潘璋 ~三国志DQN四天王 其ノ一~ | ~ Literacy Bar ~

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ここはイマイチ社会性のない自称・のんぽりマスターの管理人が、
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※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。


テーマ:

『戦国DQN四天王』とは、現代どころか、当時の価値観から考えても異常・常識外・ナンセンスな言動で世間を騒がせた、

『北の独眼竜・伊達政宗』

『東の鬼武蔵・森長可』

『西の三斎・細川忠興』

『南の悪久・島津忠恒』

の総称である。

詳しく知りたい方はアンサイクロペディアか、2ちゃんねるの『戦国ちょっといい話・悪い話』スレをご覧頂きたい。我々の想像を遥かに超えた戦国の実態が判る筈である。

過日、私は二十年来の腐れ縁であるY氏に『ブログの歴史人物紹介のネタに心当たりがないか』と尋ねた際、彼から『中国版のDQN四天王でも書いてみたらどうだとの助言を頂いた。成程、面白そうだと思った私は早速、史料を漁りはじめたが、久々に中国史を紐解いてみて、自分の甘さを再認識させられた。中国の歴史は善悪のスケールが日本とは比較にならないほどデカいのである。2ちゃんねるでは『ラスボス』と懼れられている虐殺魔・豊臣秀吉ですら可愛く見える連中がゴロゴロいるのだ(特に南北朝と明代はヤバ過ぎる)。ある意味、DQNという呼称が馴染む程度の存在を探すほうが難しい。敢えて選出するとすれば、ラスボス=明の朱元璋、DQN1号=前漢の陳湯であろうが、他の面子を確定させるのは殆ど不可能である。そこで、中国全史ではなく、ひとつの時代に照準を絞ることにした。歴史に馴染みのない方にも判りやすく、また、史料の多さを鑑みると三国時代が適当であろうと思う。ベタな選択になってしまったが、御容赦戴きたい。だいたい、三国時代だけに絞っても、DQNやラスボス級の連中が多過ぎるのだ(特に孫呉)



三国志DQN四天王の第一号に選んだのは潘璋である。

潘璋、字は文珪。

『DQNの巣窟』ともいうべき孫呉の中でも、甘寧と並ぶGOROTSUKIの双璧である。じゃあ、甘寧でもいいじゃんといわれそうであるが、三国時代というベタな選択をした以上、せめて、取りあげる奴は知名度も人気も低いほうにしたい。


 雌伏編


潘璋は貧家の出自であったが、そのことを気にする風もなく、粗暴な振る舞いで周囲をビビらせたり、金銭もないのに酒屋に入り浸ったりと、若いころから見事なGOROTSUKIぶりを発揮していた。金銭がないから酒代はツケである。しかし、酒屋の掛取(集金係)からツケの支払いを求められた潘璋は、

「俺が何時、金銭を払わなかった? 永久にツケておくだけだぞ!」

と完璧なるジャイアニズムで借金をウヤムヤにしようとしたのである。GOROTSUKIの潘璋に逆らえば、冗談抜きで生命が危ない。結局、掛取は『出世払い』という、事実上の債権破棄に等しい契約で泣き寝入りするしかなかった。ちなみに潘璋は呉の右将軍という顕職にまで出世するのだが、この時のツケを返済したという記録は見つかっていない。

さて、時は大乱世である。(戦場で)極めて多くの人数を殺傷した』とわざわざ史書に記されるほど人殺しが大好きな潘璋は、兵士になれば人を殺して金銭を貰えるという、まさにDQN極まる発想に思い至ると、早速、地元の県長の処に押し掛けて、自分を雇ってくれるように直談判した。周りの役人たちは、

(こんなGOROTSUKIを雇う馬鹿が何処にいるんだよ)

と思っていたが、何と県長は潘璋のことを一目で気に入ったようで、このGOROTSUKIに募兵の仕事を与えたのである。その県長こそ、若き日の孫権であった。ビジネス向けの歴史書の読み過ぎで、孫権を『守勢の名君』『理想の三代目』などと思い込んでいる方には何故、孫権が潘璋のようなGOROTSUKIを取りたてたか判らないであろうが、理由は明快である。孫権も真性のGOROTSUKIDQNであったからだ。孫権の決定に翻意を促すため、自宅に籠った家臣の屋敷に手ずから火を放ったり、一国の主でありながら、ホイホイと虎狩りに出掛けて、逆に虎の餌食になりかけたり、あまりにキレやすい性格と酒癖の悪さから、

