追悼 寺尾常史(錣山親方) | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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いくら何でもこれは…私の大相撲青春時代の力士がまた一人いなくなってしまうとは…。

 

元関脇寺尾の錣山親方が亡くなられました。持病の不整脈の影響で今年の秋場所中より入院生活を送っており、死の前日に容体が急変したそうです…。

 

昭和末期から平成10年代にかけて絶大なる人気を誇った美男力士であった。昭和38年に当時現役の<二代>鶴ヶ嶺(後の<十四代>井筒親方)の三男として生まれたが、相撲は安田学園高校に入学してから始めたが昭和54年5月場所千秋楽に母が亡くなり、その母の遺言により高校を中退し父が師匠である井筒部屋に入門し、昭和54年7月場所に母の旧姓である寺尾を四股名にして初土俵を踏んだ。

その後昭和59年7月場所に十両に昇進し部屋伝統の四股名である源氏山を襲名するも負け越した事もあって翌9月場所に元の寺尾に戻し、昭和60年1月場所に十両優勝を果たし翌3月場所に次兄の<四代>逆鉾が待つ幕内に昇進し194年振りの兄弟同時幕内となった。

 

新入幕の場所は負け越して翌5月場所は十両に陥落したがそこで2度目の十両優勝を果たし、更に翌場所である7月場所に再入幕して以降は幕内に定着。細身の美男力士で回転の速い激しい突っ張りを武器にした颯爽とした相撲振りもあって絶大な人気を得るようになった。

そして昭和61年9月場所に初の三賞である敢闘賞を受賞、この場所は次兄の逆鉾も技能賞を受賞しているので史上初の兄弟同時三賞となった。その後昭和63年1月場所に横綱大乃国を破って以降は上位陣に勝つようになり、平成元年1月場所に横綱千代の富士を破って殊勲賞を受賞し翌3月場所に関脇に昇進、次兄逆鉾と並び兄弟関脇となった。そして平成元年9月場所~平成2年11月場所の連続8場所を関脇・小結で過ごし、正にこの時期が全盛期であった。

その後平幕に落ちて以降も度々上位陣を倒し小結に何度も復帰し、年齢を重ねても若々しさを失わない相撲振りで長きにわたり活躍するも平成12年7月場所に十両に陥落。その後一旦幕内に復帰するも再び十両に落ち平成14年9月場所に幕下陥落が決定的になったのを機に現役を引退。しかし39歳まで現役を続けた事により青葉城以来の「土俵の鉄人」と言われた。

 

1980年代は私にとっての大相撲の青春時代だったので、当然この方の相撲もよく見ていた。私にとってのこの方のベストバウトは前述の平成元年1月場所の千代の富士戦で、千代の富士がウルフスペシャル(頭を押さえつけての左上手投げ)を打とうとしたところでとっさに出た外掛けで倒した相撲は今でも強烈に印象に残った(但し千代の富士に勝ったのはこの1番だけだった)。

ところがこの方は勝った相撲以上に同じ平成元年の11月場所でその千代の富士に後ろから吊り落されて敗れた相撲や、平成3年3月場所に当時18歳で日の出の勢いの貴花田(後の<二代>貴乃花)に敗れ花道であまりの悔しさに下がりを叩き付けた姿といった負けた相撲でも強烈な印象を残す事があった。

 

現役引退後は錣山親方となり平成16年に独立して錣山部屋を創設、豊真将や阿炎などを育てた。特に阿炎に関しては色々紆余曲折があっただけに彼が昨年11月場所に部屋初の幕内優勝を成し遂げた時は親方としては感慨が深かったと思う。

ただ現役時代の猛稽古により心臓に負担がかかった事もあって晩年は心臓を悪くしておりニトログリセリンが手放せない状態となり、ここ数年は不整脈による入退院を繰り返しており、前述の阿炎の優勝時も入院していたので心配の声も出ていたそうです…。

 

この方の死により俗に言う「井筒三兄弟」は全てあの世へ行ってしまいました…(長男の<三代>鶴嶺山は令和2年に60歳で死去・次男の<四代>逆鉾は令和元年に58歳で死去)。

そしてこの方は花のサンパチ組(昭和38年生まれ)なんでまだ60歳、いくら持病持ちとはいえ今の60歳は…まだ早過ぎるよ…。

 

 

 合掌