現代の釈迦・イエスと云われた知花敏彦先生の言葉です。
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あなたが「個人だ」と思っていようが、あなたが「無限」である事実は、変わりますか? 変わる、変わらない?
「エネルギー」も「質料」も、有限ですか、無限大ですか? 「無限」ですね。
「何ぜ、無限のあなたを、制限、制約、束縛するのですか?」と言いたいのですよ。何ぜ?
「無限」の方がいい、小さな個人的な方がいい? どっち? 「無限」がいいんでしょ!
そのまま、「無限」を受け入れたらどう!
「今、容認する」と、「私(神)を受け入れる者」となったら、「無限を受け入れる者」となったら、「無限」を受け入れたら「今、即、無限」ですね。
しかし、「初めから、無限」ですよ。今までは、「無限だ」と思わなかったら、「今、即、無限だ」と思ったらどう!
あなたが、「無限だ」ということを否定しようがしまいが、「あなたが、無限である事実は、変わりませんよ!」ということですよ。
あなたが、「無限」を認めたら、「無限の流れ」と成りますよ。もう、見事なものなのですよ。見事なものなのですよ。
「いつまで、その無限を拒み続けているのですか?」と、言いたいのですよ。
あなた方は、今、自分のことを「無限だ」と思っていないのですよ。
「個人だ」と思っている人間に、「無限」が流れますか? 流れる、流れない? 流れませんね。
自分を「個人だ」と言って、制約しているわけですから、束縛しているわけですから…。
「個人だ」と思っていながら、「無限の智恵と力」とが現れる、現れない? 現れないですね。
では、「無限の智恵と力」とを現すには、どうすればいいのですか?
「無限」を認めなくても、「無限の智恵と力」とが現れるのですか? 認めねばなりませんね。
「自分が無限である」ということを、肯定せねばなりませんね。
それは、「宇宙我」、「普遍我」、「大我」、「全我」、そして、「久遠」です。「久遠」ですよね。
この「エネルギーと質料」に、初めがあり、終わりがあるのでしょうか? ある、無い? 無いですね。
「エネルギーと質料」は、「初めなき、終わりなきもの」、そうですね。
だから、「エネルギーと質料」である皆さん方は、この「永遠なるもの」、「久遠なるもの」なのです。