日本国憲法は「不磨の大典」でなければなりません。 | 昭和中期の親父ブログ

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昭和28年生まれのクソ親父です。正直者が馬鹿を見ない社会が好きです。


 困ったものです。2015年の安保問題のときもそうでしたが、折悪しくこの時期にこの問題が出てくると本来業務に支障をきたしかねません。
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 しかし、法学者として、また大学で「日本国憲法」の講義を担当しているものとして、いま発言しなければ敵前逃亡であり、また無責任でもあるので発言せざるを得ません。
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 しばしば難解な表現になったり尊大に聞こえる表現になるかもしれませんがご勘弁ください。今年の夏も暑く、そして熱くなりそうです!!!
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 さて、二回目の発言ですが、やはり憲法に関する認識を確認しておく必要があると思います。
 20才前後の大学生ばかりでなく、前職でめぐり会った多くの年齢層(10代~70代)の人々のうち非常に多くの人が憲法を法律と同じものだと認識していることが政府の「誤った」改憲論を助長する結果となっているようです。
 すなわち、この記事によれば、首相は「憲法を不磨の大典と考える国民は少数になり、いよいよ機は熟してきた。理想の憲法の具体的な姿を国民に示す時だ」と述べたそうですが、憲法の改正は「数」により成否が決まる法律、つまり議会制定法とは異なる原理で扱わなければならないものなのですね。
 日本国憲法96条が「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」と規定し、いわゆる特別多数を求めているのは、単に数を多く必要とするという趣旨ではなく「特別な配慮」と「改正を要する喫緊の必要性」を求めていると考えなければならないのです。そうでなければ、選挙で特定の政党が多数を占めさえすればいつでも憲法改正ができることになり国は著しく不安定になるでしょう。
 しばしば言われる「特別多数」という言葉には量的な意味ばかりでなく、このような質的な意味が含まれていることを私達は知らなければならないのだと思います。
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 また、憲法は国の方向を決めるコンパスです。しかし、羅針盤という意味のコンパスであるばかりでなく、円を描くコンパスでもあるのです。国の活動は時代の変化によって変化せざるを得ません。しかし、その変化に対応するのはコンパスの開き具合を調整して大きくしたり小さくしたりすべきであって、その「コンパスの針」を引き抜いてはならないのです。砂上に刺したコンパスの針は、いったん引き抜いたら二度と同じ場所に刺すことはできないでしょう。これと同じように、非常にもろい国家の枠組みに軸を与えるために存在するコンパスが憲法なのです。コンパスの針は抜いてはいけないのです。