こちらの記事「地球の変化に耳を傾ければ」の連載ですので、是非テーマ「地球の変化に耳を傾ければ」の一覧から入って古い記事から読んで頂くことをお勧めします♪

リンクはこちらから→「地球の変化に耳を傾ければ」




 日本で一番有名な神である天照大神と須佐之男(スサノオ)は、日本の始祖である「イザナギノミコト(男の神)」と「イザナミノミコト(女の神)」の子供として生まれた神です。


(↑画像はイザナギとイザナミ)



 子供と言っても、二人はイザナミ(女の神)から生まれたのではありません。

 古事記によると、天照大神と須佐之男(スサノオ)が生まれたのは、イザナミ(女の神)が黄泉の国(死者の国)に行ってしまった後です。母がいないのに、どんな経緯で天照大神と須佐之男が生まれたのか、古事記の内容を要約して紹介します。


イザナミ(女の神)が黄泉の国に旅立った後、イザナギ(男の神)はイザナミ(女の神)を追いかけ、黄泉の国に行きます。

しかし、そこでイザナギとイザナミは喧嘩をして、すったもんだした後、イザナギ(男の神)黄泉の国から逃げ帰ってきます。

 そして、イザナギが川で禊をした時に、天照大神と須佐之男(スサノオ)は生まれました。禊の際、左の目を洗って生まれたのが天照大御神(あまてらすおほみかみ)。右の目を洗って生まれたのが月読命(つくよみのみこと)。鼻を洗って生まれたのがと建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)です。


 かなりはしょりましたが、これが古事記の中に残る天照大神と須佐之男の誕生のくだりです。


 一番有名な神である天照大神と須佐之男は、神話の人物、つまり空想の人物や神だと捉えられがちですが、実際に存在していた方が神として祀られていると考える方が歴史に即していると言えます。


 神話の時代、天照大神は九州地方におられた氏族の長であり、須佐之男は出雲の地域におられた氏族の長であったと考えられており、想像の神ではなく、実際にこの地で生きた方が神として祀られていると考えるのが一般的です。更にこの二つの氏族は縄文時代の末期(今から3千年以上前)海外からやってきたと考えられています。


 以前、枚方神社の宮司と古事記の話をして意気投合したのですが、古事記を詳しく解読なされている神職の間では、天照大神や須佐之男は海外からやってきたと考えられています。


 天照大神は音の響きそのままに、アマから。それは天という意味ではなく、「あま」=「海」からやってきた氏族であると。一方、出雲の地に降り立った須佐之男は、陸経由でやってきたと。更にこの二つの氏族の出発点は、中東にあったと言われています。


 この説を持って、日ユ同祖論を唱える訳ではありません。


 失われた10氏族の話は、紀元前600年から1500年程前(天照大神や須佐之男の伝説の時期と被ります)の事と言われています。その時既に日本は、縄文時代や弥生時代などの文明があり、多くの人々がこの地で暮らしていました。

 縄文時代においては、今から一万五千年前にはあったとされる超古代文明です。学校では、その日暮らしの生活レベルが低い文明社会であったと多くの人が教えられていると思いますが、最近の研究では、縄文時代の人々は、ワインやピザのようなものを食していたことが分かってきています。

 服に関しても、アイヌの民族衣装と酷似した服を着ていたことが調査で分かるようになっており、世界に点在する古代文明に劣らない、もしくはそれ以上の文明を築き上げていた文明であると思われます。


(最近の研究で分かってきた縄文時代の服装。割とおしゃれ)




 私は、大和族や出雲族の始祖である天照大神や須佐之男は単に中東から日本にやってきた移民ではないと思っています。元々、縄文時代に日本で暮らしていた民族の一部が、中東まで出向く行脚の途中で世界各地に文明を作り、そしてまた日本に戻ってくる途中途中でシュメールなどの文明を作り帰ってきたと考えています。


 同じような説は、古事記にも出続けてくる武内宿禰(たけのうちのすくね)一族の口伝である「正統竹内文書」にも出てくることから、私個人はこの説に確信を持っています。



(正統がついてない竹内文書は偽書です)



 日ユ同祖論の主体は主に、日本人はユダヤの子孫であると語られがちですが、私はユダヤこそが日本人の子孫であると考えています。(ちなみに現在のユダヤ民族と古代ユダヤ民族は、民族の主体が違うと言われています。)


 すなわち、天照大神と須佐之男の祖先の出発点は縄文時代の日本にあり、それが長い年月をかけて再び日本に帰還することになったと考えています。


 これが日本温存の種とどう結びつくのか、次の項目で話をもう少し深めていきましょう。