Fホィール :転倒曲がり/塗り替え用に2本
600Wオルタネーターキット :1セット
Fホィール :転倒曲がり/塗り替え用に2本
サバイバーズ・ギルト (Survivor's guilt) は、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。
医師:
「血液のですね、数値が異常なんですよ。
昔なにか放射線とかに強く当たるお仕事とかされていましたか?
普通では有りえない数値と肺の状態も非常に悪いですね。」
「歯を抜いたりして出血が止まらないっと言うのも異常なんですよ。」
父:
「・・・・・・・・・・」
しばらく黙っていた父が重い口調で語った。
父:
「そうですねぇ・・・僕はあの日、広島に居たんです。」
確か医者と父親の会話はそのような内容でした。
診察が終わり家に帰りついた私は父に
中学生の私:
「はぁっ?そんなこと初耳なんやけど・・・」
父:
「そやなぁ・・・言うて無かったなぁ・・・」
「俺はな、広島で被爆したんや・・・」
「今日まで誰にも言わんかったんはな、
【ピカは感染(うつ)る。】って言われてな、
被爆した事が人に知れると、仕事も続けられんかったんや。
だから誰にも言わんかったんや。」
※【ピカ】=被爆者を差別の意を込めてそう呼んだそうです。
・【ピカ】はいつ死ぬかも知れんから雇うな。
・【ピカ】は感染(うつ)るから雇うな。
「やけどもうこんな身体になってしもうたからには正直に言うて、
【被爆者手当】を貰わんといかん様になってしもたんや。」
「俺はな【死にぞこない。】やから、【国の為に死ねんかった。】から、
国から手当とか貰いたくなかったんやけどな・・・」
「お前も高校考えんとアカンし、おかんも昔大病患ってるから無理出来へんし な。」
※今日の診察は【被爆者手当申請の為の診察】だったようです。
私:
「広島って広島の何処で被爆したんやっ?」
父:
「広島の赤十字病院言うてな、原爆が落ちた所から1.5㎞のとこや。」
私:
「嘘やんっ!俺、修学旅行で広島の原爆ドームも資料館も行ったでっ!
原爆の光と熱受けた人間は一瞬で地面に焼けついたり、
体の皮膚蕩けて半日もせん内に死んでんでっ?」
「生き残った人って、だいぶ離れたとこで【黒い雨】おうた人やろ、
直接原爆に当たって無い人やろ、
それでも数日、数ヶ月、数年で死んでるって言うやんか?」
父:
「赤十字病院ってな、そん時には珍しい【鉄筋コンクリートの建物】や、
それに原爆が光った瞬間な、一階から二階に上がる階段の【踊り場】におったん
や。」
「階段の【踊り場】はな、丁度建物の角がな、原爆の光と爆風の方向に向いてたん
や。」
「【コンクリートの一番強い角】に丁度【光と爆風】が当たった訳や。」
「だから、死なんかったんや・・・」
私:
「いやいやいやっ嘘やろっ!」
「爆心地から1.5㎞やでっ?生きてる訳ないやんっ?」
父:
「階段の踊り場に【鉄格子と窓ガラス】があったんや、
その【窓ガラス】がな、爆風で俺の背中全部、頭から尻まで全部ガラスが刺さった
し、吹き飛ばされた時【格子】でアバラを2本えぐられたんやっ。」
「目が覚めた時、俺は真っ赤な包帯でグルグル巻やった。・・・」
「周りは誰も生きてへんかった。・・・」
私が小さな頃、・・・
母親より告げられた事実がありました。
母:
「あんたはな、おとんとおかんに子供が居らんかったからな、
人から貰ってきた子やねん。」
「おかんが黙ってても【どうせ誰かの口から耳に入る。】やろから、言うとくな。」
養父母に子供が出来なかったのは父の【被爆】が原因の一つだったのかもしれません。
父の話に戻ります。
父は戦争について全く何も語らない人でした。
自身の戦争経験、まして【被爆の事実】など、この日まで一切話してくれていませんでした。
昭和20年8月6日
特攻前に休みを貰った父は、
戦友を見舞う為に【広島 赤十字病院】を訪れ、
「戦友の病室へ向かう病院の階段踊り場で被爆した。」と言うのです。
見舞いを済ませば、徳島に渡り飛行機を受取り九州に向かう予定だった様です。
私は父の話をほとんど信用していませんでした。
爆心地から1.5㎞での直接被爆で生きている人間なんているはずがありませんから・・・
それから四十数年後
妻との旅行の時です。四国徳島から広島周りで鹿児島に帰る事になった時、
私:
「あーっオヤジは原爆ドームから1.5㎞の【赤十字病院】で被爆した。言うてたわ。」
妻:
「そんなん、せっかくやから行かなあかんやん。」
私:
「絶対嘘やてっ!
