私達の中には、「愛は、自己犠牲(痛み)を伴うもの」という思い込みがあります。

しかし、真実の愛は、自己犠牲を伴うことはありません。

もし、愛に自己犠牲があるならば、それはまがい物の愛。

 

世の中には、私財など自分の全てを投げ出して、何の見返りも求めずに、社会や人々の為に奉仕活動をしている人達がいます。

活動の大小を問わず、その姿は無償の愛、無条件の愛であり、私達に感動と勇気を与えてくれます。

 

無償の愛を捧げている人達を見て、私は幼い頃から、「私財を投げ出したり、自分の全てを捧げたり、自己犠牲することが真実の愛なのだ」と思っていました。

また、私の母は、「自分をどれだけ犠牲にできるかが、愛の深さだ」と常々言ってました。

 

私は、長年「愛は、自己犠牲を伴う」と思い込んでいました。

でも、それは私の大きな勘違いでした。

無償の愛を実践している人達を傍から見ると、一見自己犠牲をしているように見えますが、実はそうではありません。

 

無償の愛を実践している人達は、誰も自己犠牲なんかしていません。

その人達にとっては、社会や人々に奉仕すること自体が、大きな喜びなのです。

その活動は、お金や名誉などを越えて、魂がやりたいと望んでいる事だから。

なので、私財を投げだすことや自分の全てを捧げることを、自己犠牲なんて思っていない。

私財を投げうっても、自分の全てを捧げても、その活動をやりたいと強く願っている。

そして、その活動を通して、魂の大きな歓びを感じている。

なので、お金や名誉と言った3次元的な見返りなど、全く望んでいないのです。

 

無償の愛や無条件の愛に限らず、愛の行為の根底にあるのは、魂の歓びだけです。

そこに、自己犠牲を伴うことはありません。

もし、あなたが、愛のために自分の何かを犠牲にして、痛みを感じているのであれば、それは愛とは呼べないでしょう。

愛のために耐え忍ぶという姿は、お芝居としては感動を与えますが、本来の愛の姿ではありません。

 

私達を取り巻く人間関係の中には、たくさんの愛があります。

もしそこに、自己犠牲があれば、それは真実の愛とは違うもの。

真実の愛は、決して自己犠牲を伴いません。

そこにあるのは、魂からの歓びだけです。