『にゅうもん!』第五回『しあわせの理由』 | 高い城のCharlotteBlue

高い城のCharlotteBlue

書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

『にゅうもん! 西田藍の海外SF再入門』2015年8月号 第五回はグレッグ・イーガン『しあわせの理由』だ。

 

 さて、イーガンである。

 こうやって構えてしまうものが、この作者にはある。

 グレッグ・イーガンと言えば、近年のSF界のど真ん中。今どき、SF好きを標榜して、イーガンを読んだことがないのは許されない、という雰囲気がすでにある。(誰に許してもらう必要もないのだが)

 ましてや、解説で定義されている分類によれば、僕は間違いなく「理系SF読み」ということになる。じゃあ、イーガンの科学的なテーマや仕掛けをちゃんと理解しているのか、と言われれば、もちろんそんなことはなくて、専門外はさっぱりだし、そもそも自分の専攻だって十分に理解しているわけでもない。

 とはいえ、やはり「理系SF読み」としては、「イーガン? まあ理解できるけど?」という顔をしなきゃいけない気がする。おそらく「文系SF読み」にマウントしたい浅ましさなのだろうけれど。

 

 読み始めると面白くて止まらなくなるのだけれど、こういう部分があるので、イーガンには素直に飛びつけなかったりする。

 

 本題に入ろう。

 西田藍さんは、イーガンは未読だったようなのだけど、解説から先に読んで「理系SF読み」向けと言われている、という文言に、少し構えてしまったらしい。

 

ぴりぴりと知的コンプレックスが刺激される。そもそも私は対比される「文系読者」でもない。文系、理系の括りが中等教育以降の教育課程が由来であるとすれば、それ以前である。

 

 コンプレックスが刺激されるということには、勝手に共感してしまった。前置きでくどくどと言い訳したように、僕は逆方向からのコンプレックスをもってイーガンに対峙しているからだ。

 このあたりのコンプレックスの描写は面白い。西田さんは、はたから見ると抱える必要がないようなコンプレックスが色々あるようで、実はそういうことを語るとき、とても色彩豊かな文章を書いてくれる。あんまり褒めていないような感じだけれど。

 この『しあわせの理由』を読んでいたのが、PV撮影のため集められたモデルの一人として行った、渋谷のクラブだという。

 なんともまあ、イーガンの似合わない空間だ。いや、そういう場所で涼しい顔で読んでいたら、逆にとてもカッコいいと思うし、僕がもしその場にいたならば、「クラブの喧騒をよそに、ひとり静かに文庫本をめくる」という姿は、相当魅力的に見ただろうと思う。※1

 ところが、本人の主観としてはこうだ。

 

気怠げにソファにもたれる美人の中に、猫背で文庫本を読む私。周囲の派手な美人にもコンプレックスを刺激され、両方面に挟まれたと思った。ああ、このままタバコの匂いの中で劣等感に埋もれて死ぬのだと。

 

 このあたり、なんでそうなるのかな、とも感じるが、まあコンプレックスというのはそういうものだろう。僕のコンプレックスだって同じようなものだ。

 はたから見た光景と、本人の見る世界は異なる。

 そうしてみると、西田さんがこの短編集で一番好みだったという『愛撫』が、面白く立ち上がってくるなあ、と思った。


 この『愛撫』は、名画の世界を現実に再現することにこだわる男の話だ。大富豪である彼は、スフィンクスの出てくる絵を再現するために、人為的に頭が人間、体が豹のキメラを作り出すことさえする。それどころか、キメラと登場人物の精神的結びつきまで演出する。

 芸術を現実に導入することによって、世界を芸術家が思い描いたそれに変容させる、というのがその目的だ。

 完璧主義の、猟奇的パラノイアだ。こういうの、お好きですよね、という感じ。

 

彼に選ばれた主人公は、「めずらしく美しいウィルス」として彼の目的の道具とされる。彼の言葉を、主人公は信じない。私も信じない。それでも、いくら耳をふさいでも薄気味悪さは消えないのだ。

 

 最終的に、訳もわからないままに解放された主人公は、できるだけ事件前の生活に戻ろうとする。全てを忘れ、かつての日常に戻ることで、世界を変容させるという目的をくじこうとするのだ。

