マレー沖海戦72年。沈めた敵艦に捧げた「戦士の花束」 | 写真家・ノンフィクション作家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ ※禁無断転載

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12月10日は、大東亜戦争劈頭のマレー沖海戦で、日本海軍航空部隊が、英国東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈した「マレー沖海戦」(昭和16年)の日である。72年前のこと。

私はこの戦いに参加した元陸上攻撃機搭乗員の幾人かにお会いしたが、もっともご縁が深かったのが、鹿屋海軍航空隊分隊長だった壹岐春記さんだった。私の敬愛する志賀淑雄さんと同期の海兵62期、二年前、99歳で亡くなられた。拙著『戦士の肖像』(文春文庫)にもご登場いただいた。

毎年、この日になると壹岐さんを思い出す。


以下は一昨年、壹岐さんが亡くなられたときの記事を再録する。


 


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 残念なお知らせが。
 拙著『戦士の肖像』(文春文庫)にもご登場いただいた、元海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐(戦後、航空自衛隊一等空佐)が、10月8日にお亡くなりになっていたと、奥様からお知らせいただいた。享年99。

 壹岐さんは明治45年、鹿児島県生まれ。満100歳の誕生日を目前に控えていた。

 
 (写真は昭和18年、九六陸攻の機内で)

 壹岐さんは、私が敬愛する戦闘機の志賀淑雄少佐と同期の海兵62期出身で、志賀さんと技術短現一期の風見博太郎造兵大尉(中島飛行機エンジン技術者、戦後日産プリンス大阪販売社長)とに御紹介いただいて、銀座でまだビルが建て替えられる前の交詢社でお目にかかったのが最初であった。16年前のこと。

 その後も、二ヵ月に一度の交詢社ネイビー会には数年前までご参加になり、お会いする機会は多かったし、早稲田のご自宅にお邪魔したこともあった。確か5年ほど前までは、電動自転車に自らまたがって、早稲田から原宿の東郷神社にも通っておられた。いつもニコニコと人に接し、会合などでは端然と座っているだけで一座の「華」になる、まさに将たる器を感じさせる人だった。


 壹岐さんは、支那事変での戦功により、尉官(大尉、中尉、少尉)としては異例の功四級金鵄勲章を授与されている(通常は功五級、昭和15年4月29日を最後に、生存者への金鵄勲章授与は行われなかった)。海軍の尉官で、昭和の戦争で生きながらにして功四級を授与されたのは、戦闘機の鈴木實大尉、兼子正大尉、陸攻の足立次郎大尉(以上、海兵60期)、そして壹岐大尉の4名だけである。


 しかし何よりも壹岐さんの名を歴史に刻んだのは、航空機が航行中の敵主力艦(英海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」)を初めて撃沈した「マレー沖海戦」だろう。

 70年前、真珠湾攻撃から二日後の昭和16年12月10日のことである。鹿屋空第三中隊長として一式陸攻に搭乗、仏印(ベトナム)ツドーム基地を出撃した壹岐大尉は、猛烈な対空砲火を冒して「レパルス」に魚雷を命中させた。

 「雷撃高度は30メートル。距離700メートルまで肉薄して、魚雷を投下しました。そして『レパルス』の左舷(ひだりげん)から、機銃を撃ちまくりながらいっぱいに左旋回して回避、全速で高度をとりました。『レパルス』の甲板上で、雨衣を着た兵隊が伏せているのが見えました。そのうちに偵察員・前川保一飛曹が、『当りました!』と機内に響くような歓声を上げ、続いて『また当りました!』と大声を張り上げました。しかし次の瞬間、私の二番機が真赤な焔に包まれて『レパルス』の左舷正横300メートルの海面に墜ち、間もなく三番機が、その50メートルほど左に墜ちるのが見えました」

 「レパルス」は、雷撃開始からわずか10数分で沈み、「プリンス・オブ・ウェールズ」も、約1時間後、退艦を肯じない英国東洋艦隊司令長官・フィリップス提督を乗せたまま海中に消えた。両艦あわせて840名の英軍将兵が艦と運命をともにした。日本側の損害は被撃墜三機、戦死21名、多数機が被弾し、壹岐大尉のK-331号機の被弾も17発を数えた。

 壹岐さんの航空記録には、この日の飛行時間、10時間45分とある。これだけ飛んでなお、乗機の燃料には余裕があったという。

 


 マレー沖海戦から8日後の12月18日、鹿屋空はアナンバス島シアンタン電信所爆撃を命じられた。途中、英戦艦二隻を沈めた現場の上空を通るから、壹岐は前川一飛曹に、基地近くの花屋で花束を二つ買ってこさせた。

 「その日は波も穏やかで、沈んでいる艦影が黒くはっきり見えました。はじめに『レパルス』の近くに、戦死した部下、戦友の冥福を祈って花束を投下、さらに『プリンス・オブ・ウェールズ』の上空から花束を落し、イギリス海軍の将兵の霊に対して敬礼しました」

 この慰霊飛行は新聞にも報道され、武士道精神あふれる戦場美談として内外に知られることになった。戦時中のわずかな期間だったが、国民学校の修身の教科書にもこのエピソードが紹介されている。
 しかし、こうやって「美談の主」に祭り上げられることは壹岐さんの本意ではなく、戦後、そのことを人に訊ねられても、「誉めてもらおうと思ってやったことではありません」と、多くを語らないのが常であった。
 これは、戦を知り抜いた戦士として、己の任務を果たして斃れた戦士に対する哀悼の念の、ごく自然な表現だったのだ。そこには敵味方を超えた何かがあったに違いない――。



 
 (昭和19年暮、攻撃第四〇六飛行隊長の壹岐少佐)

 壹岐さんは昭和19年10月には陸上爆撃機「銀河」で編制された攻撃第四〇五飛行隊長としてフィリピンでの航空作戦に参加、10月24日の航空総攻撃の日は、シブヤン海上空で、戦艦「武蔵」とおぼしき巨大戦艦が米軍機の攻撃によってまさに沈まんとするところを目撃している。11月には攻撃第四〇六飛行隊長となり、なおも幾度かの死線を越えて、霞ヶ浦基地で本土決戦の準備中に終戦を迎えた。

 何度も乗機が被弾しながら、壹岐さんの飛行機では一人の戦死者も、負傷者も出さなかった。


 壹岐さんは言う。
 「戦争は二度とやっちゃいけない。戦争の悲劇を身をもって体験した世代として、若い皆さんに言っておきたいのは、いまのような平和な世の中を保っていくためにはどうすればいいのかという問題を研究して、戦争を起こさないための方策なり、技術を考えていただきたいということです。
 私は戦争をしませんよ、と言って、どこからも仕掛けられなければそれに越したことはありませんが、もしやられたらどうするか、どんな形で守れるか。平和憲法はすばらしいが、本当にそれだけで済むのか。それを研究して、現実に即して戦争を避ける努力をしてほしいと思います」

 明治、大正、昭和、平成、四代の世を生き抜き、命を賭して戦った先人からの、世紀を超えた遺言である。





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