以下のリンクには無料の電子書籍、『シルバーバーチの霊訓』シリーズの一部が置いてありますので、興味のある方はどうぞご一読ください。

 

 

■無料電子書籍『シルバーバーチの霊訓』

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/


シルバーバーチの霊訓〈9〉/潮文社
¥1,296
Amazon.co.jp

 東京には色々な戦争の慰霊施設がありますが、東京都戦没者霊苑は日中・太平洋戦争での東京都の戦没者、16万人余りが祀られています。雨の日に訪問してきました。



東京都戦没者霊苑1  東京都戦没者霊苑の入口。

 

 これが全景です。千鳥ヶ淵ほど大きい施設ではありません。中央奥に「東京都戦没者鎮魂の碑」、左手に休憩所があります。


東京都戦没者霊苑2 

右手に「東京都戦没者鎮魂の碑」があります。この場所は何故か入口にロープが張られ、立ち入り禁止になっているので碑の詳細が確認できませんでした。


東京都戦没者霊苑3  この建物が休憩所で、2階に戦没者の遺品が収められています。


東京都戦没者霊苑4  休憩所2階の遺品展示室。

 

 実はここ、前も真夏の時期に来たことがあるんですが、冷房がありません。あるのかもしれませんが、スイッチ入っていませんでした。

  節約のためだと思いますが、保存という観点から、遺品が傷まないのかなあと心配してしまいます。


東京都戦没者霊苑5  遺族が寄贈した戦没者の軍服。

 

 軍服も保存状態が良い物が多いです。それだけ遺族の方が大切に保管していたことが伺えます。

  展示品は遺族が寄贈した戦没者の遺品、シベリア抑留関係、戦後フィリピンで回収した戦死者の遺留品などがありました。



東京都戦没者霊苑6 

軍隊手帳。


東京都戦没者霊苑7  昭和19年に戦死された方の軍隊手帳の開き。

 

 当時の住所が東京府東京市神田区淡路町となっています。今の秋葉原に淡路町はありますが、「神田区」という区は現在ありません。「東京府」と「東京都」の違いって何なんだろう?


東京都戦没者霊苑8  ええと、他に目を引く展示品は・・・。


東京都戦没者霊苑9 

 1711月千葉に入隊3日後満州に渡る。この写真は182月奉天で写したもの。現在でも、この写真を見るたび親孝行の息子が思い出されて、・・・」

 

 「親孝行の息子が思い出されて・・・」。病気している現在の自分には、ここの所がイタイですね~。(>_<) 思わず写真に見入ってしまいました。


東京都戦没者霊苑10  「シベリア方面墓参団記録写真」(平成4年)

 

 東京都で募集して、シベリアへ墓参したのでしょう。20年以上前なので、写真も色あせてきています。


東京都戦没者霊苑11  レイテ島で戦死された方の遺品のメガネ。

 

 1811月入隊、16日満州に向う。198月近日中に南方に出発するとの便りがあったのが最後でした。191222日の朝夢で会いに来ましたので命日にしています」

 

 夢で別れに来たとか、実際に幽霊となって内地の家族に会いに来たなど、戦時中は心霊的な逸話が数多く残されています。


東京都戦没者霊苑12  軍医が所持していた双眼鏡

 

 「陸軍軍医中尉。46歳で出征。フィリピン、ルソン島南部で戦死(昭和207月)。在郷軍人の軍事教育の際いつも持っていた双眼鏡。出征の際かたみとして家に残して参りました」

 

 46歳で出征するのは、軍医とはいえ大変だったでしょう。戦時中は軍医が足りず、医者が大量に粗製濫造されたとも聞いています。それが戦後の医療にも影響したとも・・・。

 

 こちらの施設には夕方頃訪れましたが、展示品を見学中も誰も来ない静かな場所でした。繁華街の真ん中なんですけどね。


東京都戦没者霊苑13 

シビックセンター

 

近隣には文京区の区役所「シビックセンター」があり、25階の展望台は無料となっています。


烹炊班 


海軍の記録というと、組織の中でも花形であった兵科がメインとなっているため、地味な衣糧・会計を管理する主計科などの話はなかなかお目にかかれません。

 

回顧録一つとっても、海軍の兵科至上主義が垣間見えて興味深い所です。そんな当時の海軍組織の有様を踏まえ、烹炊班に所属していた海軍主計兵の日常を取り上げます。


   沖縄の海        沖縄の海        沖縄の海        沖縄の海

 

 

「主計科というのは経理と衣糧に別れていて、経理は庶務と給与(会計)で、衣糧は文字通り被服の管理事務や食糧の管理をつかさどるとなっているのだが、両方共事務にたずさわるにはそれ相当の学校を出ていなければならない仕組になっているのだ。

 

私達の徴兵された主計兵というのは、衣糧の方に属し、その中の糧の方は烹炊(ほうすい)作業、つまり“めしたき兵”だったのである。

 

私が前掛け(エプロン)をつけさせられたときはガックリした。東京駅で見た主計兵のイメージは完全に崩れ世の中の厳しさを感じたことであった」

 

 

 筆者は以前、東京駅でイケメンの水兵服を着た海軍主計兵を見て憧れていたのですが、職務内容を知らずに佐世保海兵団に入団したのち、主計科の現実を思い知らされて失望したようです。


    沖縄の海        沖縄の海        沖縄の海        沖縄の海

 

 

「♪主計兵が兵隊ならばトンボ蝶々も鳥のうち

 

 と歌われているにいたっては尚のことである。海軍内では兵科や機関科は兵隊さんだったが、主計科と衛生科(看護兵)は一段下に見られていたのである。

 

栄養学から調理術まで学科は専門的なものばかりで、その気になれば立派な調理師にもなれるものだったが、出鼻をくじかれて、やる気を失っていた私は、殴られない程度に学習していたのが私の海兵団生活だった。

 

主計科といえども海軍軍人には違いない。他科と同じように軍事訓練は一通りうける。むしろ、他科にバカにされるな!ということで分隊(軍事)訓練は厳しかったようである」

 

 

海軍では、まず兵科将校が最優先の指揮権を握っていました。次が機関科将校、主計科士官の指揮権はそのまた下に置かれていましたから、その指揮権の威光振りが職務にも反映されていたのでしょう。

 一方米軍では「どの部署にもそれぞれの役割がある」という意識で、帝国海軍のように職務による差別意識は見られなかったようです。


    沖縄の海        沖縄の海        沖縄の海        沖縄の海

 

 

 1941(昭和16)年128日、主計兵で烹炊班勤務の筆者は戦艦霧島にて、真珠湾攻撃に参加していました。しかし汚れた前掛けのまま、甲板上で出撃機へ「帽振れ」をするにはためらいがありました。

 

 

 「『総員見送り』のときは、払暁の海に零式艦戦の編隊が、機動部隊の上空で銀翼を紅に染めながら旋回し、見送りに応えていたに違いない。

 

 私達主計兵も総員のうちには違いないが、晴れがましい壮途を見送るにはふさわしいとはいえないのである。まさか前掛け姿で、めししゃもじを振るわけにはいかないではないか。

 

旧兵達も『行って来い』とも言わないし、みんなも行く気もないらしかった。そんな暇があるか・・・といった顔付きである」

 

 

『海軍めしたき物語』、高橋猛、新潮文庫、1982