【from Editor】
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110810/art11081007240003-n1.htm
今年は辛亥革命の勃発から100年に当たる。1911年10月10日、湖北省武昌で上がった清朝打倒の狼煙(のろし)は各地に広がり、翌12年、孫文を指導者とするアジア初の共和国、中華民国が誕生した。
本紙でも連載企画「孫文の志 未(いま)だ成らず 辛亥革命100年」を、7月18日付から毎週月曜日の国際面に掲載している。その第2回(同25日付)で「辛亥革命と日本とのつながり」をテーマに取り上げたのが、西郷四郎だった。
小説「姿三四郎」のモデルとされる柔道家として有名だが、実は、辛亥革命の様子を現地から書き送った新聞記者でもあった。掲載後、「戦場特派員」西郷四郎についてもっと知りたいとの声が寄せられたので少し紹介したい。
長崎の地方紙、東洋日の出新聞に籍を置いていた四郎は革命勃発時45歳。「山嵐」の得意技で知られた希代の柔道家のイメージからは想像もできないが、当時、持病のリウマチを抱え、体力的に「大丈夫か」という懸念の声さえ社内で上がる中での渡航だった。
家族には「国内旅行」と嘘をつき、四郎は11年10月19日、上海行きの船に飛び乗った。漢口、武昌から長沙に足を延ばし、革命軍の大物とのインタビューにも成功するなど、12月10日までの約50日間に書いた記事は16本。社内の不安をよそに精力的に取材を行った。
四郎の記事を読んでいて、おやっと思ったのが、革命を戊辰戦争になぞらえたくだりがあったことだ。四郎は、朝敵となった会津藩の出身である。
「…現在当武漢に於ける両軍の気配より察するに、維新当時薩土の兵が奥羽街道より吾が会津に攻め寄せんとする時、吾会軍之を白河城に防戦し…対陣三ケ月余の久しきに亘る…武漢両軍も…百日対陣の二の舞を演ずるに至らざるや…」(11月20日付)
この時点では、清朝の軍隊の方が官軍で、革命軍は賊軍だった。戊辰戦争の際は「薩土の兵」(薩摩藩と土佐藩の軍)が官軍であり、会津藩は革命軍と同じ賊軍である。四郎に革命軍寄りの記事が多いのも当然といえるだろう。
記事の署名も、示唆に富む。当初は「西郷四郎」なのに、11月27日付から「西郷北洲」に変わっている。薩摩藩を率いた西郷隆盛の号(南洲)を意識しての命名なのは間違いない。革命支援者で、飲み友達だった宮崎滔天(とうてん)から「西郷武士道」と呼ばれていた四郎。取材中、どんな心境の変化があったのだろうか。興味は尽きない。
(副編集長 藤本欣也)