爆心地から1.5㎞で生きてる人間おったらターミネーターより凄いでっ!」
妻に背中を押され【旧広島 日赤病院跡地】を訪ねました。
そこにあったのは【旧広島 日赤病院】より移設した物でした。
父が8月6日に広島で被爆、大怪我を負いながらも帰還し、
その後は誰にも被爆の事実を明かさず、【ピカである事】を隠して生きてきた事を
以前このブログで綴りました。
父:
「ホンマはな、俺みたいな古参が往く事は無いんやけどな、
若いもんもおらんようになってたし、
特攻用の粗末な飛行機ももう無かったんや。」
「ええ飛行機は最後までとっとかなアカン。」
「そんな具合やった・・・」
「飛ぶ事(特攻)が決まった時はな、
【軍神】【神様】【神さん】言うて拝まれたもんや。」
父:
「【軍神、神さん】言われて出て行ったけどな、
特攻も行かず、
死なずに帰ってきたもんやから・・・
大怪我して働く事もできへんかったから・・・
そんな俺に対する扱いはそら酷かった・・・」
「【死にぞこない!】
【なんでお前だけ生きて帰ってきた!】
【ウチの子は死んで帰ってこんのやっ!】
て言われて家に【貼り紙】貼られてなぁ・・・」
「兄貴も徴兵で取られて死んでしもたのに、
生きてる俺が大怪我で家の事もできんから、
オヤジからも厄介者扱いされてなぁ・・・」
「そんなんで【ピカ】言う事バレてみ?
村八分にされてしまうどころか、家を追われてしまう。と思たんや。」
「だからずーっと、今までずーっと隠して来た。」
「仲間はみんな国の為に死んでしもたのに、
何もせんと生き残った俺が国から【恩給】や【原爆手当】
貰う訳にはいかんのやっ。」
当時中学生の私はただ黙って話を聞くだけでした・・・
そんな父は最後まで
サバイバーズ・ギルト に残りの生涯を蝕まれてしまっていたんやな。
9月に実父に会う事が叶うなら、
養父母の事もちゃんと伝えないといかんと思う私です。
そして願わくば
実母、姉の事も何かしら知り得る情報が無いかたずねてみたいと思います。
殺人的な暑さが続きます・・・
台風が過ぎれば少しは涼しくなるか?との期待は裏切られてしまいました(涙
そこで、昨年加工したカットスクリーンに交換です。
私の場合、スクリーンの固定にはM5ウエルナットを使用しています。
ラバー製なので防振にも一役かってくれますし。
シーズン毎の交換も
YAMAHA純正 スクリーンビス(樹脂ビス※)で簡単に行えます。
※万が一の転倒時にはスクリーンが飛んで安全。&金属ビス締めすぎのスクリーン破損も回避
ノーマル状態とサマーカットを比較した画像です。
カット加工済み
左側面から
真後ろ(乗車位置)から
9月に予定しているツーリングでは、まだまだ暑い日が続いていると思います。
少しでも涼しくなればと、先日交換しました。
効果は絶大!!
