【決断の日本史】(80)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110705/art11070507220002-n1.htm
日本を救う因果応報の知恵
『日本霊異記(りょういき)』といってピンと来ない人も、「雷を捕らえた小子部栖軽(ちいさこべのすがる)」のエピソードや、助けられた蟹(かに)や亀が恩返しをする報恩譚(たん)なら聞いたことがあるだろう。因果応報を説いた、わが国最古の仏教説話集である。
編者は平安時代初期の奈良・薬師寺の僧、景戒(きょうかい)。3巻からなり、関東から九州までを舞台にした116話が収録されている。そして序文などには、編纂(へんさん)のいきさつも記されている。
「ああ恥ずかしいことよ(中略)因果応報の原理のままに、愛欲の網にかかり、迷いの心にひかれて、生死(しょうじ)の道をたどり、生活のために四方八方に奔走して、生きたこの身を焼き苦しめている」(小学館版新編日本古典文学全集、中田祝夫訳)
延暦6(787)年9月4日、景戒はこのような嘆きをもらす。妻子をもち、自分の寺(私堂)も設けているが生活は苦しく、心も行いも卑しいと自らを恥じるのである。
景戒の素性は、はっきりしない。『続日本紀(しょくにほんぎ)』などの史料には登場しないからだ。国家が公認した僧ではなく、社会事業に尽力した行基のような民間の僧(私度(しど)僧)だったようだ。
彼が生きた時代は飢饉(ききん)や流行病が慢性化し、政治は乱れ蝦夷(えみし)との戦争や平安京の建設などが民衆への重い負担となっていた。私度僧にはその救済の使命が課せられていたのである。
バックボーンは仏教の、とりわけ因果応報の教えだった。「善い種をまけば善い結果が得られる」という平易な教義は人々の行動を律する規範となった。景戒はこの知恵を伝えるため『霊異記』を編纂したのだった。
仏教伝来から約250年。日本仏教はすでに大きな果実を実らせていた。霊異記は1200年にわたって読み継がれ、古代の庶民の心情と行動を生き生きと伝えている。
(渡部裕明)