■「無知」だと無罪になる

私の母親は
「無知」で武装した人です。

幼いころから観察していますが
本当に学ぶ姿勢がありません。

学ぶ姿勢を持つかどうかは
個人の自由なので
それだけなら何も問題ありません。

問題なのは、
何も知らない自分を
責めるあなたはおかしい
」と
「無知」を武器として使うことです。

母親が無知なために
他者に嫌な思いをさせても
知らない自分を責めるのは筋違いだ
として、当然のように
謝罪なしに終わるからです。

まさに「無知」で武装した人です。


母親は
本や新聞をまったく読んだり、
講習会に通ったりといった
”知識を得る”とか”勉強する”は
絶対にやりません。

まるで
知識を得ることが不利益になる
といった感じです。

だから、
「なんとなく、こんな感じだろう」
という感覚だけで判断して
生きています。

その一方で、
テレビやラジオで聞いたことを
信じる力がものすごいです。

誰が言ってる、とか、
その根拠を確かめる、とかではなく
ただテレビやラジオで流す情報だから
という理由だけで信じてしまいます。

それが発信者の私的な見解だとしても
それが世界共通の真実だ、くらいに
信じてしまいます。

その発信者と私の意見が違うときは
子である私ではなく
テレビやラジオの発信者の方を
信じるほどです。


家のことは父親が決めるのですが
それは専業主婦の母親にとって
都合が良いことでした。

なぜなら、
自分は決定する必要がなく、
その判断能力も
持ち合わせていないために、
責任を問われることがないからです。

そのときに重要なのが
無知であること
というわけです。

何も知らずに
父親の言ったとおりにしただけなら
その行為の責任は
指示した父親にあって、
実行者の自分には皆無である、
という理屈です。

「無知であること」が
自分を守ってくれる、という
利益をもたらしてくれるわけです。

もし他者に迷惑がかかると
「しょうがないな」と指示した人が
(ほとんどの場合は父親が)
後始末せざるを得ないような
状況をつくり出して
後始末をさせます。

その後は、母親は、
後始末を済ませた指示者が
自分に怒りをぶつけたいだけ
ぶつけさせて
それに耐えきれば、
自分は他に何もせずに
その一件を済ませることができます。

これが本当に徹底してます。
本当に筋金入りの頑固者です。

父親にも
その親にも、自分の親にも、
親類にも、
子どもの学校関係の人たちにも、
さらには自分の子どもたちに
対してでさえも、
「無知」を振りかざして
責任能力がないことを武器に
自分の身を守っています。

口癖は
だって、わからなかったんだから
しょうがないでしょ
」です。

ガキの使い、とは
こういう状況を示すことば
なのでしょう。

もし「無知」ではなく
判断できるくらいに知識があれば
行為者である自分が責任に問われると
知っているのです。

つまり、
「やりたいけど、できない」
と見せることができなくなり
「できるけど、やらない」
と見られてしまうことを
ひどく怖れて生きている
のです。

その怖れを遠ざけてくれるのが
無知であること」なのです。


私が幼い頃に
母親が「本を読むことは大切だ」と
何度も力説してくるので
「おかあさんは本を読んでるの?」と
質問しました。

なぜなら、
母親が本を読んでいるところを
見たことがなかったからです。

すると母親は
「学校に通っていたころに読んだ」
と回答するだけでした。

「今は?」と訊くと
「おかあさん、本を読むと
眠くなっちゃって
どうしても読めないのよ」
との返事。

その後、私も
字だけの本を読むと眠くなったので
「眠くなって読めないよ」と
母親に言うと
「おかあさんにはできないけど
お前はできるから、がんばって」
との返事。

なんかイイコト言ってる感じですが、
これには幼いながらに
ものすごい違和感を感じました。

それなら母親は
どうして「本を読むこと」が
大切なことだとわかったのだろう?

