■”衝動”を観察する

感情にのまれてしまうと
自分の行動の責任を
感情のせいに
したくなったりします。

しかしアドラー心理学では
それが成立しません。

衝動的になって
自分の意志とは関係なく
「やってしまった」という
言い訳が通用しない、
ということです。

なぜなら人は
目的を持った時に
それにふさわしい感情を創出して
その目的を達成しようとするから、
です。

感情の前に
目的を自分は選んでいるわけです。

これを事前にわかっていれば
自分が感情的になったときに
”その感情の目的”を見ようとすることで
感情にのまれることがなくなります。

感情にのまれてしまうと
その感情にまかせて
行動を起こしがちですが、

行動を起こす前に
感情の目的を見ようとすれば
次に自分がどの行動をするかを
選びやすくなるからです。

例えば、買物。

すてきな服を見つけると
つい欲しくなります。

その「つい」の時点で
目的を持っているわけです。

その服を着たら
すてきな自分になって
モテるのではないか?とか

気になるあの人が
自分に魅力を感じて
関係が近くなるかもしれない、とか

みんなはきっと
こんな服を自分が着るはずがないと
思っているに違いない。

そこにこれ来て行けば
みんなはきっと驚いて
自分への関心を増やさずには
いられなくなるだろう、とか。

「すっ」と
通り過ぎるかのような
その刹那に自分は
目的を感じています。

その目的は
言語化されていないので
思考では追いつけず
感覚で感じるだけです。

その感覚が感情として
「あ~、これ欲しい」みたいに
目的達成へ向けて行動を促すように、
自分の背中を押すようにして
作用している、というわけです。

その感覚にのまれてしまうと
見つけたその服を買った後に
「??なんでこれ買ったんだ??」
なんて思ったりするわけです。

買った金額を見て
理性的な自分が後悔する話は
良く聞く話です。

なので
その服を買う前に
”欲しくなった自分”を感じて、
「その服を買うと何がおきると
自分は思っているのか」を
冷静に見ていくことで、
衝動的に買うことがなくなります。

こんなことは
暴力についても言えます。

「つい感情に任せて殴ってしまった」は
アドラー心理学では成立しません。

目的を達成するためには
相手を殴る必要を自分は感じていて、
それを促すためにふさわしい感情を
自分の中で”自分が創出”しているわけです。

なので「つい殴った」といって
自分も”殴らされた被害者”だから
自分は無罪だと主張する人は
「殴る必要があったので殴りました」
と言っているのと同じなので、
その無罪は成立しません。

■感情を活用している自分

アルフレッド・アドラーは
感情について次のように
言っています。

”人間はライフスタイル(性格)に
沿って行動します。

しかしそれが
コモンセンス(共通感覚)と
相違するときに
自分のライフスタイルを
押し通すために
感情を創出して利用するのです。”


例えば
濡れ衣を着せられたときに
「悲しい」を使う人は
悲しむ自分を見せることで
自分を押し通そうとしています。

そんなことをする自分ではありません。
どうかわかってください、と。

また「怒る」を使う人は
怒る自分を見せることで
自分を押し通そうとしています。

自分はやっていないと
何度言ったらわかるんだ!みたいに。

さらには
「喜ぶ」とか「楽しい」とかも
使うことができます。

また例えば
「手紙を書く」を困難に思う自分がいたら
「面倒くさい」とか
「今は疲れてるから無理」とか
「手が痛いからできない」とか
”やらなくて済む”にふさわしい感情を
作り出して、やらずに済ませようとします。

しかしそこで
「手紙を書くのが困難だと
自分は思っているんだろう」と
感情の目的を察せられると

「無理でもちょっと書いてみよう。
書いてみてダメなら書き直そう。
別に今日発送しなくてもいいから」と
やさしく自分を本来の目的、
よくあるのがその目的が
「重要だが緊急でないこと」を
再確認でき、腰が重たくても
軽いところから着手できるように
自分を促すことができます。

そうして
本来の自分の重要なことを
少しでも進められるように
自分を制御していくことが
できる、というわけです。





お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ9年目、常楽でした。



39 感情を「感情」として見る力(無執着:Detachment)
感情の目的も気にすると、より幸福になる
感情の使い方。それは目的の確認。
不安の目的
感情は、まるでう〇ちと同じ
支配したいか、対等でいたいかで、出る感情は違う
合理的な自分、感情的な自分