 だが、どうだろう。

 名画を再現した光景の中で、主人公はただ不信と恐怖に震えて立っていただけだった。本人の主観世界では。

 だが、完璧主義者が満足して立ち去ったことを考えると、はたから見ると全く違っていたのかもしれない。渋谷のクラブで本を読む女、のように。

 必死で日常に復帰しようとする行為も、あるいは戻ったと思っている日常も、あるいは。

 おや、これはイーガンというよりもむしろ……。

 

 続く『ボーダー・ガード』は変容してしまった世界。

 なんとなく、わかるようなわからないような、量子サッカーの描写が魅力的で、冒頭から引き込まれる作品だ。

 

彼らは、誰? 段々、その世界の色が見える。ふわふわしたパステルカラーの世界だ。彼らは今の私達とは違う人類。何千年先の話。ふわふわした色合いの世界での彼らの悲しみも絵空事のよう。

 

 その世界の中で唯一過去の記憶を、ある種のトラウマとして持つ主人公は、その記憶を拡散して共有させることを選び、自らも緩やかに変わってゆくことを選ぶ。

 量子サッカーの鮮やかさとともに、この主人公の心情の変化が切々として胸にせまる。

 

 そして表題作『しあわせの理由』。

 この作品は大好きだ。僕がかつて小説家になりたかった頃に温めていたアイディアのうち、半分ぐらいがここで実現されている。新しいアイディアもたっぷりつぎ込まれていて、僕が読みたかったもの以上のものになっている。

 僕にとって、面白くないはずがない。

 

 脳内代謝物質に左右される感情。多幸感。つまりは「しあわせ」。こういうのが西田さんにはヒットするのは良くわかる。わりと自分の感情のうつろいを持て余しているところがあるようだし。

 これは、世界ではなく自分が変容してゆく話。『ボーダー・ガード』での拡散にも似た、世界そのものが自分と溶け合っていくことを描いている。

 主人公にとって、脳腫瘍による代謝物質で「しあわせ」だった自分、腫瘍を取り去ることで感情の失われた自分、数千人の脳ネットワークで形成された自分の、どれがどう自分なのか、読むほどに考えさせる。

 このあたり、同じ短編集の中の『適切な愛』とかにも似たものがある。

 

 西田さんは、自律神経が弱く、落ち込んで世界を呪う自分と、基本的に人生は幸せなものだと感じている、楽天的な自分の両方を意識していて、やや諦観をもってつき合っているという。

 だが、この物語の主人公が自分の人生を取り戻し、意識は普遍的だと語ったことを受けて、自分の人生を作ることについて考えられている。

 

 イーガンの作品は、自分や世界が変わってしまう、変わるかもしれない、と思わせてしまうものだと思う。その発想に足場をつなげているのが科学的なアプローチで、単なる自説の補強に使うのではなくて、遥か彼方に見えるそれが、今まさに立っている足元から繋がっているのだ、と感じさせる仕掛けにしている。

 これこそがSFだな、と思う。僕の好きなバラードにはサイエンスの部分は薄いけれど、イーガンは結構スペキュレイティブな部分も分厚い。※2

 そして、その変容してゆくことを意識するようになる、考えることが出来るようになる、ということが、解説で言われている「イーガン受容体」ではないかな、と僕は思っている。

 ここまでの西田さんの文章を読んできて、その中に、僕はその「イーガン受容体」の影響を感じることができたような気がする。

 そういう目で見ると、結びでもう一度出てくる渋谷のクラブの光景が、冒頭とまったく違ったものに変容しているように感じられるのだ。

 

 あやしい紫の光に照らされた文庫本が、突然真っ暗になった。撮影のため、待合室の照明が消されたらしい。暗闇の中、遠くから鳴り響くダンスミュージック。

 目を閉じて。先ほど、イーガンが示してくれた世界。新たな概念をゆっくり反芻する。私のイーガン受容体、ちゃんと機能してくれたかしらね。

 

 

 

 

※1 でもイーガンはないだろ,と考えるのが本読みの悪いところだ。別にプルーストだろうが,バタイユだろうが,ピンチョンだろうが,村上春樹だろうが,あんまり関係ない,はず,だと思う。

 

※2 一応補足すると,J・G・バラードはSFを「スペキュレイティブ・フィクション」だと再定義した。ニューウェーブSF嫌いの人には,ものすごく不評だそうだけれども。でもSFど真ん中のイーガンと,異端のバラードが重なるのは,ちょっと面白い。