「孫権が酔っ払っている時に出した死刑命令には取りあわないように」

という布告が発せられたり、昔、自分を裏切った奴が司馬懿に討伐されると聞くと、

「オマエ、仲達に生命を狙われているんだって? まぁ、どうしてもっていうなら、援軍を出してやってもいいけど、まず、助からないだろうよ(藁)」

とわざわざ手紙を送りつけるなど、公人としては兎も角、私人としての孫権は間違いなく、筋金入りのGOROTSUKIDQNである。孫権が潘璋を取りたてたのも、彼の中に自分と同じ匂いを嗅ぎつけたからであろう。類は友を呼ぶのである。


 出世編


こうして、孫権に登用された潘璋は募兵に応じた百名余の指揮官に就任すると、山越(中国南東部の異民族の総称)討伐を命じられる。山越討伐は孫呉軍に取りたてられた新米将校が、その力量を試される場であり、また、中原に比べて人口に劣る孫呉が貴重な労働資源を獲得する人狩り(マンハント)の場でもあった。まさにGOROTSUKI国家である。生来のGOROTSUKIで人殺しが大好きな潘璋は孫呉の統治に逆らう(勿論、孫呉側の視点である)山越族を、戦場ではSATSUGAI&戦場の外ではNADEGIRIにして反乱を鎮圧。その功績で別部司馬に昇進した。

さらに、潘璋が蘇州の中央市場の刺(取締官)を命じられると、市場での傷害・強盗事件の類はピタリとやんだ。潘璋は徹底した厳罰主義とGOROTSUKI時代に培った裏世界の人脈を駆使して、犯罪組織を一網打尽にしたらしい。その実績を買われた潘璋は、孫呉の仇敵である劉表がチョッカイをかけてくる西安県や建昌県の治安維持を一任されるが、ここでも孫呉首脳陣の期待に応えた。潘璋が着任して以降、劉表配下のGOROTSUKIどもが侵攻してくることはなくなったのである……と書くと潘璋は武勇だけでなく、民政にも優れた手腕を有した名将のように思えるが、勿論、現実は異なる。潘璋の厳罰主義には唯一人の例外が存在した。他ならぬ潘璋本人である。潘璋は他人に厳しい法令を遵守させる一方で、自分は相手が商人であろうが、役人であろうが、貴族であろうが裕福な奴を見つけると、

「おまえのものは俺のもの、俺のものも俺のもの」

という相変わらずのジャイアニズムで財貨を捲きあげようとしたのである。殆どの被害者たちはGOROTSUKIの潘璋に逆らう愚かしさを悟って、自ら財産を差し出したが、中には毅然と(或いは無謀にも)潘璋の強訴を撥ね退ける人もいた。しかし、

「欲しいものは(力ずくで)手に入れるのが俺のやり方さ」

というのが潘璋の哲学である。潘璋は要求を断った連中を片っ端から、

斬った。

そして、その財産をポッポナイナイしたのである。当然、この騒ぎは主君である孫権の耳にも届いたが、同じGOROTSUKI気質の孫権が潘璋を咎める筈もなく、

「潘文珪(潘璋)のすることだし、しゃあない」

の一言で不問に付したという。誰か、この主従を何とかしろ。


 絶頂編


尤も、孫権も同じGOROTSUKI気質だからという理由だけで潘璋を寵用していたわけではない。潘璋は戦争には滅法強かったのである。彼の率いる軍勢は常に数千人程度であったが、その戦力は優に一万の兵に匹敵したという。また、知略に優れるという意外な一面もあった。魏の曹真と夏侯尚の軍勢が呉の領土を侵した際に、浮橋を拵えて渡河作戦を図ったことがある。この時の孫呉軍の指揮官は諸葛亮の兄として有名な諸葛瑾であった。外交官と宮廷顧問と驢馬の顔真似に関しては得難い資質を有していた諸葛瑾であるが、弟以上に戦場での臨機応変の才能には恵まれていなかった。次々と渡河してくる魏軍にオロオロするだけの諸葛瑾を見た潘璋は、

「驢馬なんて戦場じゃ役にたたねぇ」

と独断専行を決意。別動部隊を率いて上流五十里の地点に布陣した。そして、筏に積んだ葦に火をつけて下流へ流すことで、浮橋もろとも魏軍を焼き払おうとしたのである。潘璋の作戦に気づいた曹真と夏侯尚は撤兵を余儀なくされた。

