軍艦島 ② | Z ライフ

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こんばんは


前回の続きです。


軍艦島とは、長崎半島から西に約4.5km、三菱石炭鉱業の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5km、長崎港から南西に約18kmの沖合いに位置する端島(はしま)のことを言います。


端島は、南北に約480m、東西に約160m、周囲約1,200m、面積約65,000㎡という小さな 海底炭鉱の島で、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから 「軍艦島」と呼ばれるようになりました。


当初、草木のない水成岩の瀬にすぎなかったこの小さな島は、採掘技術の発達とともに、周りを6回にわたって埋め立てる形で護岸堤防の拡張を繰り返し、今日の島の形状になりました。もともとは現在の3分の1ほどの大きさだったといいます。


炭坑閉山後、長い眠りについていた「端島炭坑」 ですが、2015年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました。日本の近代化を支えた産業遺産「端島炭坑」は、石炭産業の歴史を今に伝えています。


上陸してからは、3班に別れてガイドさんの説明を聞きます。



端島の歴史
端島では、1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、1890年三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭坑として操業が開始されました。出炭量が増加するにつれ人口も増加し、狭い鳥で多くの人が生活すたるため1916年には日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設され、最盛期には約 5,300人もの人々が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度にまで達しました。

エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで、出炭量も人口も徐々に減少し、1974年1月に閉山した後は、同年4月に無人島になりました。




この辺りが、地下に行くための竪坑(たてこう)があったところです。

炭坑の仕事
1891年から1974年の閉山まで約1,570万トンもの石炭を採掘した「ヤマの男」たち。海底炭鉱である端島での採掘作業は、海面下1,000m以上の地点にまで及びました。勾配はきつく、気温30℃、湿度95%という悪条件のもと、ガス爆発など常に危険と隣り合わせの仕事はとても過酷なものでした。 鉱内で交わされる「ご安全に」という挨拶に、「絶対に事故を起さない」という気持ちが込められていました。



表面のセメントが剥がれ落ちたこのレンガ作りの建物は、軍艦島の総合事務所です。この中には、炭鉱マンが仕事後に入る共同浴場があり、真っ黒になった体を、海水を沸かした湯船が2個あって、3個目の真水の湯船へと順番に入ったそうです。



軍艦島の周囲は、赤土と岩で固めてその上をコンクリートで固めています。ここに見えているのは、そのコンクリートが崩壊した跡です。

これは台風で崩壊した残骸。




1番高いところにある白いのは、軍艦島が無人島になったことで明かりがなくなり、建てられた灯台です。







この建物は、日本最古の7階建て鉄筋コンクリートのアパートです。
地下に一般の共同浴場があり、1階には郵便局や理髪店がありました。

今もちょっとずつ崩壊していってるんでしょうね。


ライフライン
電気や水道の確保は、端島では切実な問題でした。 電気は当初、島の自家発電で供給されていましたが、人口の増加などに伴い電力不足となったため、 1918 (大正7)年に高島から海底ケーブルが敷かれ、送電されるようになりました。
また、飲料水も当初は海水を蒸留していましたが、のちに給水船で運ばれるようになり、高台にある貯水槽に蓄えられ、数か所の共同水栓から配給されるようになりました。風呂の水は海水を沸かしたもので、上がり湯だけしか真水を利用できませんでした。1957(昭和32)年には対岸の三和町から6,500メートルもの海底送水管が敷かれ、送水されるようになりました。これにより、端島での給水制限はなくなりましたが、高級職員使用のアパートであった3号棟以外のアパートには室内風呂は設置されず、公衆浴場が利用されていました。

昭和30年代からプロパンガスが利用されましたが、それまではかまどを使っていたため、アパートには煙突がありました。

下水は処理されずに海に流していたそうです。
「え、海水の風呂はどうなん?」











何本か立っている支柱は、精炭 (精選された石炭)を運ぶためのベルトコンベアーがあったところです。一旦、貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に積み込まれました。 


この後船に戻って、上陸で見れなかったところを海上から見ます。


この続きは又、


ではでは