法華経とは・・・
「法華経」とは略した呼び名で、正式には「妙法蓮華経」といい二十八品(ぽん)から成り立っています。釈尊は成道後、四十年余り色々なお経を説かれましたが、法華経を説かれる直前に無量義経で次のように宣言されました。 「悟りをひらいた仏陀として仏眼で一切の諸法をみると一言では言うことはできない。なぜかというと、人々の性質・欲望はそれぞれ不同である。性質・欲望が不同だから色々に方便をもって説き導いた。それゆえ四十余年いまだ真実を説いていない。」 さらに法華経において「世尊は法久しくして後、かならずまさに真実を説くべし。」「正直に方便をすてて、ただ無上道を説く。」「わが説くところの諸経、しかもこの経において法華最も第一なり。」………等、つまり法華経は釈尊の悟りそのものであり、そこには最高の真理が説かれているわけです。 中でも如来壽量品第十六に、釈尊の壽命は始まりも無い久遠の昔より未来永劫まで無量であり、今も常に滅せず我々衆生を仏道に入らしめ、仏に成らしめんと大慈大悲で教え導いてくださっているということが説かれています。 そのことを心から一念でも信じるとその功徳ははかることができないともあります。悟りを開くために永い間にわたり布施などの修行を積んだ功徳も、釈尊の寿命が無量であることを聞いて一念も信ずる功徳に比べるなら、百千万億分の一にも及ばず、またこの法華経を信じ、読み、そらんじ、解説し、書写する功徳は眼・耳・鼻・舌・身・意(心)が『六根清浄』になるとあります。他にもいろいろな功徳が

 

 

法華経を大切に守る人達を五種法師と呼びます。五種は受持じゅじ、読書、暗唱、解説、書写です。この中で一番重視されるのは受持です。

 

法華経には法華経の教えを受け持する事は難しいと書いてあります。 どこのお寺でも、経を読んだり、暗唱したり解説したり、書写の修行をする寺院が多いと思います。  日蓮宗では妙法蓮華経の受持の為に、南無妙法蓮華経と唱える事が末法での正行となり、そのほかの経を読んだり、暗唱したり、解説したり、書写する行いは助行となりますが、これらの助行もすべて、法華経への受持の為の行となります。

 

 

法華経薬草喩品に
「一味の雨を以って人華を潤し各々実を成ずることを得せしむ」 と説かれていますが、天から雨が降ればどんな木でも草でも潤うように、お釈迦様のお悟りから一切の仏法は出たのです。 木や草にも大きい木とか小さい草とかがあって、たくさん雨をうけたり、少ししか受けなかったりするのは、それは草木の方についていうことであり、仏様の雨の方に於いては平等にして一切差別なく与えれたものであります。 その意味を悟られれば一切経はみな法華経によってそれぞれの意味を与えられ、統一されるものなのです。それはあたかも、すべての川が大海に流れ込むようなものです。 このように釈尊の教えは法華経によって統一されます。 そうした眼で原始仏典やその他の大乗仏典を読んでいかれれば、すべてが一つの悟りに導かれるためのものであったことが悟られるはずです。


法華経については道元禅師も遷化される庵を「妙法蓮華経庵」と名付けられましたし、ご著書の「正法眼蔵」は法華経の解説書です。臨済宗中興の白隠禅師も法華経によって大悟されました。また、良寛様もいつも無一物の庵でも法華経は常に読まれて法華経に関する詩を多数遺されています。


有名な行基菩薩も中国から鑑真和尚が来日されたときに、船までお出迎えされ、
「霊山の釈迦のみもとに誓いてし真如つきせじあいみつるかな」
と歌われています。この意味は、あなた様とわたくしは昔釈尊ご在世の時に、霊山会上において法華経のご説法を一緒に聴聞し、未来永劫お互いに仏法のために働きましょうと誓いあいましたが、その因縁が尽きないで今日ここにお会いできて、まことに嬉しいとのことです。非常に感動的なエピソードです。

 

良寛さんの利他行である 子供たちへの思いやりは素晴らしい事で、これも菩薩道です。

 

婆の70日間くらい自粛していた、デイサービスも始まりました。 

 

介護士さんのお仕事も、報酬は低いようですが、利他の為の菩薩道につながっています。

 

介護士さんありがとう

 

南無妙法蓮華経

 

合掌