しかし、戦上手で知略に優れていようとも、所詮はGOROTSUKIである。潘璋は敵から憎悪されるだけでなく、味方からも忌避される存在であった。何しろ、腕っ節は強く、悪知恵が働くうえに主君の覚えもめでたいのだから、多少のオイタは不問に付されてしまうのである。その好例が合肥の戦いであった。

この戦いで魏の名将・張遼は十万の孫呉軍に僅か八百騎で急襲をかけた。不意を衝かれた孫権の本陣はズタボロに斬り裂かれてしまう。逃げまどう孫呉軍とそれを追う魏軍。そこに颯爽と駆けつけた潘璋は馬を横ざまに乗り入れるや、忽ち、二人の兵を斬り捨てた。

味方の兵をである。

余りの事態に茫然となる兵卒たちに向けて、血塗られたダンビラをチラつかせた潘璋は、

「張遼と戦って殺される確率は99%。逃げようとして俺に斬られる確率は100%。どちらか好きなほうを選べ。まぁ、俺は敵でも味方でも人を殺せればそれでいいんだ」

と人喰い虎を思わせる凄絶な笑みを浮かべた。かくして、僅か1%の生存率に賭けた哀れな兵卒たちは次々と張遼に殺されにいった。その隙に辛うじて虎口を脱した孫権は、潘璋を『崩れかけた味方の戦線を回復させた』として偏将軍に任じた。如何に戦場における兵卒の生殺与奪権を握る指揮官とはいえ、味方を、それも他の武将の指揮下にある兵卒を斬った功績で昇進するなど殆ど先例がない。この戦いで生命を捨ててまで孫権を守った陳武や、斬られた兵卒たちの上司である宋謙や徐盛こそ、いい面の皮である。何処までも潘璋にはダダ甘の孫権であった。

ちなみに潘璋は対魏のみならず、対蜀漢の戦いでも大戦果を挙げている。樊城の戦いから敗走中の関羽を捕えたのも、夷陵の戦いで馮習を斬ったのも潘璋の部隊だ。ただし、よく調べてみると、それらの功績をあげたのは潘璋の『部下』で潘璋本人ではない。部下たちが必死で敵将と対峙している間、潘璋は何をしていたのか。恐らく、先述の記載のように『極めて多くの人数を殺傷する』のに夢中であったと思われる。そのくせ、潘璋は関羽を捕縛した功績で振威将軍に、馮習を討ち取った功績で平北将軍に任じられている。

「部下の功績は俺の功績、俺の功績も俺の功績」

とでもいうつもりであろうか。何処までもジャイアニズムを貫く奴である。そんな潘璋に毎回、褒美を与える孫権も孫権だ。ホントに誰か、この主従を何とかしろ。


 残照


潘璋と共に孫呉のGOROTSUKIの双璧と謳われた甘寧が死ぬと、孫権は甘寧の軍を潘璋の軍に編入させた。潘璋の軍と同じく、甘寧の軍もGOROTSUKIの巣窟であり、これを統率できるのは潘璋しかいないと思ったのであろう。この点では孫権の人事考察能力は確かであった。甘寧軍を併呑した潘璋は更なる功績と、それに比例するだけの殺戮を成し遂げただけでなく、丁奉という潘璋に劣らないGOROTSUKIDQNな武将の育成に貢献した。類は友を呼ぶのである。大事なことだから二回いいました。

呉の嘉禾三年(二百三十四年)潘璋は死去する。潘璋の息子の潘平は素行不良を咎められて、会稽郡(現在の紹興市付近)に追放されたが、この父親以上の悪業なんて、やろうと思っても出来るものではない。念願の皇帝の座に就き、口喧しい目付役の張昭も死んで、GOROTSUKIDQNの本性を露にするようになった孫権が潘家の財産を没収するために濡れ衣を着せたのであろう。まぁ、因果応報としかいいようがないよネ♪



以上の記事は七割の史実と二割の編集(主に時系列)、そして、一割の推測で構成されている。基本、史実主義の私にしては手を加えたほうであるが、それでも『三国志演義』よりは遥かに実情に近い記述を心がけた。残るDQN四天王は三名。とりあえず、魏の何晏は確定である。折角だから、魏・呉・蜀・その他の勢力から一人ずつ選んでみたいが、今回、落選した甘寧も捨てるには惜しい人材である。他の時代にも書きたい題材があるので、気を長くしてお待ち頂けるとありがたい。また、

「三国志のDQNならコイツがいるだろ(怒)!」

という御指南・ツッコミも大歓迎です。

ここまでお読み頂きまして、本当にありがとうございました。

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