「りくべつ 冬」で誘われて | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

2018年2月 シャーロットの夏

 ひとときは陸別町の冬だった。ドアは閉ざされ、窓ガラスは霜にしばれ、どの屋根もつららに縁取られ、ダイヤモンドダストと戯れるゆるキャラたちや、雪の中を歩む馬の白い息。

 シャーロットの夏。その言葉が、日本一寒い町に住む人々の口から口へ伝わった。シャーロットの夏。しばれる町の温かい空気が、再びこの地を訪れた彼女を包み込んだ。

 

 

 昨年の10月20日、西田藍さんの誕生日に発表されて以来、待ち続けていた北海道陸別町PRムービーの第2弾「りくべつ 冬」がついに公開された。

 待った甲斐があった。前作「りくべつ 夏」のアンサーとしての部分も感じる、良い映像だった。前作に登場した陸別町の人々との再会、というのもテーマだったのだろう。

 

 その中で、僕が特に気になったのは、西田さんがナレーションにあったある言葉と、読んでいた本の一冊の意外な関連性だ。

 

冬のりくべつについて書きたい、と思った。

りくべつ ならではの、何かが書けそうな気がした。

 

 この部分と、西田さんがふれあいの湯の湯上りで読んでいた金井美恵子の『愛の生活 森のメリュジーヌ』だ。

 金井美恵子という作家は様々な側面を持つ多重性が魅力だ。僕はこの人のエッセイがとても好きなのだが、短編小説も色々な味わいがあって短編集がとても楽しい。その中で、講談社文芸文庫のこの一冊を選んだことに、特別な意味を感じないではいられない。

 この短編集、金井美恵子のデビュー作を含む初期の短編が収められたものだけれど、短編集のテーマが、明らかに「書くということ」についてだからだ。

 

 今までの西田さんは、ほとんどの場合、「読む人」だった。もちろん西田さんはアイドルでありながら文筆家の顔も持っている。でも、書くことは読むことの延長線上にあって、読んだ気持ちに寄せて自分を語るのがスタイルだった。こんなふうに、「書く人」として発言されることは、とても珍しい。

 そして、この金井恵美子の短編集だ。巻末には「著者から読者へ」として、金井自身が小説を書くことについて綴っている『愛の生活 森のメリュジーヌ』だ。

 金井美恵子はこう書いている。

 

考えてみれば、私自身、多くの小説や映画や批評や絵画の一部を、読者や見る者として読むことによってーーなまななしく生きることによって、と言いかえるべきですがーー書くことへと誘われ、生きなおしたと言えなくもないのです。

 

 僕は西田さんの文章を愛するものだ。もし、西田さんが書くことに誘われたというのならば、その文章は今までと全く違う、だが正しく西田藍だというものを見せてくれるように思う。


 いやまあ、そんなことは僕が勝手に仮託したものだ。作者と作品を重ね合わせて何らかの意味を見出そうとするのは、愚かなことだ。

 いずれにせよ、西田さんが何かを書くとしてもそれと「りくべつ 冬」の映像は別物だろう。ちょっと頭を冷やして、もう一度見直してみることにするかな。

 

 というわけで、改めて次回、その感想を書きます。