前にも「スピリチュアルにはまって不幸せになる理由」っていう記事で軽く触れていた「神の思し召し」なんだけど、この感覚が多神教と一神教の世界ではまるで違うっていうことをずっと説明していなかったなって思ったので、今さらながら補足記事。


前の記事の説明では、

一神教の世界であるキリスト教信者は、全ての行動は「神の思し召し」だと考える。

今日着る服も、食べるものも、出会う人も、何から何まで、神の思し召しで自分の意志ではないという考え方が根底にある。



っていう説明しかしなかったのだけど、この考え方って実は日本にもあるよね。

別に一神教に限ったことではないよね。


ただね、大きな違いがあるの。


私たち日本人は多神教の世界に住んでいるから、「神の思し召し」と言いながら、その「神」を自由に自分で選択することができるの。

「神頼み」もそうだよね。八百万神の中から、自分の願いに合いそうな神を自由に選択できる。

一神教の世界は、ずっと一人の神様だけ。

キリスト教ならずっとキリスト一人だけ。

これがすっごい大きな違いなの。



例えば、合格祈願だったらどこに行く? 

きっと一番多いのは天満宮。道真公の力を借りようとするはず。

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写真は錦天満宮


縁結びだったらどこに行く?縁結びで有名な神社にきっと行くよね。出雲大社や東京大神宮とか。

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写真は出雲大社の後ろからの写真。


厄除けだったら、厄除け大師のお寺で祈祷してもらう場合もあるだろうし、氏神様でお祓いしてもらう人も多いでしょう。

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写真は深川不動尊


他にも、交通安全、家内安全など、それぞれ得意だと言われる神様が日本には沢山いる。

日本の神様は全知全能というよりも、神それぞれに専門分野がある。

だから、選択肢が広がるし、選択する自由も許されている。


だから、「神の思し召し」一つとっても、その時その時自由な神の選択ができるというのが多神教ならではの考え方になる。


だけど、一神教は常に一人。

キリスト教だったら常にキリストからの思し召ししか存在しない。


だから西洋のスピリチュアルリストは「自由意志」を発動させるの。

キリスト以外の選択肢を持つために。

それが「自由意思」なの。


日本人はそもそも神の選択の自由がある。

だから「自由意志」は発動させてはいけないの。

そもそも自由であるということをまず認識して、だからこそどんな現実もあるがままに受け止める必要があるの。

だって私たちは多神教の世界観の中で生きていて、神を時と場合によって選べるのだから、西洋の人たちのような「自由意志」を発動してはいけないの、絶対にねv(^-^)v。