現代の釈迦・イエスと云われた大覚者・知花敏彦先生の言葉です。
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今、皆さんは、「色々と焦りがある」と言います。
その焦りは、「神を肯定」しているから焦るのですか、「神に成ろう」とするからですか?
「神」に成ろうとするから焦るのですか、成っているから焦るのですか? 「神に成ろう」とするからですね。
「神に成ろう」とするなら、成れるの? 成れませんね。
こういうことなのですよ。
「命を得ようとする者は、命を失う。命を放つ者は、命を得る」
というのは、あなたが、「神を得よう、得よう」としたら、得れる者なの、得れない者なの? どっち? 得れない者ですね。
「神に成ろう、成ろう」という意味は、「神に成らない」という意味なのです。
はっきり、もとを正せば、「成ろう」と思う人は、「成らない」のです。
初めから、そのものなのでしょ!
「今から、成る」のですか、「初めから」そうなのですか?
「今から、努力して成る」のですか、「初めから」そうですか?
「神に成る」には、何か努力が必要ですか、儀式が必要ですか、宗教が必要ですか? 必要?
断食とか、滝行だとか、あるいは、野菜を食うとか、必要ですか? 必要?
あなたは、野菜を食ったり、滝に打たれたり、断食をすることによって、「神に成る」のですか、「初めから、そのまま神」なのですか?
もし、人間が徐々に進化して行って「神に成る」ならば、野菜も食わねばならない、滝行もせねばならない、断食もせねばならない。
しかし、元々、もともと何?
「神」ですよ!
焦りというものは、何でしょうか?
焦りというものは、「神」を信じている心なのでしょうか、
疑っている心なのでしょうか?
疑っている心ですね。
「先生、私には、焦りがあるのですよ…」とは、それは、「神」を信じているの?
「自分が神である」ということを、「無限である」ことを、
そのまま信じている人、否定している人?
否定している人ですね。
「焦り」とは、否定論なのですよ。
「肯定」しますと、そこに焦りというものは、無いはずですね。
では、焦る、焦らない?
焦りませんね。
焦りがないとは、何かというと、「安泰」です。「平安」ですよ。
「何を、焦りましょうか!」と、言いたいのですよ。
「早く、成らなければ…」と思えば、早く成れるのでしょうか?
「早く、そう成らなければ…」と言う人がおるのですけれども、早くも、遅くもあるのですか?
「初めから、そうですよ!」と。
初めから、そうなのでしょ!
焦って、成れるものなの、成れないものなの?
認めるだけですよね。
焦る時間があったら、認めたらどう? 認める!?
焦る時間があるならば、認める時間に変えたらどうですか?
「そうだ!」と。
自分が無限であることを、絶対、疑わないあなたに成ったらどうですか? どっちですか?
まだ、疑うのですか?
「何ぜ、疑う!」というのは、その意味なのですよ。