本を読めない人なら
本を読むとどんな利益があるのかが
わからないから
「本を読むことは大切だ」と
他者に自信を持って言い切るのは
できないのでは?と。

それを母親に話すと
「みんなそうしてるから」
との回答。

そんな「なんとなく」なことを
さも真実のように示すのは
もはや妄言(もうげん)です。

母親は、世の中の頭の良い人は
みんな本を読んでいるから
本を読むことはとても大切なはずだ
という憶測をしているだけです。

その”世の中の頭の良い人”とは
誰のことなのかも抽象的で
テレビやラジオで出てくる人
くらいの”感じ”です。

幼いながらに
「この人に聞いてもダメだ」
との確信を感じました。

でも、
これといって他に訊ける人もいないし
他の大人に訊いても
「親のいうことは正しい」とか
「親のいうことをちゃんときこうね」
とか言われてしまうので、
結局は親に訊くしかない感じでした。

でも、教えてくれることは
あまりにも的外れなことばかり
外で使うと恥ずかしい思いを
することがほとんどでした。

それでも小学4年生の頃、
夏休みの読書感想文の宿題に
向き合う中で、
親とはまったく関係させずに
自分の意志で本を読んだら
最後まで読めるのでは?
」と
すべてを親に秘密で
一冊の本を読み進めてみました。

すると、不可能だと思っていた
字だけの本を辛抱強く読んでいると、
少しずつですが読み進めていけます。

そのうち話の内容が
頭や心に浮かんでくるようになり、
次第におもしろくなってきました。

そうしていろんな感情を感じながら
読み進めていき、
気づくと読了していました。

え?これだけ?
これなら自分にもできる!と
すがすがしい気持ちになったことを
今でもよく憶えています。

そして、
あんまり嬉しかったので
ついうっかり母親に
それを話してしまいました。

だから言ったでしょ。
お前ならできるって。


しかもその後にご丁寧に
父親に報告されていて、
だからお前はできるって
自分は言っていたんだよ
」と
言われました。

すごく嬉しいことだったのに
なんだか自分の手柄を
横取りされたようで、
う〇ちをなすりつけられたみたいに
汚されてしまったようで、
とても悲しかったです。

■弱さで相手を支配できる

野生の世界なら
「無知」であることは
命にかかわることです。

自分を食べる動物を知らないと
簡単につかまってしまいます。

しかし、
人間は社会的な存在なので
知らないことがあっても
命を落とすまでにはならずに
相互に援助して生きていけます。

それが「家族」であれば
より相互に援助する力が
強まります。

なぜなら「家族」は
解消できない対人関係だからです。

それは食べてはいけないよ、と
いくら伝えても
わかってもらえない人が
家族でなければ
「あの人大丈夫かな?」と
心配するくらいで終われます。

でも、その人が家族であれば
どうにか食べないように
するしかありません。

つまり、
「無知」であると
”助けてもらえる”という
利益を得られる
わけです。

努力した上での「無知」や
無知の知のための「無知」なら
”お互い様”と相互援助の心で
まあるく収まっていくでしょう。

しかし、神経症的に
「できるけど、やらない」を
「やりたいけど、できない」と
見せるために「無知」を利用するのは
対等な関係ではないので
まあるく収まらずに問題を生じさせます。

すなわち、
「無知」を使うと
無料奉仕を得ることができる、
言い方を変えると
「貢献の搾取を正々堂々とできる」
という”特権階級”で生きることが
できてしまうわけです


その関係の構造は
支配者と奴隷の関係と同じです。

「無知」は情報が少ないので
本来なら「弱い存在」です。

でも対人関係においては
その「無知」を武器にできます。


無料奉仕をする人は
貢献を搾取されるわけですが、
その貢献によって
「貢献感」を得られると
共同体感覚が高まると勘違いして
「無料奉仕は善いこと」と思って
奉仕を継続したりすることもあります。

しかし、
共同体感覚が高まるのは
互いに自立心がある場合です。

「無知」を武器にする人を相手に
貢献感を得られて、
「自分は役に立った、嬉しい」
と感じて継続してみても、
満たされることはありません。

なぜなら、それは
ただ単に相手を甘やかしている
すぎないからです。

「無知」のような
「弱さ」を武器にする人には、
それを武器にせずとも
安全を感じることはできる
、と
理解できるように援助することです。

具体的には
自分にしか向いていない関心を
他者にも向けられるように
援助すること
です。

そうすれば
今までのと違いを
生み出すことができます。






お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。




・関連記事

罪悪感とは心理的な武器のこと

生きづらさの起源は「甘やかす親」

親以外に甘やかされて育つ場合

「弱さ」を知る人は強い人

広場恐怖症を利用して夫を仕えさせる妻

不眠症の夫人がぐっすり眠れた例

貢献が最も輝くのは、互いに自立心があるとき

母親が示してくれた「相手より自分優先」

ソクラテス「無知の知」は謙虚を生む

「特権階級」で生きる人












ACE COACHING's Service here