日常の生活の中で、仏教を取り入れ、実践することで、苦の解決に繋げる、
最初に仏教には、末法という教えはあっても、終末論という教えはありません。 終末論を語る者は、仏教者でない、そして自分は仏陀の産まれ変わりだというような、人も、経典からは嘘です。 新興宗教が悪いというのではなく、信教の自由ですから、あくまで、気をつけて、法灯明、そして自灯明に従って、歩んでください。 坊さんでもない私ですが、理解している範囲でお話しします。
私は日蓮宗檀信徒ですが、他宗派や、一神教であろうと、良いところは取り入れるつもりです。
下記は 禅宗さんのブログからです。
大乗非仏説について・・・
近年における仏教界の衰退とともに、仏教を学問研究の対象として扱う傾向が優越的な状況となっています。大乗非仏説というのもその流れの一つです。その影響か、最近は原始仏典に向われる方が多いようです。原始仏典を研究されること自体はとても良いことだと思います。ただ、もし原始仏典のみが仏説であり、大乗は仏説ではないと考えたとすれば、それは我々の仏教理解を浅薄な段階に止めてしまう恐れがあります。 まず、原始仏典も大乗経典もともに仏滅後に編纂されたものであり、釈尊の直筆ではなく、その意味でいえば全て非仏説になり、仏説は存在しないことになってしまいます。これに対し、原始仏典は阿難尊者が全て記憶していたから仏説であるといわれる方もいます。非常に頭の良かった阿難尊者は釈尊在世中には悟りに至ることができず、仏滅後に迦葉尊者に師事して悟られたともいわれており、確かに原始仏典は、事実としてはよく仏説を伝えているはずです。しかし釈尊のご説法を受け止める側の境地の深さによっては、釈尊の内面的悟りの境界を直接的に文字で表現するのに、また違った表現手法が必要となってくるのは当然であると考えられます。要は、事実に忠実に「言行録的」に表現したのか、悟りそのものに肉薄するために比喩等を用いて「戯曲的」に表現したのか、の違いであると思います。なお、仏説であるか否かの判定基準については古来より三法印、四法印によってなされることになっておりますが、それで十分であると思います。 実証学的アプローチによって仏教を研究することはある意味、救いの体系としての生きた仏教を一旦殺したうえで、死物として研究対象にしている感があります。それは我々を科学的精神という救われがたい懐疑主義に陥らせることになりそうです。
- 諸行無常(しょぎょうむじょう):この世の中で常であるものはなにもなく絶えず変化している
- 一切皆苦(いっさいかいく):一切は皆苦であると知ること
- 諸法無我(しょほうむが):本来、我(われ)となる主体はない
- の三法印(さんぽういん)をお説きになりました。また、この三法印に、4.『涅槃寂静(ねはんじゃくじょう):一切のとらわれやこだわりを離れた姿』を加えて四法印(しほういん)と呼び、これら三法印・四法印は仏教の根幹をなすものとされています。
無我観から大我へ・・・
菩提心は無常観のことであると申しましたが、仏教である以上その点は最後まで貫かれます。全てのものは無常であり、無我です。当然自分自身も無常であり、無我であり、空なるものです。ここまでのところをじっくり修行によって体得していくわけです。禅宗で「無字の公案」などによってやっているのはそれですが、そこまで到達するのが非常に大変なので、そこで終点かと考えられがちですが、その先にまだまだあります。つまり単に無我で終わってしまっては途中なのです。一番分かりやすいのが、十牛図です。人牛倶忘までいってもまだ先があるわけです。天台教学的には空観から、仮観に進み、中道実相観に至ります。ここに至ってようやく「大我」といわれるような悟りと慈悲の境地に立って衆生を救済するといった境界となります。弟子の道としての小乗仏教では「阿羅漢」を最高位とするのは衆生の救済というよりむしろ自己の救済までをゴールと考えたためです。
私は法華在家信徒ですから、一種の瞑想のような行で悟るのは、出家でもしない限り、難しそう、
大我は日蓮聖人が唱えた、 唱題行が中心になります。 釈迦牟尼仏の本弟子の上行菩薩の境地に立たれた日蓮聖人の弟子として、法華経の教で、お釈迦様が、我本菩薩道の修行によって、寿命が今も滅していない、現在も続いていることを実証するためにも、この娑婆世界で、菩薩道の修行をする。 行は業につながる。 修行は修業でもあるから、楽な事はない。 楽だったら、修行にならない。
合掌
