安倍首相や舛添東京都知事や米軍軍属に関する事柄が盛んに報道されている昨今であるが、いずれも、物・カネ・愛欲・地位・名誉・戦いと言う、人間世界ではごく日常的、常識的な事象であり、どうということは無く、全く問題ではないし、また、問題にもされてはいまい。只、生き物人間か餓鬼かと言う存在としての営みなのであり、「これが人間・人の世と言うものだ」と言う認識であろう。
だから、同じことを性懲りも無く繰り返すのである。今は標題の三者がメディアの営業材料にされていると言うだけのことである。
 と言えば、当然、反発はあろう。
確かに、「世間虚仮」としての常識的な虚妄分別としては、三人とも差異はある。善悪もあろう。が、その分別はどこまでも、そう分別する人の自我中心的な虚妄分別でなのであり、只の迷妄でしかない。
それは世間虚仮としての分別であるから、この世の真実・真理・自然には全く通用しない。だから、同じことが永遠に繰り返されるのである。
常識的に言えば、この中での一番の大罪は言うまでも無く、安倍総理の集団的自衛権の行使であろう。即ち、国を戦争へ導く大罪である。が、これが大罪どころか、大きな功績とされかねないのが人間の常識である。真の問題は見えてさえいないのである。
問題にされていないとは、虚仮なる決まりごととして、かたち通りには問題にされていても、まともに問題にされているわけでは無いと言うことである。
 これには二つの意味がある。
 一つには、関係者が本音と建前の使い分けで処理をしているだけだと言うことであり、もう一つは、国民(有権者)が他人事のように、「安倍首相は、」、「舛添都知事は」、「米軍基地は」と言っているだけで、自分のこととしては問題にすることは無いと言うことである。
 それが世俗的に殊更に問題にされているのは、メディアによるビジネスとしてだけである。
 だから、知ったらおしまいで、さて、次のネタはである。
 だから、当然のこととしてまた、次なる事件が生じ、同じことが繰り返される。
 そして我執煩悩主義の世界では、人間世界での愚かしさや、悲惨な事件が止むことは無いので、ニュースの材料には事欠かない。
人間が、生き物人間か餓鬼であることを是認しているか、「これが人間世界というものだ。しょうがないよなぁー」で済ませており、問題にはされてはいない。
即ち、この世の真実・真理・自然の道を生きる真人間であろう(仏の道を生きよう)と言う者はいないに等しいから、不祥事は際限なく起こる。
それが自分にとって損か得か、どうすれば得に成り、損をしないか、これだけである。そこで利害が無ければ他人事であり、利害が絡めば喜怒哀楽し、そして喜も、楽も迷いであるから、次の怒り、争い、戦いを引き起こすだけと成り、決して、「生き物の一種」から出ることは無い。
 だが、それでいいのである。
 いうなれば、「どんぐり社会」なのである。何でもありはしない。数か月もすれば、「そう言えば、そんなこともあったなー」と成る。
 
「人間は生き物だ。仏教とか真実・真理とか言っていても飯は食えん。物、カネ、愛欲、地位、名誉等々を戦い、幸せを自分で勝ち取るのが人間の基本的、常識的な生き方だ」と言うのが、事実上の「基本的人権」であり、「自由・民主主義」だからであり、それが大いに推奨され、厚く保護され、それが思い思いに実践されているだけである。
言い換えれば、「人間が、生き物・餓鬼として生きるのは当然の基本的人権だ」と言うことが忠実に実行されていると言うことである。だから、そこでは真の問題は成り立ち様が無い。
集団的自衛権の行使で物・カネ・戦争の道を広げる安倍首相も、舛添知事のカネの遣い方も、米軍属の性欲も、みな同じ、「人間と言う生き物か餓鬼」としての在り方なのであり、基本的人権による自由民主主義の路線上のことなのである。極めて常識的な道なのではあるまいか。
 だから、常識的な愚問・愚答がされて、それが報道され、みんなが知って、ニュースとしての価値が無く成ったら、これにて一件落着である。
 
