【消えた偉人・物語】乃木希典
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110813/art11081307360003-n1.htm
「サムライたる乃木希典(のぎ・まれすけ)のような軍人になれ」。ダグラス・マッカーサーは、父アーサーからそう教育されて育った。アーサーは、水師営(すいしえい)の会見で、ロシアのステッセル将軍に心遣いを見せた乃木の振る舞いを知ってその高潔な人柄に感銘を受けていた。
また、若き日のマッカーサーも日露戦争後に乃木に直接会っている。後にマッカーサーは、乃木の人間としての「風格」と軍人としての高潔さに触れた感動を吉田茂に語っている。
乃木希典(1849~1912年)は国定教科書でも数多く取り上げられた。国語教科書では「水師営の会見」が掲載され、「旅順開城約(かいじょうやく)なりて」で始まる唱歌「水師営の会見」は全国の小学校で歌われた。
一方、国定修身教科書では、乃木の人となりに焦点が当てられた。
「難攻不落の旅順を攻めた時は、自ら戦線に出て弾雨の下に立ち、真心をこめて部下をはげまし、かつ陣中では起居・飲食を共にして部下をいたはりました。(中略)やがて大将が東京に凱旋(がいせん)したので、幾万の群衆は旗を振り万歳を唱へて、これを歓迎しました。ところが、大将は、『無事で帰っては相すまぬ』とでも言ひたげな面持(おももち)で一々答禮(とうれい)しましたが、其の様子は深く群衆の胸をうちました」
1960年代、「乃木無能論」が世に広まっていった。これに対しては福田恆存らが、資料的な根拠を示して反論しているが、乃木自身が多くの将兵を失ったことに強い自責の念を感じていたことは確かである。
また乃木は、貧窮者や軍人の遺族に対する援助を惜しまず、腕を失った傷病軍人のためには義手を考案し、自費で配っている。その礼状に乃木は涙を流して喜んだといわれる。
乃木にとって、指揮官としての徳義とは、死を賭して戦う将兵たちに最大限の礼節を尽くすことであった。指揮官には清廉さと誠実さが求められ、何より有徳であろうとした乃木は、そのための努力を自らに厳しく課し、それを貫いた。
旧乃木邸(東京・乃木坂)の庭には、マッカーサーが自ら植えたハナミズキと水師営から移植したナツメがあり、偉大な軍人の高潔な精神と哀(かな)しみを静かに伝えている。
(武蔵野大学教授・貝塚茂樹)
旧乃木邸(東京・乃木坂)