胸に十分走行風が当たるので、
メッシュ生地のウェアならば風が抜けて涼しいです。
心配した風圧はそれほど気にならない程度です。
年内には間に合わないと思いますが、
現在スペアカウルにRT用のエアベントを移植加工中です(祕
台風が去っても、天候がコロコロ猫の目の様に変わり、
なかなか東屋に手がつけられませんのでいつになるやらw
現在施工中の東屋が完成すれば※1 ※1台風6号にて作業中止中
多分9月頃になるかとは思うが、
約60年程前に生き別れた実父を訪ねて山口県までツーリングを計画中※2
※2その後は四国徳島の祖谷まで足を伸ばすつもりではあるw
大阪生まれの私は両親の離婚もあって生後すぐに養子となった。
養父母は私が小学校に上がる前には既に、
『お前は私達の子供では無いんだよ。貰ってきたの。でもお父さんとお母さんの子供なんだよ。』と言い聞かされて大きくなった為に、
昔のドラマに有る様な
「僕はお父さんとお母さんの子供じゃないんだぁ~捨て子なんだぁ~(怒」
⇒荒れてバットを振り回す。
様な事にはならず、
まぁ~そこそこ真面目な人生を送り現在に至る(笑)
そもそもこのツーリング計画は4年以上前に考えていたが、※3
※3 戸籍を取り寄せ 住所と生存は確認
実行に移す前にコロナ禍にて計画は頓挫。
計画当時であれば実父は83歳、まぁ~なんとか会えるチャンスは有るかも。
と考えていたが、
コロナ禍中にて何かあったかもなぁ~・・・と思っていたところ、であった。
今、コロナも落ち着き、私自身もメンタル面の支障を理由に休職中であることから、
あらためて計画となった。
目的地は山口県大島郡周防大島町大字平野※4
※4 住定日 昭和63年12月1日となっていた。
そこまで
・九州自動車道経由(フェリー無し)で行くか
・東九州自動車道経由(フェリー使用)で行くか検討中。
九州自動車道経由であれば約650㎞と走行距離はあるが、ほぼ高速移動なので所要時間は7時間未満。
東九州自動車道経由となると実走約350㎞(フェリー移動距離含まず)、フェリー乗船時間を含めれば約9時間以上。※フェリーにて一旦愛媛に渡り、愛媛から再びフェリーにて大島に渡る
この殺人的な暑さを考慮すればフェリーを使用すべきか?
もしくは涼しい夜間の高速移動とすべきか?
んんんんっーーーーーーーーーーーー思案中。
メンタルやられて、家でゴロゴロしている私を見て、
義理の母が「アンタっ!東屋作れん?」
「茶畑ほがした(引っこ抜いた)跡地に東屋が有ったらいいなぁ~って思うんよ。」
『あ~出来ますよ。』と私w
殺人的な酷暑の中、基礎打って、根太引いて、寄棟(方形屋根)の母屋組んで、
垂木渡して・・・4.5m×4.5m高さ4mの東屋作成に着手w
ここまで来たら後は一旦バラして、柱を立てましょうかね?
と思っていたら、なんと台風接近!
台風の影響にて天候がコロコロ猫の目の様に変わります。
1時間作業したら、いきなり雨が降り出し・・・
道具を一旦避難させると、晴れ間が見える・・・
また作業を再開すると、数時間もせぬ内に いきなりの雨。
『やってられるっかぁ~~っ!!」
と大工仕事は本日は止めて。
バイクのメインスタンドの加工に切り替えました。
バイクソロキャンプツーリング仕様にしたのは良いのですが、
168㎝の短足男が扱える様に
・リヤサスを純正より短めに変更
・フロントサス(ボトムケース内)のアルミカラー抜き
などから車高がかなり下がっているために、
メインスタンドが重いのなんのって、
しかもパニア30L×2+トップケース40L+シートバッグ44L分の荷物を積めば、
メインスタンド滅茶苦茶重いっ!
スタンドを降ろすにも、掛ける時より更に重いっ!
下の写真ではフロントタイヤが8㎝以上は浮いています。
そこでメインスタンドを2㎝カットして詰めました。
いつも溶接機を借りる友人に連絡すれば、
「あっ!いいっすよ~w」と有り難いお返事。
ベビーグラインダーでスタンドを2㎝カット、
切ったパイプ内径より少し太いパイプに、
【C状にすり割り】入れて叩き込み中子にし、
友人の工場でパリパリパリとMIG溶接。
完成した状態を確認すると
フロントタイヤの浮きは3~4㎝となりました。
これで荷物満載でも軽々とスタンドを掛けられますw
義母には感謝です。
メンタルやられ、ゴロゴロしている私に気を使ってくれてありがとうございます。
おかげで深淵に落ちずに過ごせてます。
元気になったら義親孝行させていただきます。
感謝!!