① 仏陀(目覚めた人)が説法を躊躇していたときに、梵天(世界の創造主)が説法を勧めたという話(梵天勧請説話)です。中村元著『ゴータマ・ブッダ』では「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。〔おのが〕信仰を捨てよ」と訳されています。
② ひとは信仰によって激流を渡り、 精励によって海を渡る。 勤勉によって苦しみを超え、 智慧によって全く清らかとなる
(スッタニパータ)
①と②の信仰に対して、矛盾を感じる人がいますが、私はどちらも、仏陀の教えだと思っています。 真理に目覚めた人仏陀は
当時のインドでのバラモン教ではすべてのものを創造したようなブラフマンのような神を信仰していた。 そのような神の信仰は捨てなさいという事。 仏陀は天地を司るような帝釈天のような神も鬼子母神のような鬼神も解かれているが、法華経では仏の法を伝えるものの守護神とされている。 そういう意味からは神仏習合
仏陀の教えは真理である縁起の法です。 すべてが神によって、操作されてしまうのなら、個人が犯した、悪の行為もすべて神の性になる。 良い行為も悪の行為もしてしまうのが、人です。 自身の悪の行為も神の性にしてしまう教えは仏教にはありません。 台風のように、すべてを破壊し多くの衆生に苦しみを与えるのが神なのか?
地球の大地や、太陽なども、永遠だと思われている中にあって、仏陀はすべての森羅万象は諸行無常、縁によって変化しつづけ永遠なるものはないと説く。 要するに、紀元前450年頃に生じた仏陀の教えは現代の科学をさらに超えた真理の法をとかれている。
私たち人間も多くの縁によって、現在現実に生じている、主体性がない、無我だからといって、何もないわけではない。少なくても自身の善悪の行為はあの世まで相続される。
命に合掌