 米軍軍属による事件には心が痛むが、これも「厳重抗議はした」、「心から詫び、再発防止を表明した」と言うことで完結し、忘れ去られる。
 「沖縄の基地は、どうすれば解消出来るのか」、「本当に、戦争の準備をしなければならないのか」、「平和への道にどうして進めないのか」、「そもそも、戦争をする人間とは一体何なのか」、「自分はどうか」と言うことが問題にされることは無い。
どんな事件でも、飯を食うための材料にされているだけであって、この命・人生をどう生きるべきなのか、その道は何かと言う、真人間としての問題は、考えつきもしない。これが自由・民主主義の実態である。
独自の宗教、哲学、思想を持っている者は別として、一般的には、自分自身のことは問題にせず、相手やまわりや政治・社会のことを批判し、文句を言い、愚痴るのが自由民主主義であり、言論の自由だと言うのが常識であるから、これは当然、大衆の支持を受ける。
 だから、「自我中心的自由民主主義」は長持ちするであろう。だから、迷妄・苦悩・地獄世界も続く。
 だが、専制主義であれ、自由民主主義であれ、人間がこの世の真実・真理・自然に対して無知・無明・愚痴であることは、生き物の一種である人間としては当然のことであるから(?)、それはそれでいいと言う他は無いであろう。
 だから、当然のこととしてまた悲惨な事件が起こり、同じことが繰り返される。
 これが人類の歴史である。
だから、「世間虚仮・唯仏是真」と言うことが絶対的真実と成る。
 
もし、そのような「世間虚仮」の生き物人間の世界を本気でどうにかしたいと思うなら、それは「安倍首相が」、「舛添知事が」、「米軍属が(沖縄の基地が)」では無く、「人間(自分)が人間であること(真人間・仏であろうとはしないこと)」こそが問題にされなければならないのである。
 だが、生き物人間にはそれは容易では無いし、また、まともな問題の設定をしようものなら、「それは宗教だ!」と成って問答無用で没にされ、おまけに嘲笑されかねないと言うのが、基本的人権の保障による無知・無明・愚痴な「自由・民主主義社会」の実態でもある。
 
自由・民主主義とは、「集団的自衛権は戦争の道か平和の道か」、「戦場で味方が危ない時、どこで手を貸すのが集団的自衛権なのか」、「敵の船が十隻で味方の船が七隻だったら、三隻応援を出すのが集団的自衛権で、それ以上は参戦だ」などと言う様な愚かしい論議をしたり、別荘に通って仕事をするのは公務か保養か、海外視察の経費はいくらが妥当なのか等に目くじらを立てたり、「沖縄に基地が集中しているのが問題なのだ」と言う様な、全くの枝葉末節しか見ない「無明主義」なのである。
 木の葉の一枚は、風が吹く度にこすれ合う隣近所の木の葉のことしか問題に出来ないのでそう言うことに成るのではあろう。
 が、それでは、死ぬまで風の吹きよう(因縁・縁起)に翻弄されることに成る。
 
