佐野厚生病院の慌ただしい生活を終えて、
次の病院は国立療養所村山病院でした。
佐野厚生病院とはうってかわってのんびりした病院でした。🏥
救急病院ではありませんでしたので、
夜中に起こされることもありませんでした。
それでも、
夜中に救急車の音がすると目が覚めてしまいました。🚑
佐野厚生病院の習慣が抜けていなかったのです。
夜中に起こされなくなっただけでも随分ほっとしました。
たまに当直もありましたが、
入院患者が脊髄損傷と、
結核の患者が多く、
容体が安定していたので起こされることはめったにありませんでした。
こんなに楽でいいのだろうかと思いましたが、
医者になってからずっと忙しくて、
忙しくて、
嫌気がさしていましたので、
いい骨休めだと思って気持ち良く過ごしていました。
同年代の医者も多かったので、
仕事が終わると遊びに行ったりで、
ウソみたいに気楽な毎日でした。
思えば、
慶応病院の研修医ではどつかれて、
東海大の麻酔でふてくされ、
佐野厚生病院では昼夜働いて、
本当に気が休まる暇がありませんでした。
国立療養所村山病院は実は同級生の間でくじ引きをして決めたのですが、
私が最下位のくじを引いてしまいました。
みんな早く医者としての力をつけたかったので、
暇な病院は敬遠されました。
私は最下位のくじを引いてしまったので選択の余地はなかったのですが、
からだが楽な病院を望んでいたので、
この国立療養所村山病院は、
願ったりかなったりでした。
2年間の予定でしたが、
仕事が暇な分、
研究に打ち込むことにしました。🔬
研究が好きだったというわけではありませんでしたが、
医者になると、
どうしても一度は通らなければいけない道でしたし、
その延長として博士号を取得する目的もありました。🎓
国立療養所村山病院は暇な病院ではありましたが、
この病院に勤めたお陰で、
博士号を取ることができました。
それに、
部長の大谷先生の手術は繊細かつ大胆で、
私が見た外科医の中ではもっともすぐれておりました。🥼
このことは本当に運がよかったと思っています。
自称名医はたくさんいますが、
本当の名医はほんの僅かしかいません。
大谷先生の助手を何十回もさせていただいたお陰で、
自分自身の技術にも絶大なプラスになりました。
静岡県のとらや工房です。
カップルで大混雑でした。
お菓子とトコロテンはすごく美味しかったです