日本人の意識としては、
機会の平等は担保すべきだが、結果の平等は甘受しなければならない、という不文律があると思う。
私自身もそう思うが、最近この言葉には落とし穴があると思っている。
今、この国で生きていくには、ある程度のカネがなければならない。
ある程度の学歴がなければ生産性の高い職には就けず、低所得に甘んじなければならない。
例えば、親が裕福で教育熱心な家庭に育ち、幼少の頃から塾通い、進学校に入学したとする。
片や、親が貧乏で進学を諦めなければならない子どももいる。
いや、被災地域を見てもそうだが、そういう子どもたちは長引く不況で増えている。
この二人の子供に機会の平等が与えられているだろうか?
デフレで格差が固定した世の中である。
私が子供の頃は「俺は中学しか出てないけど、今やその辺の役人なんぞよりよっぽど稼いでるぞ!ぐははは」
みたいな親父が近所に必ずいたものである。
それはインフレだったから、なし得た所業であろう。
デフレの今では、いわゆる下剋上はありえない。
昔に比べれば、はるかに狭き門であることは確かであろう。
機会の平等を担保するには、ある程度の結果の平等を担保するべきではないか?
教育投資は何より重要な国家戦略であると考える。
本当の意味での機会の平等を達成するために、国家は教育にかかる費用を可能な限り減免すべきだ。
ダイナミズムのない社会は必ず没落する。
インフレと教育投資の充実した社会を構築しなければならない。
子どもは国の宝なのだ。