 人間ならば、地球の自転公転も、お天気も、人間の心も、為替も、株も、景気も、政治もみな同じ因縁・縁起と言う真理に基づく「何でも無い事象だ」と言うことを承知すべきだと思うのだが、その道を求めないばかりでなく、何と、その様な真実・真理・自然は宗教だから、民主主義社会では公には御法度だと言うのである。
 つまり、真実・真理・自然に生きることを推進させ、保障したはずの政教分離制度が、それとは反対の道を推進してしまうと言う皮肉な現象が生じているのである。
 それが人間のチエによる制度である。
つまり、民主主義とは、公には、嘘・虚仮・虚妄・欺瞞・他人事主義なのである。
国家・公共がそれだから、一般庶民もそれに馴染み、嘘・欺瞞・ごまかしの商法は当然と成る。大手企業の粉飾決算、燃費検査の不正等々、際限が無い。
即ち、彼らは、生き物人間や餓鬼であることを誇り、その道を競っているのである。
要するに、物・カネ・地位・名誉等の戦争で勝てばいいのである。その争いと戦いを保障するのが、自由民主主義である。
「集団的自衛権の行使は正当だ。それが人間世界の常識であり、現実だ」と言うがごときがそれである。
「わが国は」、「日本民族は…」等々、まだ「神風」を信じているかの様な主張が繰り広げられているのも、同じである。おかしいのは常に他国である。木の葉同士のにらめっこである。
地球の自転公転と炭酸同化作用と食物連鎖と生老病死を知っていれば、「そんなの、付き合っていられない」と言う気には成るまいか。
基本的人権による自由・民主主義社会では、「仲良く喧嘩をしましょう」と言う「建前と本音」の、競争、にらめっこ、騙し合い、貶し合いの社会教育が蔓延するので、迷妄・苦悩・地獄から容易に脱け出せない。
 それに加えて、通信機器の発達普及・メディア・情報社会の繁栄が、暮らしを便利で楽しくしつつ、一層、迷妄・苦悩・地獄を深くする。犯罪は携帯・スマホと共にありと成ってはいまいか。
 
世界はグローバル化したとは言うけれど、それは空模様が広く見れるように成っただけのことで、この世の真実・真理・自然が見えてきたわけではないから、迷いの範囲が広く成っただけのことと成る。
 民主主義は、数の多い一般人の見識がその国の成り行きを左右する。学者や大臣の考えなど問題では無いのである。
 集団的自衛権とか、立憲主義とか、国際法などどうでもいいのである。
「戦争をしたいのか、したくないのか」これだけでいいのである。物・カネ・戦争で幸せに成れると思うかどうか、これだけでいいのである。ケイタイや、スマホを子供に持たせずに育てられるかどうか、これくらいのことが親にわかればいいのである。こんなこともわからないようなら、選挙権の行使のしようはあるまいし、幸せなど成り立ちようがあるまい。「夏の虫」をやるより他は無いからである。
 
しかし、真人間であろうとする心さえあれば、基本的人権を超えた真実・真理・自然の道は、国家も国連も、誰も成約することはできないので、必ず成る。一人ででも絶対に成る。これが、この世の現実・事実としての真理の法、仏法である。
もし、「基本的人権思想」とか「自由・民主主義」とか言うものはどこかおかしい!、何かが欠けていると言う、真人間としてまともな心の働く者には、仏教(仏法・仏道の教え)がありますよと言うのが、何時もの私のブログである。
 私のブログでの世間の事象は、話の材料としているだけであって、それを批判するつもりは更々無い。
真理に違背してせっせと迷妄・苦悩・地獄をつくっている虚仮なる世間の事象を「素晴らしいですね」とは言えないので批判的な書き方に成らざるを得ないが、それも、「何でも無い。すべてよし」の真実・真理・自然の内だと言うことに気づきましょうと言いたいだけである。
何故なら、生まれたら必ず死ぬ様に、生死は一体の真理である。戦争と平和も、幸も不幸も、極楽も浄土も同じだからである。
 真実・真理・自然の下では、「みんな違って、みな同じ」なのである。
 
私は、太陽と言う真理の光に育まれて暮らしていることには気づかず、自分の心の蝋燭のような我執煩悩の灯を頼りにして目先的な物事を自我中心的に虚妄分別し、それを戦わせて迷妄・苦悩・地獄をつくることに明け暮れている世間の常識的な生き方には馴染めなかった。
そんな人間の常識世界を出て、広い世界を「真理・自由・自主・独立」の心で飛んでまわりたかった。それが私の趣味だったのであろう。
そして、そんな道を求め、そう言う生き方をして来た。そしたら、実に、面白く、楽しかった。ただ、それだけのことである。
今、このようなブログを書いているのも、その一環だといえよう。
が、これも、水面に絵を描くようなもので、実に、何でもありはしない。