ムーミンの作品の短編集『ムーミン谷の仲間たち』を読みました。表紙の装画が印象的な『目に見えない子』も素晴らしい作品ですが、スナフキンの短編『春のしらべ』について書いてみようと思います。 



以下あらすじです。 


  スナフキンは北を目指して旅を続けていました。とても幸せなを気持ちで、もう幾日も温めてきた新しい歌が心のなかで形になりそうで、幸福な自信になるまで心から取り出さずにいました。最高傑作になりそうでしたが完成するにはまだ少し孤独が必要でした。出来上がった歌をムーミンにきいてもらうのを想像して彼のことを思い浮かべました。ムーミンはきっと「いい歌だねえ、ほんとにいい歌だねえ」と言うことでしょう。ムーミンはスナフキンの理解者であり親友だったのです。ムーミンはスナフキンの創作に孤独が必要なこともその為に旅が必要なことも知っています。スナフキンもムーミンが自分のことを深く理解しているのことを知っていました。 

 ムーミンはいつでも何かに憧れて、スナフキンが来るのを待ち焦がれ崇拝しているのです。それでもいつでも「もちろんきみは、自由でなくちゃね。きみがここをでていくのは、とうぜんですよ。きみがときどきただひとりになりたいという気持ちは、ぼく、よく、わかるんだ」といってくれるのです。そのくせスナフキンが旅にでてしまうと誰がどう慰めてもだめなくらい悲しみで真っ暗になってしまうのです。



  あともう少しで歌が完成するというところで一匹の『はい虫』に出会いました。ひどく怯えおずおずとして、誰にも愛されたことがないような目つきをしています。 



  スナフキンは自分をじっと見つめていちいち感心する『はい虫』にイラつきます。あっちに行けと怒鳴りつけても効き目がありません。『はい虫』はさんざん噂に聞いて憧れているスナフキンに会って胸がいっぱいでした。ひとりの時間を奪われてスナフキンの歌はどこかに行ってしまいました。『はい虫』にとってスナフキンは何でも知っていて自由に生きている特別な人でした。自由に生きていても彼に憧れ帰りを待ち望むムーミンという親友がいる、親友がいるってどんな気持ちなの?はい虫は母親はいるけれど本当の意味で独りでした。 小さくて取るに足りない『はい虫』は名前さえ持っていません。名乗ることも出来ません。だからスナフキンに名前をつけてほしいとお願いします。 


 「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられないんだぜ。ぼく、よく知っているがね」とスナフキン。 

「いつでもあんたみたいに自由になりたいと、ねがってきたんです。」と『はい虫』は答えます。 


  ひとりの時間を邪魔されたスナフキンは腹を立てていましたが、「ティーティー=ウー」という名前を与えます。

  名前を貰った『はい虫』は味わいよく考え、とても悲しそうに、うっとりと自分の名前を叫び、藪の中に消えていきました。


 旅を再開したスナフキンは『はい虫』のことしか考えられなくなっていました。歌を作るどころではありません。あの虫が言った言葉、自分自身が言った言葉の一つ一つを思い出し、腹を立て困惑し『はい虫』のティーティー=ウーを探しに道を戻ります。スナフキンは歌のために小さなティーティー=ウーを邪魔なものに思ったことに自分自身が傷付いていました。スナフキンは新月に向かって声を高く願を掛けます。


 「どうか、ティーティー=ウーが見つかりますように」


 ティーティー=ウーに再会したスナフキンはあらためて親身に会話をしようとしましますが、ティーティー=ウーにとって誰かとの親友のような関係やスナフキンへの憧れは必要ではなくなっていました。 


 「すべては、ぼくのまわりでただおこっているだけで、そんなものは、みんなくだらないことだったんです。そりゃたのしいことも、そうじゃないこともあったけどさ。それがね、あなた……」 


 「ところがいまは、ぼく、一個の人格なんです。だから、できごとはすべて、なにかの意味をもつんです。だって、それはただおこるんじゃなくて、ぼく、ティーティー=ウーにおこるんですからね。」 


 「どうぞおかまいなく」 


 「チェーリオ。ムーミントロールに、ぼくからよろしくとつたえてください。ぼくは、ありったけ生きるのをいそがなくちゃならないんです。もうずいぶん時間をむだにしちまったもんでね」


 ティーティー=ウーとわかれたスナフキンに消えてしまった春のしらべが戻ってきます。

 春のしらべの第一部はあこがれ、第二部と第三部は春のかなしみ、そしてたったひとりでいること大きな大きなよろこびでした。


 物語は終わります。たった20ページしかない短いお話ですが詩情も余韻も深みもあるお話です。待ってくれる理解してくれる人がいるという点でスナフキンは孤独ではありません。真に孤独なのは名前さえない『はい虫』ですが、憧れの対象、恐らくはムーミンとスナフキンの関係も含めて夢見ることで何かを体験していた気持ちだったのでしょう。でも『はい虫』がティーティー=ウーという一つの人格になることでスナフキンの経験もムーミントロールとの友情も自分のものではないと気付きます。そしてティーティー=ウーとしてワクワクした気持ちで自分の時間を生きはじめます。


 『はい虫』はスナフキンへの憧れがなくなるとともに自由になる訳ですが、これよく分かるなぁ。でも実際はなかなか難しくて、憧れも夢見る時間も生きる原動力だから大事に出来るものなら大事にしたい。「ありったけ生きるのをいそがなくちゃならないんです」には心から共感しました。 

以外だなと感じたのはトーベ・ヤンソンのように両親ともに芸術家で、才能も環境もチャンスにも恵まれていたエリートともいえる人が『はい虫』というキャラクターを作り出したことです。彼女は自分のしたいことを全て実行した人。恋愛に於いても自由奔放で、恋の相手が男性であっても女性であっても、恋人や配偶者がいても構わず情熱的な恋をしました。

 スナフキンのモデルとなった人はトーベ・ヤンソンの友人でもあり恋人でもあったアトス・ヴィルタネン、出会った頃には彼には奥様がいました。彼女はとても自由に気ままに生きた人なので、彼女の中に真逆の『はい虫』の部分があったのかもしれないのがとても不思議。


 参考に次の2冊も読みました。 





この本の一部を要約すると、 


 ムーミンの原形は仕事で描いていた風刺画のサインの横に書かれた生き物だった。 


 トーベ・ヤンソンはフィンランドとソ連が戦争に向かう中で絵を描くことが意味のないものに感じられ意欲を失う。自分自身を元気づけたい、けれども風刺画の作家がお姫様が出てくるようなおとぎ話を書くのも抵抗がある、それで『醜い生きもの』=『ムーミン』を選んだ。


 ムーミン達に託してしまうことで彼女は自由になれた、ムーミンが彼女の代弁をしてくれ、どんなロマンティックなストーリーも書くことができた。 


「創作作業というのは個人的なもの」 

「芸術家と作品との孤独な対話」 

「一度たりとも子供のために書いたことはない」


 可愛いムーミンが『醜い生きもの』なのには驚きました。スナフキンがトーベ・ヤンソンのかつての恋人であることは詩的な世界に生々しいものが入り込むようで正直抵抗感がありましたが、『醜い生きもの』に自分自身を代弁して貰うのであれば、生々しい彼女の一部が物語に登場するのは自然なことなのかな。 


 作品を理解するのは面白いけれど難しいですね。