方便品 「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり」
道元禅師は『正法眼蔵』に於いて法華経を下記のように言われる
「仏法は、人のしるべきにあらず、このゆゑに、むかしより、凡夫として仏法をさとるなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに唯仏与仏乃能究尽(ゆいぶつよぶつないのうくじん)といふ。」 (二乗は声聞、縁覚)
仏の覚知した「諸法実相」の理(ことわり)は甚だ深く、決して言語表現を超えているから、言葉をたよりに物事を理解しようとする凡人には悟ることはできない。
要するに、法華経は仏でないと理解できなく、凡人には法華経は理解できないと言われる。
日蓮聖人も
末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし但南無妙法蓮華経なるべし、(上野殿御返事) といわれている。
上記の言葉から、仏陀の心の意が説かれている随時意の経といわれる法華経なんて去年の暦だ役に立たないと教えてしまう教団もある。 ここは、それぞれの人が日蓮聖人の教えを、しっかり勉強してほしい。
日蓮聖人が余経も法華経も詮無しといわれる法華経は、当時比叡山の天台法華宗(現天台宗)の修行方法である止観行等一種の高度な瞑想修行で悟る法華経でした。 今でもやられる方がいます。 日蓮聖人も道元禅師と同じように凡人には悟れないから法華経も詮無しといわれている。
ところが、法華経『譬喩品』で釈尊は智慧第一の弟子、舎利弗尊者に対し「汝舎利弗、尚お此の経においては信を以て入ることを得たり。己が智分に非ず」 と戒しめておられます。
日蓮聖人の宗旨はすべて、経文通り、信を以て智慧に代える「以信代慧」であります。 お釈迦様の智慧第一といわれるお弟子さんでも
教えを信じる事により、法華経に入ることが出来た。
信じる事により、智慧がない凡夫でも自然とお釈迦様の智慧が身についてくる。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を
受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う (観心本尊抄)
妙法蓮華経の五字は法華経の題目です。 例えば講演なんかで日本という題文字があれば、島国、侍、
相撲、芸者、忍者、富士山、核被爆国、大和、桜 、経済大国、腹切り、ちょんまげ・・・・・というように日本をいくらでも連想できます。 五字の中身は法華経の全てです。 南無は帰依しますという意味です。
南無妙法蓮華経
こうしたことから、法然上人は、方便で説かれた浄土経だけが易経であり、この娑婆世界を嫌味嫌い、ひたすら、西方浄土の阿弥陀如来に救っていただくしか救われないと比叡山から降りて他力の念仏を広めた。 問題は浄土経以外の経典を自分勝手な考えで、切り捨て法華経などの経典を見るな、閉じろとされた。 後に日蓮から、こうした念仏は強烈に批判されることになる。
日蓮が得度した寺は当時天台密教を中心にした寺で、本尊は虚空蔵菩薩。師匠も弟子の日蓮に後に言われるまで釈迦仏を造立することはなかった
命に合掌
