このことは、機微な要素を含む重要な国内問題と比較した場合、外交問題に関しては、国民の意識如何によっては、その主体的参加の道が容易であることを示唆していると、私にぱ思われる。つまり、外交問題に対する国民参加を妨げているのは、政権側の上に述べたような「手口」、即ち、外交問題を国内問題にすり替えて、外交問題への関心をそらせゐ手法が成功してきたことによる面が大きいということである。


しかし、それは、日本が国際社会に占める地位が低く、従って国民生活と外交とが直結することが少ない時代的条件を前提にしてのみ、有効な手法であった。近年ますます明らかになりつつある実態は、多くの外交問題、国際問題がただちに国民生活に影響を及ぼすという事実である。このことは、否応なしに国民の外交問題に対する関心を呼び起こさざるを得ないだろう。既にその兆候は、さまざまな外交・国際問題に対する国民のこれまでとは異なる反応に顕著になってきている。


例えば、日米経済摩擦問題は、六〇年代後半からの繊維製品の対米輸出問題に端を発するが、その後も長い間、輸出競争力を急速に強める大工業製品が摩擦の中心にあった。しかし、近年になると、日米構造協議、ガットの農産物白由化問題にみられるとおり、下請け企業、中小企業、農業、消費者など、広範な国民を巻き込み、国民生活に直結する問題が次から次へと登場してきている。


また、湾岸戦争の勃発は、石油の多くを海外、特に湾岸産油国に依存する日本の経済、国民生活の将来に大きな不安を引き起こした。それだけではない。アメリカがこの戦争を遂行するに当たってぱ、当初から他国からの戦費拠出を当てにせざるを得なかったことは、日本にとっては「貢献策」、そして百十億ドルの戦費負担を意味した。


その戦費負担が増税を通じて国民生活に大きな影響を与えることはあまりにもはっきりとしている。しかもこのことは、日本国憲法第九条に違反することもまた明白である。この問題に日本としていかなる態度をとるかということが、どさくさに紛れて自民党が実現を図った自衛隊の海外派兵問題とともに、国論を二分する大問題となったのは、当然のことである。