『にゅうもん!』特別編・『私の中のディストピア』③ | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

『にゅうもん! 西田藍の海外SF再入門』2017年2月号 特別編『私の中のディストピア』

 ジョージ・オーウェル『動物農場』(新訳版) 山形浩生訳

 

 前から思っていたんだけど、ディストピア小説の中には、そのおそるべき未来社会が、すごく魅力的なのと、なんだか妙にイラっとくるのがある。

 これは小説としての面白さとはあんまり関係がなくて、要するにそういう社会が形成される過程が腑に落ちるのと、そうでないのとの違いだろうと思う。いやあ、その展開はどうなんだ? というのがあるかないか。

 

 ずいぶん昔に、『動物農場』を読んだ時には、ちょっとイラっとしてしまった。

 というのも、どうにも内容に社会批判的な匂いを強く感じてしまったからだ。この作品は寓話的な体裁をとった、ソ連の体制批判的な作品であり、社会主義革命の独裁と権力者の欺瞞をこれでもかと描いていて、どうにもその説教臭さが若造だった僕には鼻についた。※1

 

 英国の農場で、動物たちが資本家たる農場主の人間を追い出すという革命を起こし、動物たち自身の手(前足?)で運営する「動物農場」を設立するのだけれど、動物たちの中で最も賢く、読み書きもできた豚たちが支配層になり、やがて少しずつ独裁を行い始める。

 確かに賢い動物ではあるのだが、支配層たる動物を「豚」にしているあたりも、恣意的に感じた。

 ごくごく序盤の、農場主を追い出してから動物たちが役割を決めて農場運営を始めるあたりまでは、昔話のようにほのぼのしているのだけれど、そんな文字通り牧歌的な雰囲気はあっという間に消え失せる。

 早々にして、未来が明るくないなあ、とわかってしまう。

 西田藍さんは、こんな風に書き始める。

 

さて革命を唱えた先の世界。『動物農場』という寓話は、救いがない。

 

 確かに。

 しかし今回、新訳版を読み返してみて、文章が現代的で読みやすくなったからだろうか、寓話的な部分がより強く感じられて、体制批判的とか揶揄とかが、そんなに気にならなかった。

 1945年の作品なのだが。

 西田さんも、こう書いている。

 

現代日本にある小集団でもよく見る構造だ。内ゲバ、粛清は、赤い人々のみが使うとは限らない。この寓話に、古臭さは一切感じなかった。私が仮に、なんらかの集団で優位に立てたとしても、うまく立ち回り、私腹を肥やすことはできないであろう。早々に、見せしめのために処刑されそうだ。

 

 まあ、西田さんは頭の良い人だけど、それ故に、余計な事実に気がついてしまって粛清されそうではある。それをネタにのし上がるタイプではないし。※2

 

 僕は豚たちには腹を立てながら読んでいた。彼らが狡猾な独裁者だったからじゃない。もっと上手くやれただろう? 他の動物たちより圧倒的に賢かったのだから、その気になれば、自分たちの私腹を肥やしつつ全員の生活レベルを上げられたはずだ。結果として、彼らは特権階級になったので同じことかもしれないが、幸福の絶対量はもっと増やせただろうに。

 豚と同じぐらい賢く、知識もあったのに、何かあったら溜息をついているだけで何もしなかったロバには腹は立たない。こういう奴は珍しくもない。

 しかし、この寓話は人間社会では曖昧にごまかされている、ある点を浮き彫りにする。西田さんが、その点を指摘してくれているのが、すごく共感したところだ。ここ読んだ時は嬉しかったなあ。

 

農場に住んでいた動物たちは、身体も知性も、様々。だからこそ、賢いブタの中でも特に賢いブタは、私腹を肥やすことができた。生まれつき文字が読めない動物と、人間並みの知能を持つ動物と。前者が搾取されるのは仕方がないのだろうか?

 

 農場の知能分布は人間のそれより遥かに大きい。だからこそ、階層がより明確になる。

 能力的に優れている者が、劣る者より多くの報酬を得ることは正しいことか? あるいは、能力に関わらず報酬は平等に分けるべきか? 生まれつきの能力が低いからといって、扱いも低くするのは差別なのか?

 最初に読んだ時には、ここに気がつかなくて、こんかいの新訳版で気になったところだから、やっぱり少し印象が違うのかもしれないな。

 

 西田さんも指摘している。

 

ボーダーラインの人を含めても、知的障害とされる人は少数である。だが、少数とはいえども、存在している。軽度の人が、反社会的勢力に利用されている事実も問題視されている。文字が読めない動物が、文字の読める動物に搾取されていく様子と重なった。

 

 最近は、ネットでも豆知識として流布されていたりするが、福沢諭吉の『学問のすゝめ』の冒頭、「「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり」の後には、そんなこと言ったって賢い人、愚かな人、金持ち、貧乏人、上品な人、卑しい人と、沢山の上下がある、その差は学があるかないかだ、だから学問すべし! とある。

 納得しそうになるけど、これは、差を生じるのは生まれついてのものじゃなくて、後天的な努力の結果である、とする、割と厳しい言葉だ。結果が伴わないのは努力が足りなかったからだ、という。

 

 ただ、そこでこの動物たちのように、生まれついての差がそもそもあったのだ、としたらどうなるか。※3

 この「動物農場」は、全く魅力的な社会ではなく、『すばらしい新世界』のように、やりようによっては良いものになるのでは、とも感じさせない。冒頭に西田さんが言われたように、全く救いがない。

 西田さんも、途方にくれた感じで結んでいる。

 

動物たちは、どうすればよかったのだ?

 

 こういうディストピアは、恐ろしいというよりは、心にくるんだよなあ。

 

 

 

 

※1 そもそも最初に出会ったのが、高校の英語の授業だったからかもしれない。

 

※2 しかし、意外と「見せしめのための処刑」みたいなシチュエーションはお好みかもしれないし……いや、やめとこう。

 

※3 西田さんも指摘する反社会的勢力の搾取は、決して肯定はできないが、それがあるからこそボーダーの人が食っていける、という現状もあったりするんだよな。