百人一首やったことある?
小学生の頃…
チョットだけ興味半分でやった記憶は残ってます。
好きになれませんでしたネ……
私の場合―――
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2024年5月27日(月)
こんにちは雪月 剛(ゆづきごう)です。
今日も今朝アメーバさんより
先日5月21日(火)にも寄せられている
「 リブログ 」……
どうか
よろしくお願いいたします~~~
〈 原文に段落行間隔らの改定を施しています…… 〉
2023年5月27日(土)
2022年5月27日(金)。
今日も
今朝アメーバさんより寄せられている「 リブログ 」です。
早二年前の記事となります
が
歴史の事実は何も変わってはいません。
”人類社会は、常に勝者の理由-----でも、本当の勝者に人類はなれない”
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雪月 剛のブログ104 日本って不思議な国?
日本人って不可思議な人種!?
パート35
前回、
あゝ 日本
の
つづき~~~
前回タイトル
あゝ日本―――
で
初代内閣伊藤博文(1841年~1909年)を登場させています。
人類社会は、
常に勝者の歴史であり、
権力者で支配層の世となり、
彼らにだけ
都合の良い伝説がつくられてゆくのです。
どうやら
伊藤博文も、その例には漏れていないようです。
まあ
彼に限らず誰にでも当て嵌まるようです
が-----------
前回でもお話をしました
が、
仮に、
タイムマシンにでも乗って現場で立ち合ったとして
も
真相真実なんて容易に分りっこない、
人類社会という代物
は、
それほどまでに難しいものなのではないでしょう
か------
例えば、
日本人に大好評、
坂本龍馬(1836年~1867年12月10日) の陰
に
すっかりと埋没してしまっていて、
否、
歴史的には抹消を計られてしまって
闇に消されてしまったお人
と
指摘説明した方が適切か!
そのお人と
は、
当時、信州上田藩藩士であった
赤松小三郎
(1831年~1867年9月30日)なる人物です。
坂本龍馬が暗殺される12月10日
の、
ほぼ
2か月前、
9月30日にやはり暗殺をされていた
とゆう、
壮絶な事件であります。
しかし、
犯人不明の坂本龍馬氏暗殺事件とは違って、
そちら
赤松氏殺害事件の犯人は特定をされているのです。
歴史上、やはり有名人
西郷隆盛
(1828年~1877年)
の腹心、
西南の役
〈 1877年(明治10年)2月~同9月 〉
で
西郷と一緒に戦死をした
幕末四大人斬り
〈 田中新兵衛31歳自刃、
川上彦斉(げんさい)
(映画、コミック、るろうに剣心のモデルだそう---)
37歳斬首―――
岡田以蔵27歳打ち首、
そして
中村半次郎38歳 〉
と
称された一人、
中村半次郎こと桐野利明が主犯格、他数名の犯行
と
判明をされているのです。
ですが、
当時の上田藩での赤松氏の死因は暗殺では
なく、
病死
と
記録をされているそうです。
明らかなる犯行が判明をされている
にも
拘わらずにです―――
暗殺をされた理由は、赤松小三郎氏作成の建白書、
『 御改正の一二端奉申上候口上書 』 にあり!!
だそうです。
坂本龍馬氏作成
〈 本人作成かどうかの確かな証明はないらしい 〉、
世に非常に有名な「 船中八策 」
こと
『 新政府綱領八策 』 よりも早い、
1863年には、まず自分の上田藩…
1866年には幕府へ、1867年5月17日には福井藩主松平春嶽
へ…
同じ5月、
薩摩藩島津久光に対しても上納をしていたと資料に確と残されているそうです。
坂本龍馬氏作成と謂われている
「 船中八策 」 『 新政府綱領八策 』 の書中には、後の明治憲法
(大日本帝国憲法) にある
《 天皇の統帥権 》
については、
龍馬氏が用心してか一切触れていないといいます。
片や、赤松小三郎氏の建白書に
は
《 天皇統帥権 》
についての提示
が
しっかりと明記されてあるといいます。
要するに、
後に権力者支配層となる連中には、
赤松小三郎氏
が
自分たちの思い通りにならぬ厄介者、 疫病神として
烙印を押されたということ。
その理由は、坂本龍馬氏についても全く同じだったのでしょう。
幾ら坂本龍馬氏
が、
彼なり〈 31歳、何と言ってもまだ若過ぎましたね 〉に危険を察し
< 天皇統帥権の問題 >
を
避けていたとしても、権力者支配層になろうとしている輩に対しては全く通じなかった。
坂本龍馬は、 あくまでもこれからの自分たちに取って
は
赤松小三郎氏と全く同じ類…
何れは
自分たちの敵方となる相手だと決定付けされたこと
が、
赤松小三郎氏暗殺に拠って、
紛れもなき証明として見せ付けていましょう。
明治憲法(大日本帝国憲法)成立に至るまで
に、
このような空恐ろしい前哨戦があった、
と
ちょっとばかりお話したかったのです。
こんな風
に
「 私たち雪月が遭遇、徹底的に味わわされている
日本国行政の不備 」
を
ずっと辿り遡って往く
と、
後述をする
初代内閣総理大臣となった伊藤博文にも、前にホンのちょっとだけお話しした
このお人の若い時分、
キナ臭い煙が紛々(ふんぷん)と巻き起こっていることが分ってきます。
伝説とは、人間がつくり挙げたものなんだ
と
つくづくよく判ってきます。
ここで、
少しだけ伊藤博文について触れた小室直樹博士の遺作
『 日本国憲法の問題点 』
小室直樹著、集英社。
2002年4月、よりの引用をして措きます----------
「 自主憲法制定 」 だけでは何も変わらない
本書で何度も強調しているよう
に、
憲法とは 「 慣習法 」 である。
たとえ
成文化された憲法があろうと、それが実際に行われているかどうか、
また、
行われているとして
も、
それがどのように行われているかを見なければ、
「 憲法が分った 」
とは
言えないわけである。
その意味で、憲法とは日本人が考えているよりもずっと幅広いものであると言える。
そして、
その中には教育制度もまた含(ふく)まれる。
憲法を活かすも殺すも教育次第。
こう言ってもけっして過言ではない。
いかに
立派なデモクラシ―の憲法を公布しよう
とも、
国民の間にデモクラシ―が定着していなければ、
その憲法は機能しない。
明治憲法を作った伊藤博文が悩んだのも、その点であった。
伊藤博文をはじめとする明治の元勲たちの悲願
は、
日本を欧米から認めてもらえる近代国家にすることであった。
だが、それには西洋流の憲法や近代法を導入しただけでは不十分である。
日本人が近代精神を持たなければ、その法は機能しないであろう。
そこで伊藤は、
山崎闇斎(江戸初期の思想家)以来
の
尊皇思想を基(もと)
に
「 天皇教 」 を完成させた。
{ 注:山崎闇斎(江戸初期の思想家)とは、崎門学(きもんがく)、
もしくは
闇斎学(あんさいがく)と垂加神道というものの創始者 }
ちょっと描くだけでもこんな風になるのですよ――――
大体が、
私は、
山崎闇斎
(1619年~1682年)
なる人物の存在なんて
近年まで全く知りませんでした。
今回は以上です。
「雪月剛のブログ105」パート36 に つづきます----------
2020年5月27日
雪月 剛(ゆづきごう)
下記は拙著の本です、 よろしくお願いいたします。
――以上がリブログです……
まことに
ありがとうございました。