美徳の承認その43/52
【やすらぎ:Peacefulness】

■やすらぎとは

やすらぎとは
自分自身の「心の穏やか」を
唯一の目標とする力です。

心が乱れたときに
その心を観察して
「どうすれば穏やかになるか?」を
見つけて行動にうつす力です。

あなたが「心の穏やか」を
唯一の目標とする限り
あなたが平和になり
その平和はあなたから
周囲へと広がっていきます。

そうして
平和を創造することで
自分も相手も
安心して暮らすことができます。

そんなやすらぎは
あなたも私も
誰もが生まれながらに
持っている力です。

怒り出して
自分の課題の責任を
相手に押し付けたり
相手を攻撃したりする人は
やすらぎを持っていないのではなく
使っていないだけです。

やすらぎは
あらゆる人が
いつでも使える力です。


■「自分より相手優先」

もし相手を排除することで
「心の穏やか」を手に入れるとしたら、
それは
「相手より自分優先」な行為です。

そうして相手を排除しつづけたら
誰とも関係を持たずに生きること、
すなわち孤立していくことになります。

アルフレッド・アドラーは
孤立は「社会的な死」と言っています。

つまり
「相手より自分優先」に
「心の穏やか」を目指すと
自分を「社会的な死」へと
進ませるわけです。

「社会的な死」へと自分を進めるのは
生きるのに役立ちません。

だから「心の穏やか」を求める方法は
「自分より相手優先」な心で
選ぶことが大切です。

例えば
イヤなことをされたら
相手が嫌がることをし返す。

すると相手はさらに
自分に嫌な思いを
させたくなるでしょう。

イヤなことをされたら
「どうすれば自分の心は穏やかになるか」
を「自分より相手優先」な心で探します。

すると自然と
「対話する」にたどり着きます。

「それはイヤだからやめてください」
より詳しく言えば
「それをされると私は心の穏やかを
感じることができません。
心の穏やかを感じたいので
今後それを私にしないでください。」
ということです。

そう伝えて
「イヤなことだとは
わかりませんでした。ごめんね。」と
理解してくれると終わります。

そう伝えて
「そんなの知るかよ」など
対話にならないなら
とっととその場を立ち去ることです。

対話をする準備が
相手にできたときに
改めて対話すれば済みます。


■自分の課題

自分が「心の穏やか」を
得られるかどうかは
自分の課題です。

相手に何かされても
自分の「心の穏やか」を
得ようと思考・行動することは
自分の課題なので
自分で決めることができます。

相手が自分にしたことについて
あれこれ言っても
相手がすることは
相手の課題なので
自分が決めることができません。

相手の行動について
善悪の評価を下しても
相手の課題なので
ただ評価するだけで終わります。

それはちょうど
相手が自身の住居で使っている
家具について善悪を言うのと
同じです。

相手がどの家具を使おうと
それは相手の自由です。

自分がいくら
「その家具を使うのはおかしい」
「その家具を選んだので合格です」
などと言ったとしても
その家具の決定権は
相手のまま動くことはありません。

自分に評価を下された相手は
越権行為をしている自分を
不快に感じることでしょう。

だから相手の課題は相手に任せて
自分は自分の課題に
取り組むことです。

どんな事態になっても
自分の「心の穏やか」を
手に入れる、という課題として
扱うことができます。

例えば
相手が自分に
「あなた頭おかしいよ」と
言ってきて
自分の心が乱れたら
「どうすれば心の穏やかを得られるか?」を
考えます。

相手の態度や
失礼なことを言うことを
あれこれ言っても
それらはすべて相手の課題です。

相手は言いたいことを
言っただけです。

それよりも自分の課題として
「そう言われて私は悲しいです」
「その言葉はイヤな気持ちになります」
「おしえてくれてありがとう。さようなら。」
「参考になります」
「頭がおかしく見えるのは、どこですか?」
などと応じれば、こじれずに
対話することができます。

やすらぎの真価が発揮されるのは
自分の課題を見出して
それに取り組むときです。

つまり
主体的な自分になって
自分のことは他人に決めさせず、
自分のことは自分で決めると
「心の穏やか」は得られる
というわけです。



お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ9年目、常楽でした。


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